第175話 船底の祈り
やがてお迎えの馬車は、宮殿ですかと言いたくなる屋敷がどっしりとそびえた正面に止まった。玄関の扉が大きく開かれて、外にも中にも、黒のお揃いを着た、たくさんの使用人さん達が2列に並んでいる。
紹介してくれたパーシバルさんによると、まだ若い執事さんらしき男性と、黒絹の地味なドレスを着た、そろそろ老齢に差し掛かる女性は、ランベルさんの奥さんと息子さんだった。
お迎えの挨拶を受けている間に、涙を堪えている使用人さんが何人かいた。お客様や主人の前で感情を出すのはよろしくないそうだが、使用人仲間が殺され、ディオ兄が連れ去られた経緯から感情が抑えられなかったようだ。
ディオ兄は、遠慮がちな視線が自分の身に集まっているのを感じつつ、背筋をのばして顔を上げ屋敷に案内された。
サリーナ先生がディオ兄を気遣って、緊張している肩に手を置いた。
「ディオ様?お顔がすぐれませんが?」
「だいじょうぶでちゅか?ディオ兄」
「あ、うん。今まで、お母さんの事いまいちピンとこなかったけど、本当にいたんだなって…馬鹿みたいなこと思っちゃって。気の毒な死に方をしたと知っていたけど、あの人達の反応を見て本当の事なんだと初めて実感した」
「お前はその頃2歳だったんだ。明日のお墓参りで無事を報告してあげなさい。お母さんは無事を喜んでくれるだろう」
パパの言葉に、「はい」と静かにディオ兄がうつむいた。
見るからに気落ちして可哀そうだな。
「ディオ兄が悪い人に攫われそうになったら、アンジェが守りまちゅから安心してくだちゃい」
ディオ兄はちょっとびっくりした顔をすると、ぷっくりと頬を膨らませた。
「それ、俺のセリフだよ。俺はいつだってアンジェを守れるように、弾弓を持ってきてあるんだからね」
「ふお!それにゃら、アンジェと一緒に戦えるでちゅね。アンジェはマンゾーニ卿から貰った短剣を持って来まちた」
マンゾーニ卿に、これ、お気に入りですよー!ってアピールするためだ。
これも可愛い幼児のうちに人脈を築くための心遣い、世渡りである!
「ふふ、そうだね。いっぱい暴れて悪い奴をやっつけよう♪」
「ハハハ、そうそう悪い奴には会えないと思うよ」
パパはそう言って、あたし達の頭を撫でて笑った。
客用の居間に通されると、そこには、エルハナス家の家族が初めて一堂に会することになった。カメリアママ、カラブリア卿、フェルディナンド兄様が待っていた。アルゼさんは王都から遅れてやって来るそうだ。
気取らない明るい声が部屋に満ちて、婚約式の祝福の言葉を頂いた。
あたしとしては、婚約なんて先行き不安だが今を受け入れるしかない。
まあ、なんとか、なるようになるでしょう。
「アンジェ、ディオ、船旅はどうだったかしら?」
そういうと、ママはあたしとディオ兄を一緒にぎゅっと抱きしめてくれた。
パパによると、こんなふうに庶民的な振る舞いで、感情も露わにする貴族の女性は少ないらしい。
「カメリア様、お迎え有難うございました」
セルヴィーナ叔母様が船を出してくれた御礼を言って、再会を喜んでいる。
気さくに話を始めたふたりをみてディオ兄が囁いた。
「セルヴィーナ叔母さまと姉上、どっちも素敵な女性だね。アンジェは強いから姉上みたいになるかもね」
ディオ兄が手を繋いでいた手をキュっと握り直して微笑むと、パパがそれを聞いて、深い紺の艶やかな髪のママの横顔を見つめて言った。
「アンジェがママみたいな女性になってくれると嬉しい…。あ、そうじゃないな、それは違うか。パパは、アンジェがいつか自分がなりたい、っていう大人の女性になってくれると嬉しいな」
国で初めての女性騎士となったカメリアママ、綺麗なだけじゃないクールビューティーなママはあたしの憧れだよ。
きりっとした気品と、時に見せる鋭い眼光は、武人の風格ならでは!
パパ達と飢餓革命を終わらせて、隣国の国境侵略をパパと共に何度も撃退したママは、多くのひとから尊敬を集めただけでなく、女性の立場と権利を劇的に上げた功労者だもんね。
戦場では物凄い通り名がついたらしいが、それについて以前パパに訊ねたら「聞かないでおくれ」と真剣な表情で言われた。なんで?
「アンジェもママみたいなカッコいい女性になりたいでちゅ」
カメリアママから後光のように笑顔が広がった。どうやら聞こえたみたい。
やっぱり良い子ねえ、と心の声が念聴なしで頭に流れ込んできて、ママに抱きしめられた。
セルヴィーナ叔母様と目が合うと、彼女はニコニコといった。
「強い女性になってね、アンジェ。自分で未来を切り開けるような強い子に」
こちらを見ていたセリオンさんとパパの表情が、心なしか浮かない気がするのは何故だろう?
「俺はアンジェが今のまんまで可愛いと思うよ」
ああ、美少年の微笑みが目に沁みる。ディオ兄かわいい…。
「ルトガーさんもディオも…俺はどんな未来でも、何かしでかさないか心配でたまらんのに…」
ちくせう!いつもセリオンさんはひと言いってくれちゃう!言い返せない自分が情けない!
久しぶりに会ったフェルディナンドお兄様と、従者のリアムくんは、背がさらに高くなっていた。もう大人に近い体格だが、とくにお兄様は、パパとママの身長を考えたら、まだまだ伸びそうだ。
お兄様は正式に婚約が行われるまえに、かつての婚約者が彼女に会いに来ないよう牽制するために王都に残っていたそうだ。
ひさしぶりに会うお兄様が、謝罪して言った。
「ごめんなアンジェ。バッソに会いに来れなくて。王都でいろいろあって帰れなかったんだ。詫びの代わりに王都でボンボンを買って来たよ」
差し出した綺麗な瓶の中には、パステルカラーのピンク、イエロー、ブルー、グリーンのきらきらした砂糖菓子のボンボンが一杯つまっていた。
うひゃー!最近無くてもフレッチャ達と話ができるので、パパが買ってくれなくなったのよね。これ大好きだったの!美味しいのよ♡
「ボンボン大好きでちゅ!優ちいお兄様ちゃまも大ちゅき♡」
「ふふ、可愛い妹だなぁ、アンジェは」
お兄様は屈むと、しっかりあたしを抱きしめてから頭を派手に撫でた。
ついでにパパとママからも撫でて貰えた。
*よしよしよし* *なでくりなでくり*
ふぁ~、甘えん坊接待ありがとうございます♪
はうっ!(汗)なんかトゲトゲしい視線を感じるんですけど!!!
背中を這う、ゾワゾワと毛穴を逆立てる冷気を感じていると、わんこ神が飛び起きた。
『ちょっ!ちょっと待て!この視線…もはや人間の領域を超えておる。ディオが、もし非業の死をとげたら確実に祟り紳になれるぞ』
わんこ神が絶賛した先には、ディオ兄が明るく微笑みながら、禍禍しい冷気を放っている。なんて器用、あれなら大人になって一流の社交術を発揮するに違いない。表裏を使った腹芸とか得意になりそう。
いやいや、その前にあたしがそんな不幸を阻止するけど。
しかし、ディオ兄はどうしちゃったの?何が気に障ったのかしら?
そんなディオ兄の黒い微笑に気がつかないのか、カラブリア卿が平常心のまま話をすすめた。
「明日の墓参り、3日後日の婚約式。その後はセリオンの叙勲式だ。マルヴィカ卿とマンゾーニ卿もいらっしゃるから忙しくなるぞ」
マンゾーニ卿がいらっしゃる、目的はセリオンさんの叙勲式の立ち合いだけど、スレイさんのその後の様子を教えて貰えるかもしれない。
ソファーに座っているパパの脚に抱きつくと、膝に座らせてくれた。
「パパ、マンゾーニ卿にスレイしゃんはどうなったか尋ねて良いでちゅか?」
「ああ、もちろんだ。ダリアにそれを聞かせてやろうと思ったから、わざわざカラブリアに連れて来たのだからね。
今、カラブリア卿から聞いたのだが、良い報告が上がっているらしい」
良かった!使用人控室にいるダリアさんに早く教えてあげよう。
* * * *
アンジェがカラブリアの屋敷に到着した頃、リゾドラードからアルゼの島へと帆を張った船が一艘向かっていた。
妙なことに、その船はたいした荷物が無かったのに、喫水線が下がっている。
二重になっている船底の中では、下からドンドンと叩く音と泣き喚く声が聞こえたが、たとえ船の外に人がいても、波の音で外に聞こえることは無かっただろう。
船室に降りて来た船員が、その音に気がつき怒りを込め、床板を勢いよく、ドン!と足を踏みおろして怒鳴り散らした。
「いい加減あきらめないと、またぶん殴るぞ!!」
途端に船底の音が止んだ。泣きはらした顔の若い女達は、寒々とした真っ暗な船底で震える事しか出来なかった。
神様どうかお救い下さい、小さく呻くように祈る声が船底のあちらこちらから漏れた。
だが、その祈りに応える業も、慰める言葉も彼女達が得られることは無かった。