第170話 おやすみなさい、よい夢を
仲良しのヤモリンが一緒にいて嬉しいけど、朝夕が少々冷えて来たのに体調は問題ないのかな?
それに、頭に乗ってときどき、まるであたしを励ますように額をぴたぴたと撫でている。
そして、屋敷の図書室にある祭壇の神様にお祈りをしたがるようになった。
『ヤモリン、神様にお願いしたいことでもあるの?』
『あるでゲス、でも秘密でゲスよ』
そうか、やっぱりお嫁さんに会えるようにお願いしているのか。今年は無理だったけど来年こそ相手が見つかるように、あたしもお願いしてあげよう。
* * * *
厩の木箱のなかでヤモリンは考えていた。
― 大天使様が、嬢ちゃんが天使に生まれ変わるという運命を告げたとき、あっしは嬢ちゃんの見届け役を仰せつかったでゲス。
嬢ちゃんには天命があるでゲス。それがどんなものだか、そのときにならないとあっしにも分からないでゲス。
大天使様は、天命を阻まれたなら、嬢ちゃんが天使として生まれ変われないと言ったでゲス。
神様は嬢ちゃんに何をさせる気でゲスか?
あっしはちっぽけなヤモリで、見守るだけで何も出来ないでゲスか?
* * * *
秋が深まりヤモリンがついに冬ごもりすることになった。
虫をせっせと捕獲してくれた働き者の彼に、夜、みんなでお見送り会をした。
パパをはじめ、皆がみな、ヤモリンに感謝の言葉を送った。
ディオ兄と一緒に木箱のヤモリンを覗き込んで、小さな爪の付いた手を、指に乗せてそっと握ってみた。外気温が下がってきたせいか反応が鈍い。
そっと手にのせて、フレッチャとわんこ神の前にお別れをさせてあげた。
『おやすみなさいヤモリン。アンジェのことは任せてね』
『そうじゃぞ、わしらがついているから安心せい』
ヤモリンはノロノロと手をあげた。
『皆さんお元気で…春になったら嬢ちゃんが、もっと大きくなっているでゲスね…楽しみにしているでゲスよ…』
「来年も一緒に遊びまちょ。アンジェは待ってまちゅ」
ヤモリンは満足そうに眼玉をぺろりと舐めると箱の奥に引っ込んだ。
馬房にはフレッチャとわんこ神が一緒にいるから、冬も安心して過ごして貰える。
『おやすみヤモリン、良い夢を』
そのとき、か細くもしっかりとした彼の声が聞こえた。
『あっしは何が有っても嬢ちゃんの味方でゲス…』
『アンジェも!だって友達だもの!』
ヤモリンの返事はもう聞こえなかった。
パパに抱っこされて子供部屋に戻ると一気に眠気が押し寄せて来た。
「お嬢様、おやすみなさいませ」
ダリアさんが部屋を出て行く。ディオ兄もホッペをくっつけて抱きしめると「おやすみ」を告げて退出した。
うーん、眠たいな。ヤモリンの眠気が移ったみたい。ヤモリンと春まで話せないのは寂しいな。
アッカ隊長と再会した後にヤモリについて聞いたが、ヤモリと人間は、以前は仲良しだったと聞けただけだった。
カモの祖先が逃げたくらいだから、楽園は良いことばかりではないのだろう。
まあ、昔話には真実が隠れていることも有るけど、まったく想像の話しというのもありえる。
えへへ、しょうもないことを考えちゃった。余計に眠くなってきた…。
パパがベッドの横に座って語りかけて来た。
「アンジェが差別のない領地にしたいといったとき、パパは嬉しかったよ」
「ふぁい?…」
「パパとママの経験のなかで、一番心がけて欲しいことだったからだ。アンジェは自分で気がついてくれた。ママもとても喜んでいた」
「…ママも…」
「ああ、セルヴィーナもだよ。他にも…アンジェ?」
*すぴすぴすぴ*
お気に入りのクマの縫いぐるみを抱いて、トロトロと半睡と半覚を繰り返しているうちに、アンジェは深い眠りに落ちた。
ルトガーは眠ってしまったアンジェの頬をそっと指で撫でると、布団を直して子供部屋を出て行った。居間に戻り、ひとりで酒を注いでソファーに座ると、小さな声がした。
『領主殿、眠ってしまったアンジェの代わりにわしが聞いてやる。心がけて欲しいことは、守護するわしも気を付けてやろう』
ルトガーは足元に寄って来た小さな犬神に頭を下げると昔語りを始めた。
「まだ人を殺めた事が無い若い戦士を教育する係がいました。何の恨みもない相手を殺すのは、嫌なものです。それで、初めての戦闘では普通の人間は落ち込むことが多いのです」
小さな白い犬神は、領主の顔をじっと見つめて耳を傾けた。
ルトガーは苦い顔で、昔、若い戦士を育てていたとある教育係の話を始めた。
歴戦の騎士だった彼は、教え子を勇猛果敢な戦士にするべく、相手を徹底的に憎むことを教えた。
期待通り教え子は大変な戦働きをした。
だが、相手の国と戦が終わり、和平が結ばれると、教え子たちの中から自殺者や世捨て人になるものが多く出た。
彼はそれに因果関係があると思わずに、今度は差別を教えた。奴らには生きる資格のない、人間では無いとあらゆる事例を挙げて脳裏に刷り込んだ。
彼が教え込んだ戦士たちは徹底的に敵を殲滅した。戦勝をあげて勲章も得た。彼らの戦いぶりを見ていた味方は、情け容赦ない刃を振るう彼らに、心の内で恐怖を覚えた。
― 笑いながら戦っていたんだ。薄気味悪い奴らだ。あれは断じて戦士ではない。殺人鬼だ。
戦の後、彼らは日常には戻れなかった。暗示から覚めた者は自殺した。
生き残った者は怪物となった。
『なるほど、そういうのは、わしにも覚えがある。わしは術者によって増悪に呑まれて怨霊になったが、可愛がってくれた子供と高僧によって正気に戻った』
「差別や憎しみの狂気に呑まれずに正気を保つのは難儀なことです。できれば、子供たちには関わらせたくないものです」
『わしも子供にそのような大人になって欲しくない』
有難うございます、とルトガーが答えると、犬神はアンジェのそばに行くために、ふわりと消えた。
* * * *
プロビデンサ王国から、隣国を訪れたある腕の良い遍歴職人がいた。
依頼が有れば、助手を連れてどんな場所にも出かけて行った。教会にお墨付きを貰った彼は、何処に行っても熱狂的に迎えられる。
ひとからはランツ親方と呼ばれていた。
風変わりなことに、遍歴を終えて親方になったのに、まだ遍歴を重ねている。
高額な報酬が保証されているこの仕事に、彼は騎士職を失って過去を捨ててから、己の使命すら感じるまでになった。
これから始まる舞台を取り仕切る彼を、人々は神の手を持つ男と呼んだ。
期待を込めた熱い視線が、ランツの身に集まる。見世物が少ない辺鄙な場所では、このような非日常を味合わせてくれる演出家は貴重なのだ。
これから登場する悪名高い役者を、見物人の誰もが名前だけは知っている。
そいつが助手によって“嘆きの椅子”に座らせられ、縛り付けられると、ランツ親方は観衆に語り始めた。
「さあさ、皆さん、ごろうじろ!
胸がすくような見世物だ!それがなんとタダで観れるときてやがる!
これから始まる舞台は、神から賜わった権威が、罪深き魂の救済を行う物語。
しっかり、その目に焼き付けろ!そしてちゃんと学ぶが良い!…」
彼の話はまだ続く。
よその土地で見物したことがある男が、芝居気タップリのじれったさに興奮のあまり喚きだした。
「お前の口上なんぞ聞きたかねえや!それより早く始めねえか!」
暴言を飛ばしたその男は、周りにいた者達にすぐに襟首を掴まれどやされた。
「神の手のすることを黙って観てろ!機嫌を損ねたらさっさと終わらせちまって、面白くないんだよ!!!」
男は、たちまち興奮した周りに小突かれ、黙らされた。
異様な熱気を前に、嘆きの椅子に縛り付けられた罪人は、青い顔でしおらしくも観念している。
それがなおさら人の勘に触る。粉ひきの家族を皆殺しにして金を盗んだ無慈悲な強盗に、罵声が次々に起きる。
「見物人の方々には申し訳ないが、こやつは、教戒師様に神の許しを乞うたのだ。かくして、斬首刑の運びとなり、この俺様が呼ばれたと言う訳だ」
斬首刑は死刑の中では軽い刑だ。
不満そうな声があちこちから上がるが、ランツ親方はそれを無視した。
そして、犬の革手袋をはめた手で、木と革の鞘を助手に投げ、長さ1メートル以上、重さ3・5キロの長剣を民衆に高くかざした。
先の尖っていない、むしろ平の形状の特殊な剣は、素晴らしき名工が斬首刑のために最高の技術と熟慮を重ねて開発したものだ。
“汝、邪悪な行為からその身を遠ざけよ さもなくば汝の道は処刑台に通ず”
銀の刀身にはそう銘が刻まれていた。
宗教改革の父、マルティン・ルターは、世間に溢れる犯罪には死刑執行人が必要不可欠であると説いた。
民衆から不吉な忌み人として虐げられた遍歴職人、彼らの立場を向上させるため、人々の意識を変える為に説教して言った。
「剣を執り、人を絞め殺す手は、もはや人の手ではなく神の手であり、人を絞首刑にし、車裂きにし、斬首し、絞め殺し、捕らえるのは、人ではなく神である」
その言葉が、こちらの世界でも全く同じ意図を持って、ドットリーナ教皇によって語られた。
「神の許しの場に送る、それは神の手に依るものである」
ランツ親方の斬首刑が一撃で終わる確率は98パーセント以上。
失敗が3回まで許される斬首刑において、驚異的な成功率だ。今日も1回だけ剣を振っただけで、罪人の首を第2頸椎から綺麗に切り落とした。
斬首刑において、死刑執行人に4回目の失敗はない、そんなことになれば民衆に寄ってたかって石礫で殺される。
もし逃げ出して生きながらえても職を失い、罪に問われることになる。
死刑執行人は、罪人だけでなく、自分の命の危険もある職業なのである。
依頼を終えたランツ親方は、ひとりの助手と共に次の依頼の町へと街道を移動していた。
領地と領地の堺はとくに緊張を強いられる。もっとも街道強盗が出やすい地域だ。
誰もいない道に、坂を上ったところで林が近くに見える。
親方と助手の青年は互いの顔を見合わせ立ち止まって頷いた。
「練習台に丁度良い。お前がやれ。危ないときは加勢する」
助手の青年は笑って言った。
「あんなマヌケにやられますか?俺ひとりで充分です」
街道沿いの木の枝から、落ちるに早すぎる緑の葉が舞った。枝の隙間から手斧が見え隠れしている。
いっこうに近寄らないふたりに業を煮やして、3人の男が木からわらわらと降りて来た。
手斧やナイフを持って走り寄る男達は、まだ知らない。
ふたりが街道でも剣の所持を許されている処刑人だということを。
助手の金髪の青年は、胸に抱えていた布の包みを解いた。
ランツ親方が叫ぶ。
「やっちまえ!リヒュート!街道強盗はどうせ死刑だ!」
助手の金髪の青年は、布で隠していた長剣から鞘を払うと、ニヤリと笑って身構えた。