第140話 海の向こうの不穏な噂
フォルトナへと走るマンゾーニ家の馬車の中で、夫妻は今までのことを思い出していた。
昨日の午後、屋敷の手伝いをしていた従者達に、土産のクリームパンを配ったところ大好評だった。
馬車の隣の席には、夫人が特注したクリームパンが一杯に入った籠が置いてある。焼き上がったばかりのパンの香りが馬車席のなかを満たしている。
「凄いですわね。このような美味しいものを考え出すなんて」
「…まさに天才の中の天才じゃ。まだ一歳だぞ、末恐ろしいほど頭が良い子だ。ハイランジアはとんでもない跡継ぎを得たものだ。成長が早いハイランジアらしさゆえの早熟だろう」
「あら違いますわ。あの子はマンゾーニ家の頭脳を受け継いでいるのです。
成長の早さはハイランジア家の特徴ですけどね」
そうだな、とマンゾーニ卿は造作もなく目尻を下げた。
しかし、気に掛かるのはエメレット家が黙っていることだ。
このまま、アンジェリーチェの存在を、知らぬふりをしてくれるとはあまりに能天気な見立てかもしれない。
そう思うと、緩んでいた表情が自然と物憂げになる。夫人は彼の憂いにすぐに気がついた。
「大丈夫ですわよ、あなた。エメレット家は何もできませんわ。
あちらは、表向きはアンジェとは血縁が無いのです。あの才能を欲しても動くようなことが無いように、私も社交の場で牽制いたします」
「ああ、あの子はバッソの次期領主としての自覚が既にある。ここで幸せになって欲しいものだ」
「それはセルヴィーナも同じよ。ハイランジア卿は彼女に良い人を考えているようですし、もしも、うまく行けば、オルテンシア家の当主として、家の存続という大役を担えるかもしれませんわ」
「ああ、あくまでセルヴィーナの気持ち次第と聞いているが、良い相手と連れそって幸せになってくれれば、こちらも安心だ」
「そういえば、アンジェから手紙を預かっていたわ。御読みになる?」
目を細めたマンゾーニ卿は、手紙を読んでいるうちに頭を抱えた。
文面には内務大臣へのお願いが延々と書かれていた。
「どうするかな、今更わしが内務大臣だと言いにくい…」
「あら、簡単ですわよ。カラブリア卿みたいに引退なさったら?そうしたら、好きな時にバッソに遊びに来れますわ」
あっと彼が声を上げると、夫人がにっこりと笑顔になった。
その数か月後、マンゾーニ卿は健康を理由に電撃引退して、息子のバルビーノに内務大臣の座を譲ることになる。
* * * *
とても伯爵家の縁戚とは見えない青年だ。
畑で野菜を収穫していそうな健康的な日焼けをしている。腕まくりした腕から盛り上がった二の腕の筋肉が覗いている。
青い髪を肩よりも長く伸ばして後ろに束ねているが、ボロボロの服を着ている彼には、それが唯一貴族らしい身なりといえる。
ダリアさんが、パパに紹介するとクチャっと明るい笑顔で挨拶をした。
「お会いできて光栄です、ハイランジア卿。僕はマルヴィカ卿の甥でレブロス・バルメラス・ネーラです。
以前はダリアと同じ、ハイランジア・ネーラの一族でしたが、バルメラス家の伯父に継承養子として迎えられました。ダリアとは同郷の幼馴染です」
ハイランジア・ネーラ?ハイランジア家との分家か何かかな?
パパの脚にぎゅっと抱きつき見上げて尋ねた。
「パパ、ダリアしゃんもパパと御先祖が一緒なにょ?」
すると、パパがあたしを抱き上げてレブロスさんに紹介して言った。
「レブロス殿、この子は俺の家の跡継ぎとなるアンジェリーチェです。
アンジェ、彼のハイランジア・ネーラの一族は、先祖が王室公爵になることを放棄したんだ。
つまり、うちとは御先祖が一緒の遠縁だよ」
レブロスさんに挨拶をすると、人懐こい笑顔を返された。
「とても可愛らしいお嬢様ですね」
うん、お世辞でなく本心で言っている、レブロスさんの好感度が上がったぞ。
ダリアさんのフルネームはダリア・ハイランジア・ネーラ、初めて知った。
なんでも、昔、国王が末子に、分家になり王室公爵を興すよう命じたら、ハイランジアの名前を捨てるくらいなら、爵位を放棄すると言い出した。
怒った国王はそれならハイランジア・ネーラと名乗るようにと命じた。
黒を意味する「ネーラ」は非合法とか、やっかいとかの意味がある。
そういえば彼が諦めると思ったが、末子の王子は喜んで受け入れた。
以来、リゾドラートでは「黒のハイランジア」といえば、「あり得ないこと」、「天邪鬼」を指すようになったそうだ。
パパの御先祖も皇太子の座を蹴ったのだから、ハイランジアらしいかも。
ダリアさん達の先祖は、やがてマルヴィカ領に縁づいてプロビデンサの国民になったのだという。
「レブロス殿はどうしておひとりでバッソに?」
「はい、実は伯父から先ぶれを頼まれまして、ハイランジア卿のところへ文を届けに、最短距離の道である山越えで来たのです。
ところが、山中、供の者とはぐれてしまいました。
そのうえ、山で道を踏み外し、とてもお目に掛かれるような身なりではなくなりました。ついては、供の者と合流するまで、人足の手伝いをして食にありつこうと思ったのです」
なるほど、とパパが頷く。
「そんな気遣いは無用です。すぐに屋敷にいらっしゃってください」
パパが執事さん達に知らせるため人をやると、彼は迎えの馬車が来るまで、パパのお仕事の見物をしながら話をして待つことになった。
「アンジェ、パパはレブロスさんとお話をしているから、ダリアと一緒に遊んでいてくれるかな?」
かしこまりました、とダリアさんが応えてサッサと開墾地に戻った。
丁度良い。パパがレブロスさんと話している間に、わんこと一緒にドンドコ踊りながら呪いをかけた。
♪悔い改めよ 罪人よ なおも罪をば 重ねれば♪
♪熱と渇きに 襲われて バッソの土地に 平伏ぞ♪
ようし!これで勝手にバッソから逃げようとすると、酷い目に遭う筈だ。
あたしの歌の効果は短いので、わんこ神の手を借りる。そうすれば、わんこ神が解除するまで効果が続くだろう。
脳内音楽に合わせてノリノリで歌い踊っていると、ギャラリーからの小声でひそひそ話が聞こえて来た。
(うわ!あのときの幼児だ!)
(今一番会いたくない奴だ…)
(あいつに殴られたせいで、3日間寝込んで悪夢にうなされたんだぞ!)
(悪魔だ…悪魔の申し子だ…)
振りかえると悲鳴があがった。失礼な!なによ、その怯えようは!
人の噂をしてないで手を動かせ!
「ごらあああぁぁぁ!!罰のお仕事を怠けているとアンジェが怒るじょー!」
ひっ!と身を縮めると、皆あわてて仕事を再開した。
テトテトと、そばに寄ってギロリと凝視していると、目を合わさないように視線を外しまくっている。
ダリアさんと賊の皆さんを監視している間、わんこ神が辺りを楽しそうに走り回って戻ってきた。
『よっしゃ!これでわしが走った中にいた者は、勝手に町を出て行くと、お前が考えた祟りにあうぞ。
しかし、本当にお前が願うようなもので良いのか?もっと酷い方が良いのでは?』
「良いのでちゅよ。これで、もし逃げたら七転八倒することになるでちゅ。
わんこも納得するくらい酷い目に遭うから」
脱走者には、あたしが前世、登山でやらかして味わった苦しみを再現してもらうことにしたのだ。
脳内のイメージを送ってあげると、わんこ神が嬉しそうに笑い出した。
『うひゃひゃ、こういうのも面白そうじゃのう』
「ダリアはどんな呪いか楽しみです。誰か逃げてくれませんかね?」
*わくわくわく*
ダリアさんはウキウキしている、結構鬼畜!あたしはあんな目に遭うのは二度とごめんだ。
振り返ってパパ達のようすを窺うと、難しい顔をしている。
あたし達の傍にガイルさんが来て、彼らの様子をみていた。
「マルヴィカ領と付き合いができて、ルトガーさんは喜んでいたが、どうやらあちらは難しい話も持ってきたらしい」
「え、パパ大丈夫でちゅか?」
ちょっと不安になって見上げると、ガイルさんが微笑んだ。
「男爵というのは、国に委託された土地を管理するか、自領を持っていても小さい土地の領主だ。
真面目に土地を治めていれば、国の大きな問題に巻き込まれることは有りえない。気にする程では無いだろう」
「そうですよ、お嬢様。旦那様はとても良い領主様です。マンゾーニ卿の侍女達もバッソを見て感心しておりましたから、自信を持っていいですよ」
そうなのか、良かった。あたしのせいで結構パパは気苦労が多いから、心配しちゃった。
* * * *
やいのやいのと騒いでいるアンジェ達を、レブロスがチラリと周りを確認しながらみた。そして、自分たちのそばにいるのが馬のフレッチャ達だけと確認すると、安心したように話し始めた。
「ハイランジア卿、うちの領地で村を襲った大蛇を退治してくれて感謝いたします。今回、伯父はこちらの御挨拶に伺いますが、他にお耳に入れたいことがあるそうです。
伯父は以前から、海の向こうの不審な動きを気にしていました…
外務大臣は御存知のはずですが、彼がそれを問題視して王に話しているか、伯父は疑問に思っています」
海の向こうのリゾドラート、ルトガーが保護している教会庇護民だったシェルビーの家族も、そこから逃れて来た。
子供の駄賃まで巻き上げる教会のやり方に疑問を抱いていたルトガーは、眉間の傷跡を大きく歪ませた。
レナート神父がかつて心配していたことがある。あちらの国で、国教のドットリーナ教は政治にドンドン介入してきている。
そして、ついには軍部も教会が掌握する手段を考え始めた。
「聖騎士こそが騎士であると言い始めたのです。騎士の承認も教会がすべきだと、今まで騎士同士で承認できた身分が、彼らに牛耳られることになります。
戦に行かない者が軍部を好きに出来る、僕はそれを心配しています」
騎士身分に話が及ぶとルトガーの顔つきが変わった。そして、かねてから考えていて、マルヴィカ卿に協力して欲しい事を口に出した。
「今回、マルヴィカ卿にお願いしたいことが有るのです。私の従者にひとり、騎士にしたい青年がおります。それを、あなた方が推挙する形で、身分を与えてやりたいのです」
「おお、ハイランジア卿が推す人なら、伯父も武功がまだ無くても納得するでしょう。お安い御用ですよ」
「いえ、武功なら証明できます。そのために、是非にマルヴィカ卿にお頼みしたかったのです」
ルトガーは、子供の頃から目を掛けて来たセリオンを、ようやく騎士にさせることができると期待していた。