第135話 賊の行方
泥んこだったアンジェは、お風呂に入れられても目を覚まさず、そのまま目深い眠りに落ちてしまった。
マンゾーニ卿一行は、事件場所がバッソに近かったため、そのまま男爵屋敷に泊まることになった。
事件を知ったカメリアとカラブリア卿も訪れ、大人達は夕食の後に、マンゾーニ卿の今回の訪問のひとつの目的である、フェルディナンドとエルミーナの婚約について話した。
既に手紙で打診されていたカメリアとルトガーは、息子の気持ちを確認する手紙を受け取っている。
カメリアはルトガーとカラブリア卿に、その場を任せ、セルヴィーナを誘って部屋を出て行った。
「誠に有難い御話しです。孫のフェルディナンドは御息女を素晴らしい女性だと誉めそやしておりました」
「本当に愚息には勿体ない御縁で光栄の至りです。しかも、二人がそれを望んでいるなら本当に喜ばしいことです」
マンゾーニ卿夫妻は両家の婚約の話がわだかまりなく受け入れられた様子に満足していた。
改めて、エルハナス家から婚約の申し込みをすることに話がまとまると、話題はやがてその場にいないセルヴィーナのことに移った。
すると、いきなり公爵が頭を下げてルトガーを慌てさせた。
「すまん、わしが馬鹿な意地を張ったばかりに、恋人達と孫のセルヴィーナを不幸にした。セルヴィーナは静かな生活を望んでいる。彼女をバッソで受け入れて貰い感謝する」
「いえいえ、こちらこそ、私の祖父も、ふたりの結婚を認めなかった事を死ぬ間際まで後悔しておりました。家の事が有ったので、お互い様と思っています。
それに、娘のアンジェリーチェの音楽教師を彼女が受け入れてくれて有難いことです」
マンゾーニ老夫人は、「娘の」という言葉にほんの少し切なそうだった。
だが、すぐに貴族の女性らしく表情を整えて、優雅に微笑んだ。
「そう言って頂き、こちらの肩の荷が下りましたわ。私共は孫のためにも、これからは親しいお付き合いをお願いします。
それで、あの、話は変わりますが、今セルヴィーナは…?カメリア様と一緒に部屋をでたままですが?」
心配そうに夫人が聞くと、カラブリア卿が彼女の不安を払ってあげようと笑顔で答えた。
「カメリアが案内してアンジェの眠る子供部屋に行っていますよ。少しでも傍に居たいだろうと言いましてね」
子供部屋では穏やかに眠るアンジェを、カメリアとセルヴィーナが息を潜めて見つめていた。
静かな部屋に小さな寝息だけが聞こえる。
実の母であるセルヴィーナは、自分と同じ桃色がかった金の髪をそっと撫でた。
躊躇いがちに撫でていると、子供独特のふわりとした糸のような髪が、彼女の細い指に絡んだ。
長いまつ毛ときめ細かい白い肌、ふっくりとしてほんのり赤い頬が可愛らしい。
セルヴィーナは、我が子に初乳を与えただけで、別れた朝のことを思い返し自然と涙を落とした。
カメリアが彼女の肩にそっと手を置いて促すと、セルヴィーナが頷き、ふたりは部屋を出た。
廊下に出ると、項垂れたセルヴィーナの正面にカメリアが立ち、彼女の肩に両手を置くと真っ直ぐな視線でいった。
「以前の乳母は乳離れが済んだので、辞めましたの。だけど、私達の娘のアンジェは、まだ乳母が必要な年です。
良かったら、音楽だけでなく、貴女に乳母もお願いしたいのです。受けて頂けますか?」
カメリアが慈愛に満ちた眼差しで微笑むと、セルヴィーナはまた泣き出してしまい、カメリアに抱きしめられた。
上背で勝るカメリアが、彼女をしっかり抱擁したまま囁いた。
「バッソは良いところよ。私達の娘がその領主になり、もっと素晴らしい地にしてくれるわ。貴女はその彼女の成長を見届けてやって頂戴ね」
ふたりの母は手を取り合って、ドアの向こうにいる娘の未来を思い描いた。
* * * *
泥んこの一日が終わった翌日、マンゾーニ公爵が男爵家の親戚になること、セルヴィーナさんが彼の孫であり、パパの従妹になること、オルテンシア家の跡取りになることが明かされた。
「セルヴィーナのお陰でオルテンシアの家を残すことができた。
彼女は領地を持っているが、小さいしバッソのすぐ近くなので俺がまとめて管理し、彼女はここで暮らしてもらうことにした」
そして、メガイラさんが手を取って彼女の前にあたしを連れて来た。
「お嬢様、婆はさいきん年のせいで体の調子が悪うございます。乳母の役はセルヴィーナ様にお任せして、婆は補佐にまわることにしました」
そして彼女は、音楽の先生になると紹介された。
どうもあたしが変な調子っぱずれな歌を歌うので、このまま育ったら音痴になってしまうと、心配したパパ達が楽師でもある彼女を、専門の先生として雇うことにしたのだそうだ。
「アンジェリーナお嬢様、御父様の従妹で音楽を担当するセルヴィーナです。どうかよろしくお願いします」
「アンジェでちゅ、よろちくお願いちまちゅ」
ペコリと頭を下げた、その瞬間、先生は泣き出しそうな顔であたしを見た。
「セルヴィーナ、君は乳母も担当するのだから、アンジェでいい」
パパが優しく声を掛けた。
初めは戸惑ったが、どういう訳かあたしはこの先生が大好きになった。
カメリアママみたいに毅然とした強い美しさではないが、彼女はまるきり反対の春の柔らかい日差しのような美貌を持っている。
ピンクに近い長い髪を結いあげ、細い首にふわりとしたおくれ毛が垂れている。伏し目がちな目に長いまつ毛が上がると、澄んだ瞳が覗いて来る。
その目に見つめられると、何故か会った気がする、既視感がある。
パパからは、彼女には辛い過去があるから、そっとしてあげて、敢えて彼女の事を聞かないようにと言われた。
パパの口調から、それは絶対にしてはいけないのだと胸に刻んだ。
でも、あたしが彼女と話すととても幸せそうで、そんな事を微塵も感じさせないのだ。もしかして、彼女の心の中には、もはや気持ちの整理がついているのかもしれない。
* * * *
鉤鼻の男が、気がついたのは、何の家具も置いて無い部屋だった。真夏だというのになぜかヒンヤリする部屋だ。
妙な子供に蹴られた右の頬が、腫れあがって熱を持ってジンジンと痛み、吐き気まで感じる。
椅子に座らせられていると気がついた男は、起き上がろうとして上半身裸で縛られ、ロープが食い込んで痛みに顔をしかめた。
高い背もたれだけの椅子に胸と上腕部を縛りつけられ、手首も椅子の下にまわしたロープで固定されている。
両脚と足首もガッチリとロープで椅子に括り付けられて、身動きが取れない。
そばに誰かがいる。
嘲るようなクスクス笑いが聞こえて来た。
「なんだこれはー!放せぇー!このおおおぉー!」
腹立ちまぎれに抵抗しようにも。ガタガタとイスを揺らすだけだった。
なおも暴れて体を揺らしているうちに、仰向けに椅子ごとひっくり返った。
「うっ!」
背もたれのせいで石床の直撃は避けられたが、背中をしたたかに打った。
ただ仰向けになったお陰でやっと、傍に居た若い2人の若い男達の顔を見ることができた。
ひとりは、茶色の髪と青みのある灰色の眼、背は高めの中肉で筋肉質だ。
もうひとりのほうは、まだ顔立ちに幼さが残る少年で、背が低くめで苔緑の髪をしていた。
どうもどこかで見た気がするが、どうしても思い出せない。
「やっと起きたか、全く3日も寝ているなんて死んだかと思って焦ったぜ」
背の高いほうが苦笑していると、少年のほうが部屋の入口に来た人物を振り返っていった。
「首領!こいつ目を覚ました」
「そうか、丁度よいときに来たな」
部屋に入って来た首領の男も若い青年だった。
背が高く筋肉質、濃い茶色の髪と穏やかな表情に比べて妙に冷たい灰青の目が印象的だった。
「おい、おまえらは警邏兵ではないな。何処の奴らだ」
ふふんと、両脇に立っている男たちは見下すように言った。
「俺らはおまえの頭に用があるんだよ。あいつはどこにいる?今は王都か」
動揺した鷲鼻の男が目を逸らした、その仕草だけで彼らには肯定と分かった。
「どうやら当たりですね」
「目星はだいたいついてるから、聞くまでも無かったけどな」
その言葉を聞いてイラついた鷲鼻の男が、覗き込んだふたりの顔を二度見した。
― こいつらの顔に見覚えがある…だが、どうも思い出せない…
「さあ、オミチーダこれからお前の得意な作法でサヨナラしようか」
仲間内だけしか知らない筈の自分の名前を呼ばれ、仰向けで動けないオミチーダはギョッとした。
すると、首領の男がこちらに近寄り、ようやく仰向けの視界に入って顔が見えてきた。
「おまえ…あ!まさかどうして…」
部屋の中央まで入ってきた首領は彼の横にしゃがみ込んだ。
そして、震える男の剥き出しになっている腹を指でなぞってから、自分の脇に立つ背の高い方の男に言った。
「他の奴らはいなかったのか?」
「はい、雇った奴らだけでした。こいつひとりです」
少年の方が椅子の反対側に座り込んで、暗い目で正面にいる首領の青年に訴えた。
「ねえ、首領!こいつをあっさり殺すなんてしないでよ!こいつ俺に親切にしてくれた爺ちゃんの頭を叩き割って殺した奴なんだから!」
「うーん、今は夏だからなあ。アレグロが願うほど…どうかな?」
彼は背の高い青年の方を見て言った。
「なあ、ノーメ。オミチーダの得意なやり方で、今まで耐えた奴はどのくらいかかったのかな?」
「そうですね、こいつが得意になって話したところによると、2日ちょっと頑張った奴がいたそうですよ。それ以上は難しいらしいです」
そう話すと、ノーメと呼ばれた若い男は、笑って薄刃のナイフを彼に渡した。
「おい、まさか…やめろ!止めてくれー!」
腹に良く砥がれたナイフの切っ先が当たると、オミチーダの鷲鼻の顔が恐怖で引きつった。
逃れようと必死に暴れたが、ロープが少しも緩む様子も無かった。
「皮肉だな、同じことを何度もおまえが殺した相手に言われたのに。
無理もないか、やられるのは初体験だしな」
薄刃のナイフを持つ首領の男は、少しも躊躇いなくそのまま腹をすっぱりと裂き切った。
「ぎゃあああああぁぁ!」
すかさずノーメが彼の座る椅子を、足を引っ掛けて勢いよく起こし、そのまま、背もたれを前に派手に蹴り飛ばし、椅子が倒れた石床を覗いた。
「お、うまいこと内臓まで切らず済みましたね」
「さっすが首領!」
アレグロと呼ばれた少年が、いい気味だとばかりに声をあげた。
椅子を蹴り上げられ、前倒しになった拍子に男の腹から小腸が零れ出ていた。
焼けるような痛みに耐えきれずに男が叫ぶ。
いつまでも狂気を孕んだ叫び声が外の荒野に漏れて消えていった。
「首領、男爵屋敷に、まだ行くのですか?」
「そうだよ、もうあいつら、ここらにいないだろう?エルラドに行こうぜ、首領」
呻き声が響く小屋を出て行こうとした首領が振り返った。
彼は、どんな時も、誰にでも人当たりがよく、絶えず穏やかな微笑みを浮かべている。
優しい声で子供に接し、決して怒らない、いつの間にか人の心に入り込む。
バッソの教会学校の子供達も彼を慕っている。
「もう少しいるよ。あそこのお嬢様が結構面白いんだ。彼女をもう少し観察してからにするよ」
スレイは笑顔で彼らに別れ告げると、バッソに帰っていった。