第132話 ぬかるみの馬車
大昔、道に祀られた男女の道祖神は、通る人に危害を加え大怪我を負わせ、ときには、夫婦を離縁させるなどの祟りを所業とした。
犬神の場合は、人によって呪術の道具としてなぶり殺された末、首を辻道に埋められ人に捕り憑くように仕向けられた、怨霊の成れの果てなのである。
それを怖れた里の者たちは、どうかお静まり下さいと、ひたすら拝み、かしずくしかなかった。
すると、祟り紳は、信仰を篤くして拝む者には、今までとは全く違う神の慈悲をうかがわせるようになった。
祟りの力が強いほど神威は強くなる。わんこ神は里人の信仰を集めて祟り紳から昇華し、村に入るあらゆる悪意を排除する有難い道の神になった。
それが、わんこ神であるちび丸の正体だった。
「道祖神がもとは祟る神とは…知らなかったでちゅ…」
『そうじゃろうのう。今でこそ道祖神は有難い神のように言われるが、昔は祟り紳と言ってもよい厄災の存在だったのじゃ。
道の神は、祀る里の者には有難い神じゃが、よそ者に謂れのない祟りをもたらす塞の神なのじゃ。
よそ者は、それが怖ろしゅうて、道の神がいる村の入り口に足を踏み入れるとき、災いが来ぬよう手を合わせたものじゃ。
領主であるお前の父が、わしの社を作らせ拝んでくれたから、わしはバッソを守るべき里と受け入れた』
『なるほど、それであたしに加勢してくれるのね』
『加勢というより使役じゃな』
『なんですと?』
『なに、わしが護るという事じゃ♪ 今のお前はどんな大男も凌駕する力を持っているぞ』
何だか、このわんこ神、怪しいな。でもバッソのためになるなら良いか。
* * * *
王都から馬車での旅、旅行用の軽量な車体の6頭立て馬車で、馬を変える継馬で走るなら、2日半でフォルトナに着くだろう。
護衛騎士は3人で充分だ、従者も騎士身分だし、自分も老いたとはいえ騎士なのだから。
楽な旅だ。マルチェロ・マンゾーニは、そう考えていた。
その筈が、フォルトナに行く道が途中で、大木で塞がれていて通れない。
仕方なく一行は、普段使われていないバッソへ行く巻き道を通ることにした。
道はぬかるんでいて、馬車は悪路を左右に揺れながら走っていたが、とうとう車輪が穴にはまって立ち往生してしまった。
護衛騎士2人が馬から降り、もうひとりは馬上から辺りを警戒していた。
馭者席の従者と馭者が馬車から降り、護衛騎士の馬を馬車に繋いで引っ張らせることにした。
男達は馬車の後ろにまわり、土砂降りの雨に打たれながら、びしょ濡れの体で重い車体を懸命に押し出そうとするが、ビクともしなかった。
「頑張れ!そら!もう少しで町に着くんだ」
馭者は鞭で先頭の馬を追い立て、馬も必死で馬具を引っ張るのだが、車輪は根が生えたように少しも動かなかった。
「何てことだ、ここじゃ周りには森くらいしかないのに…」
馬車のなかにいたのは、マンゾーニ家の老夫妻と若い女性、そして侍女がふたり。
マルチェロ・マンゾーニは治安の良いフォルトナへの旅と考え、手勢を少なくして王都を抜け出してきたことを後悔していた。
街道というものは盗賊の絶好の稼ぎ場である。
「正体不明の騎馬が正面から接近しています、警戒!」
焦る一行の前にバッソから2頭の騎馬が近づいて来る、馭者と従者達の間に緊張が走った。
慌てた馭者が、馭者席の下にしまってあるナイフを出そうとして、従者に止められた。
「どうどう」
馬車の手前で歩を止め、先頭にいた男が身分を明かした。
「バッソの警邏兵をまとめるガイルークスという者です。お困りの御様子、お手伝い致します」
「おお、バッソのハイランジア男爵の騎士殿ですか?こんな雨の中、申し訳ないがお助け頂ければ有難い」
お任せ下さいと、ガイルは胸を叩いてみせると、彼の後ろのいた警邏兵が下馬して馬を馬車につなぎ留めると、一緒に馬車を後ろから押した。
しかし、ガイル達の加勢を得てもやはり車輪は動かなかった。
困り果てた御者が溜息をついて呟いた。
「おかしいですよ。このクラスの馬車は旅行用だから軽量なんです。いくら泥がぬかっているとはいえ、10頭の馬で轍の穴から脱出できない筈が無い」
「ハイランジア卿はバッソの幹線道路にするために、ここの整備をしている最中です。こんな穴が空いている筈が無いのだが…」
疑問に思ったガイルは、車輪の下を調べるためにしゃがみ込んだ。
車輪がはまっている泥水の溜まった穴の縁に触って探った。
穴は異常に深かった。
― 変だ、この穴だけ泥だけしかない。舗装したのだから砕かれたレンガの層や、そのうえに上に小石と砂で埋めた層もない。これは掘った穴だ。
さらに探って車輪のスポークに手をやると丈夫な枝が斜めに引っ掛かっていた。一度穴に落ちたら車輪のスポークを絡めとるように、穴に弾力のある枝が刺さっていたのだ。
「これは罠だ!敵がいるぞ!」
*ヒュン ヒュン ヒュン*
そう叫んで立ち上がった瞬間、ガイルの肩に、脇腹に、胸に矢がブスリと刺さった。
馬車に寄りかかり崩れ落ちたガイルをみて、護衛騎士達は急ぎ剣を抜き、馭者と従者達の間に緊張が走った。
慌てた馭者が、馭者席の下にしまってある小剣を出そうとした、瞬間、右横から御者席の板にガツッと音を立てて矢が刺さった。
馭者が思わず振り返ると、雑木林や藪から何人もの男達が右から左からと、飛び出してきたのが見えた。
「敵襲―!敵襲―!」
馬車にいた従者は騎士身分だったため、腰に下げていた剣を直ぐに構えたが、その腕を飛んで来た矢で射抜かれた。
すると、街道の左わきの茂みからも潜んでいた男たちがわらわらと現れた。
こちらの倍以上の盗賊の数に騎乗の護衛騎士が叫んだ。
「旦那様!盗賊です!御婦人方をお願います!」
馬車の中にいて小窓で外を覗いていたマンゾーニ卿は直ぐに剣を持った。
「おまえ達は外に出るな!わしは賊を倒してくる!」
彼はそう叫ぶと、馬車から飛び降りて、降りしきる雨のなかで剣を構えた。
宿敵マルチェロ・マンゾーニを見つけたぞ!
賊のひとりが大声で叫ぶ。マンゾーニ卿が馬車のそばに迫って来た男を切り捨てると、さらにふたり目の男が剣を片手に駆け寄って来た。
老いて小太りになったとはいえ、彼は騎士として剣はかなりの腕前だった。
賊と彼は激しい剣の応酬をしていたが、しかし、そのうち体力で劣る老いたマンゾーニ卿は、息をするのも辛くなってきた。
だが、幸運なことに、賊のなまくらが激しい剣の打ち合いでガキンと音を立てて半分に折れた。
相手の焦った様子に、ほんの数秒、肩で息をしている老人に油断が生じた。
男が必死の抵抗で襲い掛かり、剣を持つ右手を両手で掴まれ、全体重をかけた体当たりで馬車に叩きつけられた。
「ぐはっ!」
さらに男から膝蹴りを受け、剣を持つ利き腕を馬車の車体に何度も叩きつけられて、堪りかねて剣を泥の上に落とした。
なんとか剣を拾おうとするマンゾーニ卿を、賊は腹を蹴り上げる。
「うぐっ!」
男に剣を拾われる前に、今度は痛みを堪えた彼がタックルして突き倒した。
しばらく泥のなかでもつれた両者だったが、とうとうマンゾーニ卿が組み伏せられた。
仰向けに倒れた彼に、男は腰のベルトに挿していたナイフを抜いて見下ろして言った。
「首領の土産にその皺首頂くぞ!!」
仰け反ったまま組み伏せられ、喉元に刃が迫っていたマンゾーニ卿は、必死の抵抗をしてもがいた。
鷲づかみにされた腕がミシミシと軋んで痛みが老いた身体に響く。
マンゾーニ卿がやられるかもしれないと、僅かに観念したときだった。
妙な歌が雨音に紛れて聞こえて来た、小さな子供の歌声だ。
しかし、あどけない歌声とは裏腹に謡われている歌詞には不気味なほどの凄みがあった。
段々近づく歌声は直ぐそばに迫って来た。
道の岐れに息潜め 土に伏したる怨霊は ♪
恨みつらみの埋火を その身に隠す道の神 ♪
拝みかしずく里人に 福徳授ける幸の神 ♪
里を乱すか無頼の輩 祟り授ける塞の神 ♪
歌がふっつりと絶えると、雨音を払うほどの子供の叫び声がこだました。
「バッソで無頼をはたらく不埒者ぎゃ!我が祟りを受けるぎゃ良い!!」
その声と共に、マンゾーニ卿の首を今にも落とそうとしていた男の頬に、小さな右足がめり込んだ。
「な…?」
足蹴にされた男の右頬に、今までに経験のない沁みるような痛みが走った。
幼児の飛び蹴りが、男の頬骨を砕いていたのだった。
悲鳴を上げて、マンゾーニ卿から離れた男の左親指を、彼女の小さな手が掴んで反対方向に捻りあげると、男の体が宙を浮き泥の道に叩きつけられた。
信じられないものを見て唖然としているマンゾーニ卿の目の前で、ポーンと宙を飛んだ幼児が、倒れた男の腹に両足をめり込ませて失神させた。
マンゾーニ卿が見とれているのも気づかずに幼児は叫んだ。
* * * *
「ガイルしゃん無事でちゅかー!」
『嬢ちゃん!後ろ側でゲス!』
すぐさま、馬車の後ろ側に走り込んで、矢が刺さったまま動けなくなったガイルさんを見つけた。
血はだいぶ流れているが、太い血管などの急所は外れている。
「ガイルしゃん!しっかりしてくらちゃい!」
生きてはいるけど反応が鈍いし、口は何か言いたげだが息をするのも苦しそうだ。
肩に降りたヤモリンが耳で囁いた。
『この人、肺から変な音が聞こえるでゲスよ』
念視で探ると、右肺の矢の刺さっている部分から空気が漏れているのが見えた
「ガイルしゃん、今、治しゅからね」
念力で刺さった鉄の矢を、矢尻を潰して滑らかにしてからそっと抜き、すぐさま、胸に手を当てて修復するための念を送って傷を塞いだ。
他の箇所も無事に矢を抜き治療をすると、やっと彼から言葉が聞くことができた。
「ああ、楽になった…有難うアンジェ」
「ガイルしゃん、傷を治しただけでちゅ。無理しないでくらちゃい。射手を倒したら後はアンジェが全員ボコボコにしまちゅ!」
「え???」
はい?射手は倒す?今あたしそう言った?え?全員ボコる?
そんなこと考えていませんでしたが?この後、セリオンさんに通信して助けを呼ぶつもりだったのに?
身体はかってに馬車の屋根の上に駆けあがり、大声で叫んだ。
「我が名はアンジェリーチェ・ハイランジア!父のおちゃめる土地での乱暴狼藉、許ちゅまじ!残らず退治してくれまちゅ!」
ちょっと待って!こんな事、あたしは言う気は無かったのよ!
口が勝手にしゃべりだした???
そのとき、アンジェが思った疑問に犬神が答えた。
『わしはのう、元は人の呪術によって生みだされた怨霊じゃ。
犬の怨霊は人に取りつき祟るのが仕事。よって、怨霊から神になったわしは、道の神であって憑神でもあるのじゃ。
さあさ、わしが憑依したからには、わしを喜ばせるため暴れまくれ!』
何してくれちゃっているのよ!この犬!!!あたしはやっと1歳児なのよ!
どう見たって大人ぶちのめしちゃったら異常でしょうが!
この事態をどう収める気なのよ!
馬車の上で啖呵を切った後に両足を踏ん張って、こぶしを握って唸る幼児を見て、まわりの人間はしばし、呆気にとられて見上げていた。
「くぅぅぅぅ~~~~!こうなりゃ、ヤケじゃあああああぁぁ!!!」
バッソの敵はあたしの敵!全員を完膚なきまでにぶん殴る!
あとの面倒くさいことはもう大人におまかせしてやるぅー!
幼児は敵味方の入り乱れる群れに飛び込んだ。