第129話 家族会議
御爺様はきっと激怒する。
マンゾーニ家のひとり娘、エルミーナは家族用居間で、緊張した兄のジュリアーノと難しい顔をした父バルビーノに挟まれ、マンゾーニ家の当主である彼女の祖父の登場を、身を固くして待っていた。
他には、どうにも落ち着かない様子の彼女の母アイシャム、そして、祖母のラベンナは何も言わずに落ち着いて座っている。
どう叱りつけられても後悔はしていない、上気した頬で、ふざけた態度の元婚約者を思い出す。
馬に乗るのは怖いので嫌ですと言ったのに、婚約者なのだから自分と趣味を共にするのが当然だと、押し通された。
そして、横乗り専用の馬を送られ、逃げ場を失い嫌々乗馬を習う羽目に。
遠乗りは辛いから勘弁して下さいと伝えても、彼女の気持ちは意に介さず、自分の行きたいところに行きたがり、膝が痛いと言っても慣れたら大丈夫の一点張りだった。
「遠乗りは気持ちが良いだろう」
ふざけるな!私はいつも脚が痛いから遠くは嫌って言ってるのに!
膝の上で固く結んだ手を見つめ、あの男を殴るには平手じゃ甘かったくらいだわ、と零した。
それを兄のジュリアーノが逃さずに聞いていた、今まで心配そうな表情だった彼は噴き出した。
「アハハ!エルミーナ、今までせっかく可愛い猫の皮を被っていたのに!
残念だな、その場にいたら僕が殴って、お前の評判を落とさなかった」
すっかり令嬢らしさをかなぐり捨てたエルミーナは、兄の笑い声を聞いて、元婚約者の馬鹿にするような笑い声を思い出して、怒りをぶり返した。
「あたしの評判なんてもうどうでもいいですわ。カメリア様みたいだったら、あいつを馬に吊るして反省させてやったのに」
「ふたり共いい加減になさい。御爺様はきっと御立腹よ。貴方も何か仰って、大事な縁談を潰しかねない事態ですのよ」
娘の暴走気味の怒りを、母親のアイシャムが窘めるのをみて、侍女の報告を直接受けていた父親のバルビーノが娘の味方にまわった。
「アイシャム、しかし、彼のやった事は女性に対する態度ではない。
最低な奴だ。公園での目撃者は多く、社交界でたとえ面白おかしく言われてもエルに非はない」
「それはそうですけど…あたくしだって、あの屑ボンボンには腹が立っていますわよ!でも衆目のなかで平手打ちは無かったと言いたいのです」
父親の言葉につられて母親の方も少々本音がでたようだ。
祖母のラベンナはそんな家族の話を冷静に見ている。
― 本音はみんなエルミーナの縁談に喜ぶところは無いという事。
所詮、家のためと決めた事ですもの、致し方ないと諦めていたのね。
そこに祖父のマルチェロ・マンゾーニが入って来た。
もう既にかなりの熱気を感じる居間に、いぶかる彼が椅子に座るや否や、真っ先に口を開いたのは孫娘のエルミーナだった。
「御爺様、私をお叱りになるための集まりと存じておりますが、僭越ながら私にもひと言、意見を言わせて頂きとうございます」
不思議な事に祖父のマルチェロは少々面食らった顔だった。そして、祖母のラベンナの顔を盗み見た。
祖父の態度をエルミーナは疑問に思ったが、勢いに乗って自分の言いたいことを言おうと、先手を取って捲し立てた。
「あの方のせいで、人前でとんだ恥を晒したばかりか、私は危うく死ぬところでした。エルハナス家の御子息が居合わせなければ、どうなった事か!
趣味でもなんでも自分の思い通りにさせようとするあの方の態度!
以前から気に障る人でしたの!
もう指輪も返しました、勢いですけど…とにかく!」
「まあエルミーナ落ち着きなさい。父上、マッティーオはふざけた事に、手紙に、まるで我が家のエルが悪いと言わんばかりのことを書いて来たんですよ」
「御爺様、僕もあのマッティーオは気に喰わない。あいつの学校での態度、お見せしたいです」
「ジュリアーノまで…エルミーナとにかく御爺様にお詫びしなさい」
「お母様!だいたい、あたしだけ家のための結婚するのは不公平ですわ。
あの人と結婚するくらいなら、私を修道院に行かせてください!」
「もうよい!もう我が家からひとりも修道院になど行かせん」
その場にいた家族は、「修道院など」、と吐き捨てた当主のマルチェロの言葉を意外に感じた。
自立できず結婚しない子供、特に女性は大抵の場合修道院に行くことになる。
貴族の場合は持参金付きで入るので、院内で下働き無しで高い地位につける。
修道院長は殆んど貴族や金持ちなどの上級市民だ。
そもそも、彼の娘のベラスカが入った修道院はマンゾーニ家が建てたものだ。
「エル、婚約者のマッティーオ殿は、おまえに詫びの手紙を寄こしたそうだな」
てっきり祖父から仲直りを勧められると肩を落としているエルミーナに、おっとりとした声で祖母が口を開いた。
「その手紙の内容は “君のことは許すから、お互いに両親には言わずに、事を収めよう” でしたわね。エルミーナ?」
こくりと孫娘が頷くと、「エメレット家は息子のやったことを、たいした事とはお考えになってない御様子ですわね。
御子息が黙っていたとしても、公共の場での事件、自分の家の噂を耳にしない筈はありませんわ。
それなのに、エメレット家の方からは何も言って来ないのですから、当家も軽く見られたこと…」
腕を組んで聞いていた当主のマルチェロは、押さえていた怒りが急に沸き起こってきた。
妻のラベンナに顔を向けると、微笑む彼女と眼差しを交わした。
彼女は静かに頷いた。
亡き娘と孫、そして名乗ることを許されない曾孫のために、力を尽くそう。
そう二人で考えて家族に話すことにしたのだ。
「おまえ達もスキフォーソ家の事件を知っているだろう?」
祖父のマルチェロは、エメレット家の分家が起こした事件にふれ、無理やり妾にされた孫のセルヴィーナの存在を明かした。
そして、自分の孫セルヴィーナの身元は、やがて行われるスキフォーソの処罰後に公になることを告げた。
「わしが意地を通したせいで、ふたりのマンゾーニの女が不幸になり、ひとりのオルテンシア家の男を若くして死なせた。
もう先祖からの、下らぬ恨みなど忘れることにする。
わしはもうオルテンシア、そしてハイランジアとの間に和解をしたいと思う。
そして、我が家の孫を軽んじたエメレット家との縁談は破談にする」
「エルミーナ、あのボンボンと会わないように、暫くは部屋で病気だと言って籠りなさい。たとえ来ても、当然追い返してやるから安心しなさい」
有難うございます!と彼女は快哉して部屋に引きこもった。
* * * *
静かな夜だった、アンジェの就寝時間になった。
厩ではフレッチャとヤモリン、わんこ神のちび丸が話し込んでいた。
片隅には、火が出ないよう用心して吊るされたランタンが灯っている。
迷い込んで来た蛾をパクリとヤモリンが喰らいついた。
『しかし、摩訶不思議な世界じゃのう…さほど大きくない町なのに、住んでいる人やものに、神の加護や眷属の力を感じるものが多くおる。
何よりも、不思議はお前らの存在じゃ。
こちらの神は、自分に似た姿の人間のために世界を作ったと聞く。
なのに、動物は人のために利用される存在と、人の教えにあるというのに、お前らからは強い加護を感じる、辻褄が合わん。
わしの世界でもヤモリはいる。
人が、その名を呼ばうるは、ヤモリが虫から家を守る有難いもの。だから家守と。こちらのヤモリは気の毒じゃのう、悪者扱いじゃ』
ちび丸の呟きに、ヤモリンが首を振り、寄って来る蛾や羽虫に見つけると、さっと捕獲している。
『あっしの先祖が、人の楽園追放の原因と信じられているんでゲス…
でも、嬢ちゃんは気にもしないで、あっしと友達になってくれたでゲス』
ヤモリンが照れ隠しに壁面を走り回っているのを、フレッチャは目を細めている。彼が厩にやって来てから、彼女もヤモリンとは良い友人になった。
『教会の教義でそう教えていたからよ。そういえば、貴方も小さいながらも神様でしょう。
あたしとヤモリンは、ちょっとだけ違うの。楽園から出た動物の子孫、たぶん、そうよ』
老いた牝馬のフレッチャは、藁の上に寝そべっている犬神の、よくブラシがかかっている毛並みを眺めた。
仔犬特有のすべすべした柔らかな毛並みは、アンジェが毎日手入れをしてくれて、艶々と光っている。
『アンジェには強力な加護があるわ。子供好きな貴方は、それが気になってワザと飼い犬になったのでしょう?加護は両刃の刃だものね』
『やれ忌々しい。飼い犬などと言うな。わしが神になる前の、童が好きな性分はどうにも直らん。
誰も来ん山の中では寂しいでのう、捕まってやったのじゃ』
意地っ張りの犬神の反応に、フレッチャは堪えきれずに笑い混じりにブルルと鼻を鳴らす。
一方で、ヤモリンは友人のアンジェの将来をしみじみと思った。
天の加護が彼女を幸せにするとは限らない事を、ヤモリンは知っている。
『あっしは、嬢ちゃんに幸せになって欲しいでゲス、だから、天に召されるまで一緒にいるでゲス』
― 神様の意地悪なんかに、あっしも嬢ちゃんも負けないでゲス。
(ヤモリン、神様は意地悪ではないですよ)
いきなり耳元で響いたアンジェロ・クストーデの声に、ヤモリンは固まって壁からぽてりと落ちた。
『これ、ヤモリンどうした?』
仰向けに落ちたヤモリンを、フレッチャとちび丸が覗き込んだ。
『あ、あっし、大天使様の声が聞こえたでゲス…嬢ちゃんは天使になるそうでゲス…』
『大天使様?アンジェは天使になるって、どういうことなの?』
『ヤモリン、大天使とはなんじゃ?』
『天使になる、それが嬢ちゃんの幸せか不幸か、あっしには分からないでゲス。でも、ずっと嬢ちゃんの友達でいたいでゲス…』
ヤモリンには瞼が無く、泣くことも出来ない筈だった。
しかし、今のヤモリンは涙を流していた。