第111話 地獄に仏はいないが天使はいる
潰れかけた屋根の廃屋、その2階の部屋の真ん中に、小さなつむじ風がひとつ。セリオンの手にあった四つ葉のお守りを奪うとフワッと宙に舞いあげた。
目に見えぬ襲撃者に額を打たれたセリオンは、頭を押さえて床に崩れている。
アンジェがくれた御守りの四つ葉が見る間に枯れて、葉が毟られるように千切れて床に散り落ちた。
『何しょぼくれてるー――!気合入れんかあぁぁぁ!!!』
セリオンさんに喝!!!あたしの闘魂注入念力デコピンを額に喰らい、彼は壁にぶち当たった後、床に横向きに倒れ込んだ。
あたしの背後から、脇に腕を入れて持ち上げていたディオ兄は、目を丸くして辺りをキョロキョロと見回した後、キュッと抱きしめた。
「え?え?ここ何処?アンジェ何かやったの?あ!セリオンさん!!」
床に倒れたセリオンさんが頭を抱えて蹲っていたが、身体をガバッと起こしてあたしを睨みつけた。
「何するんだー-!いきなり叩きやがって!」
『そんだけ元気ならもっと強く叩いても良いのよー――!』
しけたセリオンさんの額に思いっきり頭突きしてやった。
なによ、元気そのものじゃない!心配して損したわ!
それによ!普段のセリオンさんはふてぶてしいくらいなのだ。それが気弱になって、くさくさのメソメソなんて許さんぞ!
「セリオンさん!良かった元気そう。アンジェが心配して大泣きしてたんだよ」
ほら、とディオ兄があたしの鼻にハンカチをあてた。
*ちー――ん*
ディオ兄は、あたしの涙と鼻水でくちゃくちゃの顔をハンカチで拭うと、壁にもたれて片膝を立てて座っているセリオンさんの横に座った。
そして、膝に座らせたあたしの頭を撫でながら、不安そうな声でセリオンさんの顔を覗き込んだ。
「アンジェが、セリオンさんが死にそうだって騒いだから心配したんだよ。
水も食料も無くて大怪我しているって言って凄く泣いて…」
はっとしてセリオンさんが自分の身体を点検するようにあっちこっちを触って、シャツを脱いで左腕を剥き出しにした。
若く張りのある肌と、痩せてはいるが鍛え上げた筋肉が傷ひとつなく現れた。
彼は口を開けて左の上腕を暫く見ていた、そして信じられないと顔を上げた。
「なんで治っているんだ?!腕がもう腐乱臭をおこしていたのに!肉だって喰われて無くなっていたのに!もう感覚はなかったし、血が通わなくなって白く変色していたんだぞ?」
昨日までは、死んだ毛細血管が、皮下に潜んだ醜い寄生虫のように這っていた肌だったのに、今はしなやかな筋肉の上に薄っすらと滲んだ汗で艶やかで美しくみえた。
左の掌を何度も握って開いた、左腕は完全に生き返っている。
まだ信じられないセリオンさんは腕を何度も何度もさすって確かめた後、ほーっと大きく息を吐き、「何にせよ、有難い…助かった」と、呟いた。
ディオ兄が水の入った革袋を差し出すと、セリオンさんはすぐに飲みだした。
「はあ、美味い、生き返ったぜ…」
暫く噛むように味わって飲んだ後、「貴重な水だ、もう止めておこう…」と、皮袋の栓を閉めた。
「どうして?たくさんあるみたいだけど?」
ディオ兄が指さした先には、部屋の隅で大きな水桶がきれいな水を満々と湛えている。
セリオンさんは驚きの声をあげた。
「何故だ?さっきまで底が抜けて水が残っていなかったんだぞ?」
ディオ兄は柄杓で水をすくい、手で受けてひと口飲んで味を確かめると、セリオンさんに渡した。
「凄くきれいで美味しい水だよ。もう喉が渇いていない?」
水の入った柄杓を受け取り、今度は喉を鳴らして飲み干したセリオンさんは、また、何があったのか尋ねた。
「俺の身体が治っているし、さっき迄、体力は限界だったのに、今は力がみなぎっている感じなんだ。アンジェは本当に何にもしてないのか?」
「アンジェ、何か治療をしたの?」
「うんにゃ?あたしが来た時にはセリオンさんに治療が必要な悪い光は出ていなかったよ。
元気そうなのに落ち込んでるからデコピンしたんだからね」
要するに、あたしは何にもしていないと言うと、今度はセリオンさんが、そんな筈はと首を傾げていた。
すると、彼は床に落ちていたクローバーに気がついた。
御守りのクローバーは茶色く変色して四つ葉がちぎれていた。
セリオンさんはそれを拾うと不思議そうにみて、もしや、と息を呑んだ。
「こいつのせいか?俺がこいつに願ったからか?」
セリオンさんは、そんなもんに縋るほど差し迫っていたのか…
来られて良かった、どうしてこうなったのか、まるで判らないけど…
「四つ葉に、セリオンさんの無事をお祈りしたけど、お兄様にしたのと同じことしかしてにゃいよ」
お兄様にそんな不思議は起こっていないようだし、そこまであたしの力があるとは思えないのだが。
「それじゃ、ここには?どうやって来た?」
「それが俺達も全く分からなくて…アンジェが騒ぎだしたから、俺が落ち着かせようと抱き上げたら、いつの間にかここに来ていたんだよ」
* * * *
礼拝堂の祭壇に積み上がった影膳の品々を眺めながら、あたしはグズグズと泣いていた。
何で泣いているのかと言うと、ママのように慕っていた乳母のサシャさんが辞めてしまったのだ。
分かる、分かるわよ、サシャさんの幸せのために乳離れせよという事は理解できるよ。
分かるけど、切ないのがお子ちゃまの真情というものなのよ!
「う、うう…甘えん坊接待してくれる相手が減ったでしゅ…」
グシュングシュンと鼻水をすすりながらセリオンさんの影膳の品々を見る。
何か縁起でもないけど、まるで事故現場のお供え物みたいになって来たぞ!
祭壇のてんこ盛りになった食料や武器や携帯コンロと燃料やら、「キャンプかよ!」と突っ込みたくなるものまである。
セリオンさんめ、人気あるじゃないの!
そういえば、セリオンさんだけあたしに厳しいぞ…
まあ、実はあたしが赤ちゃんでないと知っているからだけど、それにしても
憎たらしいこと言うし、コケにするし…
あう、腹立ってきた…乳母相当の兄貴として君臨しているせいか、本当にセリオンさんはあたしには遠慮ないのよね!
何か腹が立って来たぞ、帰って来ないディオ兄やパパ達に心配掛けちゃって!帰りが遅いのは心配だが、ワインをお供えするのは勿体ない気がして来たぞ!
祭壇にどっちゃりと盛られたお供え物をチロリと盗み見る、キョロキョロ、どうせ誰もいない。
ふ、ちょうど気分転換したかったのよ、飲んじゃおう♪♪♪
ほい、グビッとな!!!*ゴクゴク*
「あああああぁ!アンジェったらまたー!お酒は駄目だったら!」
ディオ兄に瓶を取り上げられるが、もう遅い!うひょひょ♪
心配してぷりぷりと怒る彼に「もう…こんなに飲んじゃって、大丈夫なの?」と、抱き上げられた。
すると、ホッペを掴んでむにゅむにゅされた。
怒っていても美少年は可愛い、実に良い目の保養だ♡
いやー!しかしこのワイン、上物じゃない?美味しいよー!
ふあ~、身体が小さいから酔いの回りも早いなあ…あれ?
何だろ、周りに変な物が見える?ここどこだろう?
目の前にいる筈の、ディオ兄の姿がみえないし言葉が拾えない。
あれは?セリオンさんだ。…怪我をしているみたいだ、大丈夫なのかな?
あれれ!見る見るうちに彼が弱って行くのが分かる…
もしかして…セリオンさんの帰りが遅いのは動けなくなったから?
セリオンさんに何かあったのかもと、体が震えて勝手に涙が湧いてきた。
「このままだと死んでしまうよ!」と、唐突に頭の中に誰かの言葉が響いて来た。
ブーーーンと嫌な耳鳴りがする、遠のいていく日常の音の中に、ケラケラと笑う子供の声が微かに響いた。
見てるだけ?…このままだと死んじゃうよ…どうするの?アンジェ…
「!!!」
そして、胸の奥にズキン!と確かに錐で刺し貫く痛みを感じた。
ああ、違う、これは痛覚じゃない。これは不安、それ以上に悲しみの衝撃、大事な人を守れなかった無力感、これから味わう筈の未来の嘆き、大事な人が消えてしまったやり場のない苦しみだ。
神の名を呼び必死に祈っても慰めのひと言もない、救われることのない怒りと絶望!
「セリオンさんが死んじゃうぅー――!!!」
ディオ兄に抱きあげられたまま腕にしがみ付いて、こみ上げて来る感情を押さえられずに大声で叫んだ!
* * * *
話しを聞き終えたセリオンさんは、部屋の中にいきなり現れたあたし達と、謎のお供え物を前に今なお混乱しているようだ。
「アンジェの力が暴走したのか?お前達も、この食べ物や武器…」
「知らない場所なんて行けないもん、アンジェ知らにゃいもん!」
「そうだよ、アンジェは思ったところに移動なんてできないよ」
「確かにそうだよな。念視はできるが、アンジェは自分が行った場所の近辺を見るだけで、それ以上はできないと言ったのは、俺も聞いたから知っている」
そういうとセリオンさんは背後からディオ兄とあたしを抱き寄せるように座ったまま、床にある品々を眺めた。
祭壇に置いてあったお供え物はテーブルクロスの上に、そのままの状態で床に在った。
その上に会った食料や飲料、武器そのほかの日用品も一緒にある。その有様はまるでガラクタ市の露天商である。
「あたし達もどうやって来たのかわからないにょ」
「これはセリオンさんが無事に帰って来るように皆が祭壇に願掛けしたんだよ。アンジェが影膳っていう物を教えてくれてね」
留守の人の無事を祈るための風習だと説明すると、セリオンさんは食料をみてお陰で助かりそうだと微笑んだ。
「魔獣狩りをしに来たんだ。ここに孤立してしまって、外に出られなくなった。食べ物も無くなるし、何より水が無くなって死にそうになってたんだ。
怪我や痛みも全快しているし、本当に助かった。それにしても…」
セリオンさんがいきなり鼻をひくつかせて、あたしのホッペを掴んで、どアップで迫って来た。
ムニムニとホッペを掴んだまま睨んでお怒りの様子だ。
「お前いくらなんでも酒臭過ぎだぞ?こんな非常時に何を考えている」
うるさい事を言うので派手に頭突きしてやった。人に心配させたくせに態度でかすぎ!
「あたしとディオ兄が来なきゃどうなったか、こんなところに一人で来ちゃって説教垂れてる場合じゃないでしょ?で、ここ何処なの?」
胡坐を組みなおしたセリオンさんは、ピクニックのようにワインの瓶をみて、手に取ってぐっと飲んだ。
「アルバだ、不毛の地で有名なアルバだよ」
ディオ兄と顔を見合わせてお口あんぐりである、何でいきなりこんなところに移動したんだろう?