第10話 天使か悪魔か
いつからセリオンさんはあたしのことを感づいたのだろう。
完全に油断していた、ディオ兄の優しい兄貴分という顔だけ見ていたせいで、彼があたしに不信感を持っていたのに気がつかなかったのだ。
失敗した!この人の初対面で感じたあの鋭い眼つきはやはり、ただのお飾りでは無かったのだ。
恐怖で体の芯が凍る、どうやってこの場を逃れるたらいいのか。
浮浪児だったディオ兄はバッソに流れ着いたあと、市場のゴミを漁って生活していた。
セリオンさんは廃墟に住み着いたディオ兄に食べ物を持って来て、大人を信用していなかった彼を根気よく説き伏せ、ルトガーさんの保護下に入るようにしたのだ。
彼はディオ兄にとって恩人だ、そんな人と争いたくはない。
それはせっかく信用できる大人に出会えたディオ兄のためでもあるし、何より彼を泣かせたくない、あたしのためでもある。
できれば彼が自分の誤解だと思ってくれればいいのだが、どうやら彼には、あたしがただの赤ん坊じゃないという確信があるようだ。
頭の中で、怖さに負けないようにグルグルと考えを巡らせる。
よっし!「ほぎゃっ「おっと、誰かを呼ぼうとしたってそうはいかないぞ」」
セリオンさんは片手であたしの口を塞いだまま言葉を続けた。
「まあ、幽霊屋敷で有名なところに叫んだところで誰もこないがな」
「!!!」
「おいおい、呑気に構えているなよ。おれはディオみたいに甘くないぜ」
あたしの頬をピタピタとひとさし指で叩いて、からかうように言った。
痛くはない、痛くはないがムカついた。
負けるなあたし!理不尽な奴らに負けないって誓ったじゃないか!
赤ん坊にナイフを突きつけるような奴に負けたくない。
だけど、怖い、再び覗き込んできた暗い紅色の瞳を見て体の芯がまた一瞬で冷えた。
「いつまで知らんふりをしている、お前がまともな赤子じゃないことはとっくにわかってんだ。
ディオを騙せても俺は騙せないぞ」
身体を固くして何も言わないあたしにイラついたのか、セリオンさんはチッと舌打ちすると、口を塞いでいた手を首にずらし、ナイフを目の前にグイっと突き付けた。眼球のすぐそばにナイフが迫った。
その瞬間、あたしの中で抑え込んでいた恐怖が弾けた!
前世でお腹に刺さったナイフの記憶。
死にたくない!こんなの嫌だ!また刺されるなんて絶対に嫌!
あの通り魔も!あんたも!!絶対に許すもんか!!
ふざけるな!生まれ変わったのに、またなんて許せない!もうあんた達みたいな男に好きにさせないわよ!!!
沸き上がった怒りは一瞬にして恐怖を消し飛ばした。
意識を集中して目をカッと見開くと、彼の胸を思いっきり思念で突く!
ドンと鈍い音がした瞬間、「ぐっ!」という彼の曇った声がした。
セリオンさんの体が同時に弾け飛んで、桜の木の2メートルほどの高さを突き上げるように横っ腹から叩きつけられた。
ドン!!「がはっ」
彼は地面にドサンと落ちてくると、這いつくばったまま呻くように言った。
「お前は…一体…何者なんだ…」
『あたしはディオ兄の可愛いい妹のアンジェリーチェよ!
あたしはディオ兄と出会って彼を護ると決めたの。あたしが死んだら妹大好きな彼が嘆くのよ!
ディオ兄を泣かす気なら容赦しないわ!!』
「おい…ちょっと何を?」
あたしは彼の前で体をふわりと浮かせる。もう会うこともないだろうから、出し惜しみはしない。
思う存分あたしの怒りに触れるがいいのだ!
空中から見下ろしながら感情のままに涙が溢れ出て来た。
「ほぎゃあー!ほぎゃあー!」
『あたしは、生まれ変わって、また殺されるつもりは無いもん!ディオ兄を護ってあげるつもりだったけど、あんたのせいで、もう一緒に居られないじゃん!馬鹿野郎―!』
ボロボロと涙が流れて、赤ちゃんらしく泣き声を上げているけど、あたしは頭の中で話せる、こういう時にはえらく便利なのだ。
地面に這いつくばったセリオンさんは耳を塞いで耐えている。
もうこれ以上泣かないように深呼吸して気持ちを落ち着ける。
そして思いっきりの威圧を込めて彼を脅した。
目が合ったセリオンさんがあたしの放つ怒りのオーラに委縮した。
『その怒りは受けてもらうわね。大丈夫、あたしはあんた達みたいな鬼畜じゃない。だから!
死なない程度にあたしの怒りを受け止めてね?』
「ちょっと、おい、ちょっと待て…」
セリオンさんはノロノロと半身を起こした、今さら命乞いですか?
いや、あたし殺人なんてしないけどね。
ナイフで赤子を殺しに来るような男には、あたしも気兼ねなく攻撃できるわ!
殺さないけど!その代わりー
『大動脈を傷つけると死んじゃうかもしれないから、鎖骨は折らないように気を付けるね。あ、接近戦の基本の第10肋骨も。即死するとまずいからね』
海外の刑事ものドラマでじっくりみたから、こういう事には詳しいのだ。
恐怖を感じるくらいのお仕置きはしますよ、こっちは泣くほど怖かったし。
笑顔で制裁してやろうじゃないの!
*にっこにこ~*アンジェちゃんすまいる~
狼狽えたセリオンさんが最高に失礼なことをぶちかましてくれた。
「お、お前、さては悪魔だな!」
『はあ?赤子をナイフで殺そうとする奴が悪魔言うな!マウント取られたくせに、まだ懲りないであたしに喧嘩売るつもりなら買うよー!』
*ごきん!* まずは拳骨です、ありがたく受けたまえ。
「なっ!いったいどこから?どうやって殴った???」
空中に浮いているあたしを、地面に転がって見上げていたセリオンさんが頭を押さえて、また狼狽えた声をあげた。
『敵に手の内を明かすマヌケがどこにいるのよ、あんた馬鹿じゃない?』
ふん、あたしの怒りはこんなもんで済まないからね。
次は顔が変わるくらい往復ビンタだ!
*パン!パン!パン!パン!パン!パン!…*
実に乾いた小気味の良い音が木立に鳴り響いた、邪魔が入らないから思い切りできるわ。
もはやイケメンの影も形もないセリオンさんの腫れあがった顔を見て、ようやくあたしの溜飲も下がった。
ハガ~、などと聞いたこともないうめき声を上げて、地面に仰向けに倒れている彼をしり目に、もう諦めがついたあたしは彼に告げた。
心の整理はついたが流す涙はまだ止まらない。
『ディオ兄に伝えて、もう一緒に居られないから出て行く、遠くで見守っているから元気でねって。
他の人には適当に説明してよ、そんじゃさよなら』
悲しいけどもうディオ兄とは一緒に居られない、セリオンさんはディオ兄の大事な兄貴分だ。ナイフであたしの命を狙ってきた彼が、ディオ兄のそばにいるのはあたしが耐えられない。
この能力があれば何とか生きていけるだろう。
グーンと空中に浮かび上がると、下から慌てたセリオンさんが手を伸ばして大声で叫んで必死に止めた。
「ちょっ、ちょっと待てアンジェ!早まるな!」
『あんたのせいで出て行くのよ、“何が早まるな”よ』
人の穏やかな生活をぶち壊して何を言う!あっかんベーなのだ!
それでも下から見上げた彼は早口に申し開きをした。
「ち、違うんだ。このナイフは丸刃だ!お前を傷つけるつもりは始めから無かった!さっきのナイフを見て確認してくれ」
あたしはナイフなんか分からないわよ。前世、ナイフで殺されたんだから触りたくもない。
『はあ?意味わかんないし』
「とにかく、刃の部分をよく見れば分かるから」
そこまで言うならと、要らぬ反撃を防ぐために、彼を廃墟の屋根に放り上げてから、落ちているナイフをよく観察した。
あ、あれ?ナイフの刃が潰してある。
これじゃあ、切れないじゃん。え?じゃあセリオンさんは…
荒い息で胸を押さえて屋根の上でうずくまっている彼のところへ急ぎ飛んでいった。そして、苦しそうな息をしているセリオンさんと対峙した。
「脅すだけで殺すつもりは無かったってこと?」
「そうだ、お前がディオに害意がないのは分かってた。だけど、ディオが騙されているかもしれないと思って」
*ごん!* おまけの拳骨をお見舞いする。
頭を抱えたセリオンさんが恨めし気にこちらを見上げた。
「くー、何するんだ…」
『殺すつもりは無かったって分かったけど、そのために、あたしの古傷をえぐった報いよ』
「わかった、悪かったよ。謝る。だからもう勘弁してくれないか?」
しょうが無いわねと大げさに溜息をつくと、廃墟の家とは遠い林の下に降ろしてやった。
木の寄りかかって座り込んでいる彼を浮かんだまま見下ろす。
彼は彼なりにディオ兄の心配をしていただけなのか。
ならば、頭には来てるけど…怒りの落としどころとしてはまだ全然不足だけど、仕方ないから許してやるか。
「お前のことは、人に知られたくないなら俺は秘密を守る。ディオもそうしているんだろう?お前がディオの味方なら俺もお前の味方だ。
それからお前変な事、言ったな、「生まれ変わって」とか言ってたろう?それに「あんた達」とも、どういうことだ?」
あちゃ~、激情に駆られて前世のことを口走ってしまった、仕方ない、話すか。雌雄は決したし、下手に敵対して逆らうこともないでしょう。
あれ?なんかあたし、前世とだいぶ性格変わった気がする…
その少し前、天界では小さ動揺が走った。
―天使の卵が足りない?いつの間に失せたのだ?
―下界に転がり落ちたらしいだと?アルバか?
―下界の穢れの地に未熟な卵が落ちたなら、もう天使の羽は生えないだろう。
羽が無いならもはや天使ではない。ただの人だ。
―下界人と違って元から備わっている才があるから、あちらでも元気に育ってくれるだろう。人として天寿を全うすればきっと魂は天界に戻れる。
―まあ、様子を見に行っても良いが大丈夫だろう。我らは同胞の帰還を待てば良いのだ。
天上の小さな騒ぎはそのまま他には知らされず、放って置かれた。