5
──それから五日後の深夜。
私は、その扉の前に立っていた。決して来る事は無いと思っていた、禁断の扉。
宮殿から少し離れた場所に立つ、小さな一軒家を見上げる。月もなく、暗い夜だった。二階に灯った明かりだけが、希望の光のようだ。あの日、私の積み重ねてきた物は、全て崩れ去った。何重にも施した魔法が、泡沫のように消え去った。
一度壊れてしまったら、元に戻すのは難しい。私の本当の心を縛っていた鎖は、砕け散ったのだ。あの、ルージュの魔術と私の想いを封じ込めたクリスタルと一緒に。
だから私は、今、ここに立っている。
扉のブザーを鳴らすと、しばらくしてから扉が開かれる。
「ここで一体何をしているのですか?」
驚いた顔で、扉を開けた本人であるヴァレリーが、立ち尽くしていた。当然だろう。真夜中に私がたった一人で、部屋の前に立っていたら驚くのも当然。見られてはまずいと思ったのか、手を引いて私を部屋に入れる。その瞬間私は、ヴァレリーに抱き付いていた。
「ヴァレリー、私、もう無理よ、無理なのよ……」
「お止め下さい、リディアーヌ様」
「様なんて要らない。お願い。私を抱いて。あなたがいい」
私がそう言うと、私を引き剥がすようにして、ヴァレリーが遠ざかる。その分近づこうとすれば、また遠ざかった。ヴァレリーは俯いて、拳を握り締めている。
「私は、殿下を裏切れない……。あなただってそうでしょう。こんな事をして、いずれ露見するのに」
絞り出すようなその声に、私は首を振った。そんな事は、どうだっていい。それが、私の答えだ。
「それが何よ。殿下にどう思われようと構わないわ。私はただ、あなたが望む殿下の婚約者になりたかっただけだもの」
私の言葉に、ヴァレリーが顔を上げる。見開いた瞳が、戸惑っているのが分かった。
「私が、何を望んだと……?」
「婚約者に選ばれたと言ったとき、君が王太子殿下の婚約者なら安心だ。君こそ相応しいとそう言ったわ。お父様は断ってもいいと言ってくれた。それくらいでルージュの地位は揺るがないって。だけど、あなたがそう言ったから。それなら私は、あなたが望んだ通りの、相応しいと思われる殿下の婚約者になろうって決めたのよ」
私は別に、殿下が嫌いではない。愛してはいないだけで。この先ずっと、この想いは変わらない。お母様によく、あなたは本当にルージュの娘ね、と言われていたものだ。ルージュは、燃えるような激しい想いを持っている。
一度燃え上がってしまったその炎は、抑えつける事は出来ても、完全に消す事は出来ない。
「私は今も昔も、ただ、あなたの為に生きてきたんだもの。初めて会ったあの日から」
青い花咲く私の庭園で、ヴァレリーが私の手を取って口づけてくれた、あの日から。
そう付け加えると、ヴァレリーが床に崩れ落ちた。
「なんという事だ。私は……、ただ、君が……」
「ねぇ、お願い。あなたが言うならこのまま結婚してもいい。殿下の子供だって産んであげる。だけど、私が愛しているのはあなただけ。最初はあなたがいい。一回だけでいいから。お願いよ、ヴァレリー」
私の懇願に、ヴァレリーは首を振る。
「……無理だ。私には出来ない。私が、たったの一回で満足するとでも思っているのか? 私が、なんの為に君の手を離したか、分かっているのか?」
それはもちろん分かっている。ヴァレリーは、私の為を思ったのだろう。一介の騎士と結婚するよりも、王太子と結婚した方が、幸せになれるのではないか、と。そんな事、分からないのにね。
ヴァレリーの言葉に、私は笑った。
「そう言うと思ったわ。正直言うと、私は本気で抱いてほしくて来たわけじゃないのよ。ちょっぴり期待はしていたけれどね」
そう言いながら、ポケットから小瓶を取り出す。透明な瓶の中には、綺麗な水色をした液体が入っている。
「私はただ、あなたに会いたかっただけなの。すべてを忘れる、その前に」
私の言葉に、ようやくヴァレリーが顔を上げた。私と瓶とに目を走らせて、戸惑っている様子だった。
「それ、は……?」
「時忘れの水薬。とある方がくださったの」
「……待て」
瓶の蓋を開ければ、ヴァレリーが腰を浮かせる。だけど、私が飲む方が早いだろう。
ヴァレリーには悪いけれど、私はもう、王太子殿下の婚約者ではいられない。殿下に抱き締められた時に、どうして結婚相手がヴァレリーじゃないのだろう、と思ってしまったから。
これは自分勝手な願いだって分かってる。それでも。
「私は、あなたが愛してくれた私のままでいたいのよ」
一息に飲み干してすぐに頭がぼんやりして、立っていられなくなる。床にそのまま倒れ込みそうな私を、ヴァレリーが抱き止めてくれた。
「リディ! 今すぐ吐け!」
必死なその顔に、思わず笑ってしまう。
「……無理よ。私ね、あなたのそんな顔が見たかったの。私の事なんて忘れ去ったかのような取り澄ました顔が、大嫌いだったわ」
その言葉を最後に、私はヴァレリーの腕の中で、眠りに落ちた。
◇◇
初めてリディと会った時、美しい人だと思った。青色の花が咲き乱れる庭園で、リディは静かに佇んでいた。この庭園は、リディだけのもの。私たち二人しかいない、静かな場所だった。
「初めまして。リディアーヌ・イザベル・ミリアン・コレット・ルカミエ・ド・ルージュです」
にこやかに笑い、すらすらと自分の名を名乗る声は、鈴のようだった。思わず見惚れていると、こてん、と首を傾げた。
「あなたがヴァレリーよね?」
「……あ、はい。ヴァレリー・エリク・プレオベールです。今日からお嬢様の騎士となり、お守りします」
顔をあげると、優しい瞳と目が合う。私は震える手で、リディが差し出した白魚のような手に、口づけを落とした。するとリディは軽やかな声で笑って、私の手を取った。
「さ、儀式はこれでおしまい。ヴァレリー、私の友達になってくれる?」
当時、私たちは10歳だった。美しいと思ったリディも、元気いっぱいに笑う姿は、ただの少女でしかなかった。
「え、しかし……」
「いいでしょう? その方が素敵よ。ね」
「お嬢様がそう言うのなら」
「リディよ。一緒に遊びましょう?」
リディはいつでも無邪気だった。
そんなリディが、私は好きだった。
「──ねぇ、ヴァレリー。私、王太子殿下の婚約者になるんですって」
あの日私は、リディに求婚するつもりだった。当主様に許しをもらって、一緒に暮らそうと、言うつもりだった。
この時すでに私は王太子殿下の護衛を務めていたのに、婚約する相手がリディだと言うことを、まったく知らなかった。もしかしたら、知らされていなかった、の方が正しいのかもしれないが。
いつもの庭園に呼ばれて行けば、リディにそう告げられたのだった。
「……そう、なのか」
私はよっぽど苦い顔をしていたのか、リディが楽しそうに笑った。
「あなたも知らなかったのね。良かった。あなたも隠していたんだったら、怒っていたところよ」
「私は……」
「ヴァレリー。どう思う?」
この時私がリディの手を取っていれば、別の言葉を口にしていれば、状況は変わっただろうか。
答えは分かりきっている。
二人とも、幸せにはなれなかっただろう。
私は当主と殿下を裏切った罪で殺され、リディは最悪死ぬか、よくて幽閉されていたに違いない。
「……君が、あなたが婚約者なら安心ですよ。あなたこそ、婚約者に相応しいと思います」
私の言葉に、リディが俯く。顔にかかる影でさえ、美しかった。
「そう……。そうね。あなたはそう言うわよね。今日はもういいわ」
口を閉ざしたリディに頭を下げ、その場を後にする。こっそり振り返った時、リディは空を見上げて、泣いているように見えた。
リディとの契約がある限り、私はリディのものだった。殿下に忠誠を誓っても、私はリディの騎士だった。だからこそ、せめて二人を守りたいと思った。私の思いはすべて、この剣に捧げようと。嫉妬に焼き尽くされそうになったとしても。自分の想いをすべて封印して。二人が、笑っていられるように。
だから。
私が望んだのは、あんな結果ではなかった。
私が望んだのは、こんな結果ではなかった。
私が望んだのは、ただ、ただ。
君が、幸せである事だけだったのだから──。