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「あ、アロイス様。あちらのお店を見てもよろしいですか?」
可愛らしい建物を指差すと、隣から咳払いが聞こえる。
「姉上」
苦笑しながらそう言われた私は、出掛ける前に決めた事を思いだし、はっとした。
「あ、ええと。向こうのお店に行きましょう、アロイス」
「はい、姉上」
そう答える声は弾んでいて、楽しそうだ。
私たちは今、王都の中心地サンティエに来ている。けれどさすがに、王太子とその婚約者という体で来れば、嫌でも目立つ。店員たちはもちろん、周りの人たちにも余計な気遣いをさせてしまうだろう。その為私たちは今、姉弟という設定にしているのだった。
二人とも魔法で髪と目の色を茶色にして、地味な服に身を包んでいる。何処にでもいるような、街の姉弟として溶け込めるように。それでも少数の護衛がついているのは、致し方ない。一応彼らも制服姿では無いけれど。
サンティエは、美しい街並みの都だ。宮殿を中心に、王都を守る魔法壁まで真っ直ぐに伸びる、聖五家の名を冠した5つの大通りが特徴的。ルージュ通りは洋服店や雑貨屋が建ち並び、ブラン通りには魔法薬屋が多く、ブルー通りには飲食店が。屋台が並ぶジョーヌ通りはいつも美味しそうな香りにあふれる商店街、ノワール通りは劇場のある歓楽街。
細い小路には住宅街があったり、抜けた先に公園があったりする。私もよく来るけれど、蜘蛛の巣のような路地のすべてを歩いた事はない。
いつ来ても、何度来ても、飽きる事のない、大好きな街だ。
「まぁ、見て。これ可愛い」
いくつかの店を回って、装飾品店に入った私は、ルビーで彩られたブレスレットを指差し、思わずそう言って笑う。
魔法具も売っているこの店には、私も何度か来た事がある。守護魔法の施されたブレスレットやペンダントが比較的安価で手に入る、紳士淑女から人気の店だ。
「姉上に似合いそうですね。プレゼントしますよ。もうすぐ誕生日ですよね」
隣にいたアロイス様が微笑みながらそう言った時、私は少し苦笑してしまった。
私の誕生日はもう過ぎてしまった事を、アロイス様は知っているのにそう言ったこともあるけれど、まるで私が、貢がせているみたいに聞こえたから。買って欲しくて言った訳じゃないのに。
「そういうことは、あまり言わないの、アロイス」
「弟がプレゼントすると言ってるんですよ。素直に頷いてください」
「でもねぇ」
果たして、素直に頷いていいものかしら、と悩む。姉弟設定とはいえ、この国の王太子殿下。素直に受け取れない。すると、店の奥から出てきた店員が、私たちを微笑ましそうに見つめていることに気がつく。
「いいじゃねぇか、姉さん。甘えときな。おまけしとくからさ」
店員の言葉に背を押されたのか、アロイス様が期待に満ちた眼差しを向けてきた。
「……それなら、いただくわ」
しぶしぶと、その目に負けてしまった、と思っている私に対し、アロイス様は嬉しそうに笑っていた。
「ありがとうございました」
店を出てこっそりお礼を言うと、アロイス様は照れ臭そうにはにかむ。
思えば、直接プレゼントされたのは、初めてかもしれない。毎年家に届けられる、アロイス様からのプレゼントも嬉しいけれど、これも新鮮で楽しい気持ちになった。
「姉上。お腹空きません?」
「言われてみれば」
「では商店街に行きましょう」
アロイス様はそう言って、私の手を引いて歩き出す。少し強引なところに、最初は戸惑っていた私だったけれど、今ではもう慣れてしまった。二人で一緒に歩いていると、弟がいたらこんな風に歩いていたかもしれない、と微笑む。実際は弟ではなく、将来の夫なのだけれど。
「飲食店ではなくていいの?」
「一度行ってみたかったんです。でも、実はまだ行けてなくて」
「それはもったいない。商店街は楽しいわ。同じものを売っているところの、食べ比べをするのが好きよ」
聖五家の人間が食べ歩きなんて、と思う人も中にはいるかもしれない。けれど、商店街では身分なんて関係ない。美味しいものを食べられるのだから、それだけで幸せになれる。
「でも小さい頃はよく叱られたわ。一人で食べきれないほど欲しがったから」
「そうなんですか。意外です」
姉弟にしてはおかしな会話だけど、気にしてる人なんて誰もいない。
「だからいつも付き合わせていた人に、一緒に食べてって、泣いて頼んだりして。……懐かしいわ」
昔を思い出して、少し泣きそうになる。あの日々はもう戻らない。代わりに隣にいるのはアロイス様と、護衛が数人。自由に一人で飛び回れる時代は、とっくに終わってしまった。
心配そうなアロイス様が、私の顔を覗きこむ。私は首を振って、努めて明るく笑った。感傷に浸っている場合ではない。
やがて商店街にたどり着き、私たちは他の人たちと同じように、食べながら色々なお店を回った。野菜と鶏肉の煮込み、ミートパイにラム肉の串焼き、甘い林檎のお菓子、などなど。お土産にもいくつか買って、近くの休憩所に腰を下ろす。ちょうどよく木陰になっていて、風が気持ちいい。
「ちょっとここで待っていてくださいね。飲み物を買ってきます」
そこまでさせるわけには、という前に、アロイス様は駆けていく。護衛の一人がその後を追っていった。私は息を吐き、なんとなく視線を動かす。通りを歩く人は皆笑顔で、私まで楽しくなる。それらを眺めていると、見知ったものが視界に入った。
「……あれは、お兄様?」
真っ赤なその髪を、見間違うわけがない。
お兄様の仕事は王都の警備。だから、歩いていても不思議では無いけれど。お兄様が外に出る時は、よっぽどでない限り無いと聞いているから、無性に気になった。私は立ち上がり、後ろの護衛に断りをいれる。
「ごめんなさい。少しあちらへ行きます」
「え、リディ様!?」
「すぐ戻るわ!」
私は困惑気味の声を後ろに聞きながら、すいすいと人を避け、細い小路に入っていくお兄様の後を追った。
黄色や赤色のカラフルな家が立ち並ぶ通り、小さなカフェがある通り、楓の並木道。それらを通りすぎ、迷いなく歩いていく。どこに行くのかしら、と思っているうちに、お兄様は一軒の青い小さな家の扉をノックした。
離れた場所で様子を窺っていると、少しして中から出てきたのはふわふわの茶髪をした小柄な女性だった。お兄様は彼女に花を渡し、口づけを交わし、家の中に入っていく。
「まぁ。お兄様ったら。恋人がいたのね」
二人が恋人同士なのは間違いない。お兄様は、どうでもいい相手に、花なんて贈ったりしないから。
「でもどうして教えてくれなかったのかしら」
そう独り言をいいながらも、答えはすぐに分かった。
「お父様が認めてくれないからよね。お兄様はルージュの後継ぎだもの。庶民なんて、と言われるかも。この辺りに住むのは、魔術師ではないはず……」
「その通りだよ」
その声にびっくりして振り返ると、家に入っていったはずのお兄様が立っている。
「っ、お兄様!」
「やぁ、リディアーヌ。ごきげんよう」
笑ったその顔が怒っているように見えるのは、気のせいかしら。
「どうして私だって」
「今、お兄様と言ったじゃないか。それに、愛しいリディアーヌを見間違えたりしないよ。茶髪も似合うね」
「……怒っていらっしゃる?」
「つけてきた事は怒らない。殿下は一緒じゃないのかい?」
「あ、ええと……」
「駄目じゃないか。放ってきたりしては」
「ごめんなさい」
素直に謝れば、お兄様に苦笑される。私の頭を優しく小突き、私を誘うように歩き出した背の後を追った。
「殿下はどこに?」
「ジョーヌ通りかと。あの、恋人はよろしいんですか?」
後ろを振り返りながら言うと、歩幅を合わせてくれたお兄様が隣に並び、問題無いよと笑う。
「今日は元からすぐ帰る予定だったから。それより、自分の心配をしなよ。拐われたりしたらどうするんだい。王都といえども、それなりに危険はある」
お兄様の心配ももっともだ。王都に危険がまったくなければ、お兄様は頻繁に彼女の元へ行けるだろう。真っ昼間でも、女性が路地裏を一人で歩かない方がいいくらいの危険はあった。
「迂闊でした」
「反省してるならいいよ」
あっさり言われて、私は笑ってしまった。昔から、お兄様にはきついお叱り受けた事がない。雑踏の中を、今度こそ正真正銘の兄妹と歩くのは、やっぱり心地よくて気が緩んでしまう。
「お兄様は優しいですね」
「リディと彼女にはね」
照れたように笑う姿を珍しく思いながら、首を傾げる。
「どこでお知り合いに?」
「偶然散歩をしていたら、彼女が倒れていたんだ」
「まぁ!」
「それから放っておけなくて、色々世話を焼いているうちに、ね」
「可愛らしい人でしたわ」
「うん。それにとても純粋な人だ。初めてリディ以外で、守りたいと思った」
「よかったです。私、心配だったんですよ」
「まぁでも、問題は山積みだけど」
一番の問題は、お父様を説得する事だろう。堅物というわけではないけれど、お兄様には厳しい。
「大丈夫です。お兄様なら。だってお兄様は……」
一度決めたらやり通す方ですもの。そう言おうとした私の言葉は、後には続かなかった。
「リディ?」
お兄様の声が聞こえる。だけど、声が出せない。
「リディ!?」
焦るようなその声を聞いたのを最後に、私の意識は途切れた。
◇◇
「アロイス様! アロイス様はいませんか!?」
そう呼ばれ辺りを見渡すと、見知った顔が振り返った私に気がつき、走ってくるのが見えた。彼にしては珍しく、焦った顔で。どくっと、心臓が嫌な音をたてた。
「セレスタン。何が、あった?」
そう問いかけた声は、震えていなかっただろうか。
「リディがいない! 僕が一緒にいたのに! 消えてしまった!」
私に掴みかからんばかりのセレスタンを、護衛も驚いた様子だ。私も、こんなに取り乱した姿は今だかつて見たことがない。
「殿下、どうか、どうかリディを!」
何事かとざわめきだした通りに、人が集まりだしている。このままではまずい。
私は、意外と自分が落ち着いていることに気がついた。目の前に、目が血走りそうな人間がいるからだろうか。
「落ち着け。何があった?」
「分かりません。普通に話ながら歩いて……、あぁ、リディ……」
憔悴した様子で地面に膝をつくセレスタンを、護衛の一人が労るように支える。
「一旦戻りましょう。それから策を」
今一人の護衛にそう言われて、私は頷いた。
「そうだな。戻るぞ」
◇◇
目が覚めると、硬い床の上だった。手足は縛られていないけれど、何か薬を嗅がされたのか、起き上がろうとすると頭がくらくらする。
一体、何が起きたのだろう。お兄様と歩いていたら、突然腕を引っ張られて、路地裏に……。
ああ。私は拐われたのか。お兄様が心配した通りに。お兄様の、すぐそばで。
「ごめんなさい、お兄様」
そう呟くと、部屋の隅で何かが動いた。
「起きたのか?」
そう言ったのは、薄汚れた服を着た髭面の男だった。年も声も思ったより若そうだけど、上品とは言えない笑みには、鳥肌が立つ。
「誰……?」
「悪ぃなぁ嬢ちゃん。あんたに恨みはないが、あんたが傷つけば、あいつの情けねぇ顔が見れるよな?」
「……あいつ?」
「あんたの兄さんだよ。お兄様って呼んでたじゃねぇか。似てねぇから疑ったが、今はそっくりだ」
魔法が解けたんだわ。かといって、なんの助けにもならないし、むしろ不利な状況かもしれない。というか、私たちをつけていたのだろうか。いつから?
私が、お兄様を追いかけなければ……。唇を噛み締める私をよそに、男はぶつぶつと言葉を続けている。
「あの野郎のせいでなぁ、俺は恥をかいたんだよ。あの野郎、俺のいない隙に俺の女を……。ちょっと顔がよくて聖五家の跡継ぎだからって……」
なんとなく理解した。恋人を取られたと思い込んでいるんだわ。もしくは、そのせいで振られたか。しょうがないお兄様。
「まぁいい。あいつとそっくりだからな。さぞかし、いい顔を見せてくれるんだろうなぁ?」
にやりといやらしい笑みを浮かべて、男が近づいてくる。
「いや、来ないで……」
私はおぼつかない体を何とか動かし、距離を取ろうとする。それでもすぐに壁にぶつかってしまった。
男の腕が、私の肩に伸びる。
「触らないで!」
「うるせぇなぁ」
「……っ」
振り払えば右頬を殴られ、なすすべもなく床に倒れた。
◇◇
「まだ見つからないのか?」
私の苛立った声に、曖昧な笑みで頭を下げるのは、灰色のローブを着た魔術師。灰色のローブは、宮廷魔術師ではあるが、上級魔術師には一歩遠い者。それでも、優れた魔術師なのは確かだ。
彼の他にもふたりの魔術師が、リディを捜してくれている。けれど、中々うまくいかない。
「申し訳ありません。何せ王都はごみごみしすぎていて……」
「魔力反応も多いですからね。せめて、リディアーヌ様が魔法を使えば……」
「こんな時に第一級魔術師が3人揃って不在とは……」
歯切れの悪い言葉に、焦りが募る。
そもそも、第一級魔術師が不在なのは、王都を守るため。それをまるで否定するような最後の者の言葉に、ついつい靴で音をたててしまう。リディ一人の為に呼び戻すことは出来ないし、私の婚約者なのだから、私が何とかしなければならない。
その時、扉が開き、席を外していたセレスタンが戻ってきた。その顔にはもう、取り乱した様子はない。むしろ、あれは夢だったのか、と疑いたくなるほど、すっかり落ち着いた様子で口を開いた。
「殿下。ヴァレリーはどこです。ヴァレリーを呼んでください」
「ヴァレリーなら街を捜させているが、呼び戻してもヴァレリーに魔術は使えないぞ」
「ヴァレリーには、我らルージュとの契約があります。それで充分です」
「それは……」
詳しくは知らないが、聖五家はそれぞれ特別な魔術を持ち、契約を結ぶ事で行使すると聞く。それは王ですら立ち入れぬ領域で、契約を解除されるという事は、死ねと命じられるに等しいとか。
「殿下には申し訳ないのですが、ヴァレリーを貸していただけますか?」
にこりと笑ってセレスタンは言ったが、それは有無を言わせぬ口調だった。今は私の護衛であるヴァレリーだが、ルージュとの契約があると言われれば、分かったと頷くしかない。
正直、面白くはなかったけれど。
それから少しして戻ってきたヴァレリーは、私でも分かるほど、少し不安そうなのが見てとれた。ヴァレリーは滅多に表情を変えないから、それは珍しい事だ。
「申し訳ありません。殿下、セレスタン様。未だ見つけられず……」
部屋に入ってくるなり膝をついてヴァレリーが言うと、セレスタンはそんな事はいい、と立ち上がらせる。
「君に頼みがある。まぁ、僕が頼むなら、分かるよね?」
「ですが本当に、良いのでしょうか」
「僕が許可する。やってくれるね?」
「……はい」
「よろしい。クリスタルは?」
「こちらに」
そう言ってヴァレリーは、腕につけている腕輪を見せた。真ん中に赤いクリスタルが飾られ、緻密な細工が施されている物だ。
以前、いつもつけているから、大事な物かと聞いたとき、とても愛しそうに触れながら頷いた事を思い出す。なるほど。ルージュとの契約の証ならば、大事な物に違いない。
「よし。では始めよう。殿下、申し訳ないのですが、人払いを。これから行うのは、ルージュの秘術ですので」
「私はいいのか?」
「どうぞ。いずれ知ることでしょうから」
私は頷き、魔術師たちを部屋の外へ出す。セレスタンは彼らが去ったのを確認してから、魔方陣の描かれた布をどこからともなく取り出し、部屋の中央に敷いた。それから、ヴァレリーをその中心に立たせ、自らは端に腰を下ろす。
「まず君の魔力を増幅させるけど、それに呑まれないように。ヴァレリーはリディを捜す事に集中すればいい。範囲はひとまず王都全体。やり方は分かるね?」
「はい」
「強制的に繋げてもいいけれど、二人に負荷がかかりすぎる。今どういう状況か分からないし。共倒れになっても困るからね」
ヴァレリーは頷き、集中するように目を閉じる。それを見つめながら、ふとした疑問が浮かんで問いかけた。
「何故セレスタンがやらないんだ?」
「……私はこういう術は不得手なのです」
ただ一言そっけなく言って、セレスタンは口を閉ざす。集中しているからなのか、それとも私に何か思うところがあるのか。セレスタンと話す時は、いつもこんな感じだった。
「どう?」
しばらくしてセレスタンが、ヴァレリーに問いかけた。ヴァレリーの表情は変わらないが、額には汗が滲んでいる。
「……反応が薄いですね。屋内にいるのでしょう。けれど、外に出られない」
「外にいればとっくに帰ってきているよ。リディが動かないと無理かな。あの子も使い時は分かっているだろうけれど。リディに呼びかけてみて」
「やってみます」
ヴァレリーが頷いたのを見つめながら、セレスタンは独り言のように口を開いた。
「状況からみて、拐われたのなら、僕に恨みを持つ者だと思う。でなければ、わざわざ僕と一緒に歩いていたリディを狙う意味がわからない。見た目も変えていたし。……戻ったら謝らないと」
そう言って微笑みを浮かべたのと同時に、扉がノックされて、まだらに赤い髪をした一人の男が入ってくる。彼は私には目もくれず、セレスタンの背後に膝をついた。私が手をこまねいている間に、配下の者に指示を出していたらしい。
「失礼いたします。若君。目撃者がおりました。東区三番街にて、赤い髪の女性を抱えた男がいたと。医者を捜している、と言うから教えたそうです」
「どんな男だったかは?」
「髭面でよく分からなかったそうですが、この通行証を落としていったと」
通行証は、街区の門を通る際に使うもの。魔方陣の刻まれたクリスタルで、名前も住居もばっちり分かる。とはいえ、夜間に閉ざされた門の中へ入るためにあるから、街区に入る度にチェックされるわけではない。
セレスタンはそれを受け取り、思わず目を背けたくなるような笑みを浮かべ、炎の魔術によって一瞬でそれを灰にした。
「そう。お粗末な誘拐犯だ。これで見つけやすくなった。その辺りに人員を向かわせろ。僕の魔導人形を使ってもいい。ただし、見つけても手は出さないこと。リディはルージュの娘。戦える力はあるし、ヴァレリーがいるから。いざという時以外、動かないように。犯人を刺激しないように。以上。行け」
「はっ」
彼は短く頷き、風のように姿を消す。
「網の範囲を狭めよう。さぁ、ヴァレリー。リディを呼んで」
セレスタンはそう言って、余裕に満ちた笑みを浮かべた。私は黙ってそれらの様子を見ているしかなくて、どうしようもなく歯がゆい。
もっと、私に力があれば。そう思わずにはいられなかった。
◇◇
床に倒れた私の上に、男がのしかかってくる。
嫌だ。気持ち悪い。頭に浮かぶのはその言葉だけ。
「嫌っ!」
「誰も来ねぇよ」
リディ、と私を呼ぶ声が聞こえる。たぶんお兄様が、私を捜してくれているのだろう。だからこんなところで、諦めるわけにはいかない。聖五家のルージュの娘が、こんな暴力に屈するわけにはいかない。
私は歯を食い縛り、男の舌が首筋を這うのに耐える。そして大きく息を吸って、呪文を叫んだ。
「風よ舞え、アウラ!」
「ぐあっ……」
抵抗など予期していなかったのか、男の体が壁際に飛ばされ、背中をぶつけて呻き声をあげている。その隙をついて立ち上がり、ペンダントを引きちぎって、床に叩きつけた。トップのクリスタルが砕け散る。それと同時に、私の魔力が溢れるのが分かった。
本当なら使いたくなかった。契約で、彼を縛りたくなかったから。だけど。
これ以上は無理!
そう思った瞬間、私を呼んでくれ、とヴァレリーの声が聞こえた気がした。
「……リディアーヌ・イザベル・ミリアン・コレット・ルカミエ・ド・ルージュの名において命じます。我が騎士、ヴァレリー・エリク・プレオベール! 今すぐ私を助けなさい!」
どんな時でも、どこにいても、必ず貴女の元に駆けつけ、守り助ける。それが、ヴァレリーが私と交わした契約。
クリスタルが強烈に輝いたかと思うと、次第に鎮まっていく。男がよろよろと立ち上がり、こちらへやって来るのが見えた。
「なんだ。なんも起こらねぇじゃねぇか。ふざけやがって!」
「っ!」
男が腕を振り上げ、咄嗟に目を閉じる。
それと同時に、壁に重いものがぶつかる音がして、ハッと私は目を開けた。目の前に、世界中の誰よりも頼もしい背中があった。ヴァレリーの真っ白なマントが翻る。それを見た私は、涙が溢れるのを抑えきれなかった。
私は、誰よりもただ、この人を待っていたのだ。強く、そう思った。
「ヴァレリー……!」
「この方は、貴様が穢していいお方ではない」
床に伸びた男にヴァレリーが冷たい声で言って、私を振り返る。その顔を見ると、また涙が溢れた。それに少し困ったような顔をしたヴァレリーだったけれど、すぐに私を安心させるためにか、微笑んでくれる。
「ご無事ですか」
「……怖かった。怖かったわ!」
思わず抱きつけば、ぎこちなく背中を撫でられた。あぁ、諦めなくて良かった、とまた泣いてしまう。
「こちらを……」
しばらくして、ヴァレリーが自分のマントを私にかけてくれる。私はありがたくそれを受け入れ、胸元で握りしめた。
「ありがとう。あぁ、ヴァレリー。ごめんね、術を使って」
「いいえ。あなたがご無事で良かった。もうすぐ、セレスタン様もいらっしゃいますよ」
その言葉通り、私たちが外に出たところで、私は気がつけばお兄様の腕の中にいたのだった。お兄様は震える声で、良かった、と繰り返している。周りを見ると家の者たちもいて、一様に微笑みを浮かべていた。
「痛いですわ、お兄様」
私が笑って言えばお兄様は体を離し、私の頬を撫でて痛ましそうな顔をしたかと思うと、周りに控えていた者に指示を出す。
「犯人を警吏部の牢へ。後でたっぷりと話を聞こう」
にっこりと笑ったお兄様から視線を反らすと、ヴァレリーも同じように目を反らしていて、揃って笑ってしまった。お兄様を敵に回すなんて、不幸なものだ。お兄様が、私のお兄様で良かった。
「さ、リディ。戻ろう。ヴァレリーが急に消えて殿下が驚いていたけれど、特に説明もなく来たから、今頃不安がっておられるだろう」
お兄様は何事も無かったかのように爽やかに笑い、そう言った。
◇◇
「……リディ! 良かった。無事で」
部屋に戻った途端、殿下がそう言って駆け寄ってきて、私を抱き締める。さっきのヴァレリーのぎこちない抱擁とも、お兄様の痛い程の抱擁とも違う。そっと包み込むような、優しいものだった。
私は一度目を閉じてから、抱擁から逃れるように一歩下がる。
「ご心配を、おかけいたしました……」
今回の件はすべて私が悪い。お兄様は、自分の日頃の行いのせいだ、と殊勝な事を言っていたけれど。そもそも私が、お兄様を追いかけたのが悪かったのだ。
「君が無事ならそれでいいよ。今日はもう、家でゆっくり休むといい」
殿下のその優しさに、泣きそうになる。私は、そんな風に思いやってもらえるような人間じゃない。
それを今日、思い出した。
「はい、殿下」
私は頭を下げて、お兄様と一緒に部屋を後にする。お兄様は、一緒に歩いている間、何も言わなかった。きっと、すべて気がついていただろうに。家に帰って部屋に入る時も。ただ笑って、私の頭をくしゃくしゃに撫でただけだった。