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「最近の調子はいかがですか、お嬢様?」
そう言って爽やかな香りのするお茶を入れてくれたのは、宮廷魔術師のベアトリス様。
今のところは、たった3人しかいない第一級魔術師。与えられた称号は、ラ・リューヌ。月の魔術師。5年前、至上最年少の20歳にして称号を得た、正真正銘の天才。
上から下に行くにつれて金色から青色に変わる、不思議な髪色をしていて、淡い青の瞳は澄んだ泉のよう。常に女神のような微笑みを浮かべていることから、天使の微笑みのベアトリスと呼ばれていた。純白のローブもまた、それを引き立てている。
宮廷魔術師である彼女は、本来なら私と話すほど暇な人ではないはずなのだけれど。私が宮殿内で迷っていたら助けてくれて、それ以来、話し相手になってと頼まれたのだ。たまには年が近い子と話したいのですわ、と。
確かに彼女の温室には、初老の男性が3人と、まだあどけなさの残る少女が2人いるだけ。
同年代との関わりが薄いのは、ベアトリス様の夫であり、アロイス様の侍従であるランベール様が、意図的に遠ざけたとか何とか。
「はい。楽しくやっています。勉強する事はたくさんありますけど」
お茶を飲みながら答えると、優雅に微笑みを浮かべた。女の私でさえ、少しそわそわとしてしまう。ベアトリス様の微笑みには、絶対に魔力がある。
あのランベール様が、どうやって彼女を射止めたのか、気になるところだ。
ベアトリス様は自身もお茶を飲み、いつものように、ゆったりとした口調で喋る。
「それはよろしいですわね。お嬢様は、肩の力が入り過ぎているような、そんな気がしていましたの」
「そうでしょうか?」
「ええ。隠すのがお上手なようですから」
その言葉に、思わず動きを止める。まじまじと見つめてしまうと、にっこりと微笑まれた。
「私が、何か隠していると?」
もしかして、最初から聞き出すために? そんな疑問符を浮かべた私は、どんな顔をしていたのだろう。少し困ったような顔で、ベアトリス様が口を開く。
「お嬢様は、感情をしまうのがお上手、と言いたかったのですわ。辛くても辛いと言わない。言えない。頑張りすぎは、体に毒ですわ。わたくしもよく、夫にそう言っていますのよ」
「ランベール様に?」
「わたくし、そういう方を放っておけませんの。そのせいで強引に結婚を迫られ……、あ、今のはお忘れくださいませね」
「そこまで言われるとむしろ気になって……」
「お忘れくださいますね?」
微笑みながら凄まれて、おとなしく頷いた。するとベアトリス様は普段の笑顔に戻って、話を変える。この時私は、ベアトリス様は敵にしないようにしよう、と思った。
「そういえばお兄様に、最近魔獣の被害が増えたと聞いたのですが」
他愛もない会話の後そう尋ねると、ベアトリス様は神妙な顔で頷く。
「そうなのです。今のところ、わたくしたちが出向くような、緊急事態では無いのですが」
その言葉に、ほっと胸を撫で下ろした。
魔獣退治の多くは、魔術師団と騎士団が行っている。第一級魔術師はそれらに属さず、宮廷魔術師である為、よっぽどの事がない限り、王都を離れる事はない。
「何故、被害が増えたのでしょう。最近は特に、干ばつなどは無かったでしょう」
魔獣は、かつて生きていたものの魂。その負の部分が集まって、形を成したもの。狼のようだったり、馬のようだったり、または可愛い兎だったりと様々。
自分の死を受け入れられない。もしくは気がついていない。そういった魂は、魔獣に変貌しやすい。
「はっきりとは何も。たまたま数が増えただけか、それとも……」
ベアトリス様が、難しい顔をしている。その顔は別人のようで、冷たく、気温が下がったような錯覚を覚えた。
「……あの、ベアトリス様?」
しばらく黙って考え込むベアトリス様に、堪らず首を傾げる。ベアトリス様ははっとした後、いつもの微笑を浮かべたから、ほっとする。
「申し訳ございません。わたくし、考えに没頭すると、周りが見えなくなる事がありますの」
「私も、本を読む時はそんな感じです」
ふふ、とお互いに顔を見合わせて笑えば、先ほどの雰囲気が和らぐ。
「お嬢様は、王太子殿下のご婚約者として、魔獣の件を案じておられるのですか?」
「そうかもしれませんけれど、ただ、私の大好きな国ですから」
私の言葉にベアトリス様は、わたくしも大好きですわ、と答えてくれる。
私の愛する人がいる国ですもの。
ベアトリス様がそう言うとなんだか、物凄く重い意味を持つかのように聞こえたのは、第一級魔術師だからだろうか。
「わたくしは、この国を何があっても守りますわ。ですからお嬢様。どうぞご安心なさってください」
「ベアトリス様にそう言ってもらえると、不思議と安心しますね」
「ありがとうございます」
ふわりと微笑む姿は、まさに天使の微笑みのベアトリス、と呼ばれるだけあって綺麗だ。
そろそろ殿下のところへ行かないと、と立ち上がった私を、ベアトリス様も立ち上がって見送ってくれる。
「お嬢様」
少し歩いたところで声をかけられ、振り返った。ベアトリス様は静かに私を見つめた後、躊躇うように口を開く。
「こんな事を言っても、あなたには必要ないのかもしれませんが……。どうしても駄目だと思ったら、わたくしの元へおいでください。どのような手段であろうと、あなたにとっての幸福をもたらしましょう」
そう言ったベアトリス様は、これまでに見たこともない、儚げな笑みを浮かべていた。
◇◇
殿下の離れへ向かう途中、私は自分の名前が聞こえて立ち止まった。
そこはちょうど、殿下の離れへ続く庭園だった。ここを通らなければいけないのに、3人の女性が、顔を寄せて会話をしている。
私よりもわずかに年嵩で、舞踏会で挨拶を交わした事がある程度の女性たちだ。本人たちはひそひそと話しているつもりなのだろうけれど、高い声は耳に届きやすい。
私は反射的に柱の陰に隠れ、様子を窺う。ほとんど会話をした事も無いような彼女たちが私の名前を出すなんて、良い話じゃ無い事は明白だ。
「お高くとまってねぇ」
「殿下も苦労しそうですわ」
「けれど殿下はまだ幼いですから」
「あら。もしかして、それを狙ってらっしゃるの?」
「王妃になるなんて真っ平だけど。ねぇ?」
くすくすと、面白がるような笑い声が聞こえる。
宮殿にいるという事は、それなりに裕福な家庭の令嬢たち。けれど女性が集まれば、そういう話題になるのは致し方ない。
何も私が通る場所で話さなくてもいいとは思うけれど、彼女たちの狙いは私じゃなく、ここを通る殿方だろう。派手に着飾った彼女たちに寄るのが、未婚男性であるとは限らないけれど。
さて、どうしよう。このままここにいたら、見つかってしまう。かといって、私が立ち去るのはよろしくない。そんな事を考えながら耳を澄ませていると、話題が変わる。
「そういえば、こんな話を聞きましたわ。あの方とお兄様は血の繋がりがなく、お二人は愛し合っているとか……」
「それが本当なら大変ですわね」
はぁ、とこっそりため息を吐く。その想像力の豊かさを、別の場所に使って欲しい。
私は、こんな悪意に晒されるために、ここへ来たんじゃない。私が望んだのはただ、アロイス様の隣で、平穏に過ごすことだった。なんにも気にしていないふりをして。泰然自若に構える。そのうちアロイス様に愛人が出来ようとも、正妻だという誇りを持って。
だけど、本当の私は弱い。今だって、ここから逃げ出して部屋で泣いてしまいたいくらいに。今の私にそんな事は許されないし、するつもりもないけれど。
君こそ婚約者に相応しいと、君が婚約者なら安心だと、そう言ってくれた人のために。弱い自分は封じ込めなければ。それが、私の望む姿だから。
私はぎゅっと、いつも身に付けているペンダントを握りしめた。赤く輝くクリスタルがついた、私のお守り。ルージュの特別な魔術を秘めたものだけど、これを使う時が無いことを願う。
口の中で呪文を呟き、今にも涙がこぼれそうな心を封じ込めて、私は立ち上がった。
あえて靴音をたてながら、足を進める。三人の嘲るようなお喋りがピタリと止まった事に、にっこりと微笑んだ。そして私は、さも今気が付いたかのように、あらごきげんよう、と彼女たちの元へ歩み寄る。
三人は顔を見合わせてから、取り繕ったような笑みを浮かべていた。心の中ではきっと、今のを聞かれていたのかしら、と思っている事だろう。
『心は凪いだ海のように静かに保って。顔はしっかりと上げて、前を見るんだよ』
昔、お兄様がそう教えてくれた。
『いいかい、可愛いリディ。お前がこれから行く場所は、楽しい事ばかりじゃないだろう。時には逃げ出したくなる事もあるだろう。特に女同士の悪意は見るに堪えない。僕に群がる蝶を見てごらんよ。美しい羽根を持ちながら毒を振りまく。他者を蹴落としてしか身を保てないような人なんて、僕はいらない』
お兄様は、優しい顔をして辛辣。女性に微笑む裏で、舌を出している。お兄様を敵に回してしまったら、もうおしまい。
『お前はそんな女たちに負けてはいけない。常にルージュの誇りを持って、立ち向かうんだよ』
これもまた、私にとっての戦いなのかもしれない。自分の心を押さえつけででも歩まなければならない、この私に残された、ただ一つの道なのだから。
「いったいなんのお話を?」
微笑みながら言うと、3人はぎこちない笑みを浮かべたまま。誰が最初に口を開くか、目線で押し付けあってるのがよく分かる。最初に口を開いたのは、やけに胸元を強調したドレスを着ている女性。
「大したことではありませんのよ。ただ、リディアーヌ様はいつもお綺麗だと」
「そうですわ。今日の若草色のお召し物も、花の妖精のようで素敵ですわ」
「本当に。日ごろからお手入れをされているのでしょうね」
口々に言い募る様は、見ていて滑稽だ。そんな風に思えるのは、自分に魔法をかけているからなのだけど。でなければ、びくびくしてしまう所。私は、自分を守る魔法にかけてはピカイチだ、と言われるくらいだから、彼女たちには余裕たっぷりの姿に見えている事だろう。
そうでなければ困る。
「あらどうもありがとう。このドレスは殿下にいただいたものですの。髪が赤いので、私は自分では白を選んでしまうのだけど、この若草色は素敵だと思っていましたわ」
私の今日のドレスは、彼女たちのように派手では無い。ただのシフォンのワンピースドレスだけれど、殿下からもらったと言えば、後で悪しざまに言う事も出来ないだろう。
「そういえばあなた、アネット様?」
「ひゃい!」
急に私に名前を呼ばれて驚いたのか、声が裏返っている。胸元を強調しているのは、顔に自信が無いからだろうか。まぁでも、私が何を言うのか待っている姿は、小動物みたいで可愛らしい。彼女を挟むように立つ二人も、何故かそわそわとしている。
「お父様はお元気かしら」
「え、はい。元気ですけれど、何か?」
「あらそうなの。いえね、以前父が言っていましたの。働き過ぎで疲れているようですから、南の方で静養を勧めようと思っている、と」
そう言った瞬間の彼女の反応は、面白いほどだった。みるみる青ざめ、無意識なのか握りしめた手が、震えている。私が言った言葉を理解できるのだから、頭は悪くないようだ。つまり、南へ飛ばすぞ、という脅しに他ならない。
「ま、まさか。父は元気ですもの。だから大丈夫ですわ」
「それでは父にそう伝えておきますわね」
にっこりと笑って見せ、今度は右隣の女性に目を向ける。ほっそりとした彼女は今にも倒れそうだけれど、私は手を緩めない。どれだけ性格が悪いと思われようと、私を侮辱した罪は重い。それに、今のうちに潰しておけば後々の苦労が減る。
「ジャクリーヌ様。先日は私の兄が大変な失礼をいたしまして、代わりに謝りたいと思っていましたの」
「まぁ、それは一体……」
「あなたのお兄様が送った恋文を、間違って開けてしまったそうなの。ちゃんと戻して送り直したそうなのだけど、お相手の方が気が付いて、気分を害さなかったかが心配だと言っていましたわ」
「そうなんですか。私の兄は特に何も言っておりませんでしたけれど」
「それはよかったですわ。何せ相手は既婚女性だそうですから、うっかりご主人に知られて、あらいけませんわ。これは内緒でした。聞かなかった事にしてくださいませ」
ジャクリーヌもまた青ざめ、絶句する。兄が既婚女性に手を出すなど、一家の恥に違いない。そして最後に、小柄な女性に目を向ける。すっかり怯えきっている彼女は、逃げ出す事も出来ずに、すでに視線を彷徨わせていた。
「レオノール様は、珍しくお兄様が褒めていらしたわ」
「ほ、本当ですか?」
「ええ。あなたの様な慎ましやかな女性は、他にはいない、と」
通常なら喜ぶはずの言葉に、彼女もやはり青ざめる。可憐な見た目に見えて、実はどこぞの愛人なのだ。そのくせ地位のある男と結婚しようと目論む、野心家なのである。
「これからもぜひ、その慎ましやかさでいらしてね」
「は、はい。あの、私はこれで」
彼女は震える声で早口に答え、足早に去って行く。それを見た残りの二人も、お粗末な挨拶を口にして、私の前から消えて行った。彼女たちの姿が見えなくなって、ようやく私は裾が地面に擦れるのも気にせずにうずくまる。
対決を終え安堵した私は、自分の体が震えていることに気が付いて、一人で苦笑した。
「怖かった……」
そう呟いた声は、風に吹かれて消える。はずだったのに。
「お見事でした」
背後からそう聞こえて、慌てて立ち上がって振り返る。そこにいたのは、ランベール様だった。中々来ない私を、迎えに行くところだったのかもしれない。
「ランベール様。お見苦しい所を」
「中々面白いものが見られましたよ。さすが、私の妻が気に入るだけはある女性ですね」
殿下が、と言わないところがランベール様らしいのか、らしくないのか。ランベール様とアロイス様は、まるで友人のように言葉を交わす光景がよく見られる。
ランベール様は4年前に首席で魔術学院を卒業して、すぐに王太子殿下付きになったと聞いていた。11歳から付き合いのあるアロイス様にとっては、友人と言ったほうが近しいのかもしれない。
そんな二人の姿は見ていて、少し羨ましい。私には、そんな風に会話を交わせる相手が、まったくと言っていいほどいないから。
「とてもそんなに恐れているようには見えませんでした。助けに入ろうかと思いましたが、必要無かったですね」
「いえ、そんな。まだ震えが止まらないくらいです。あの、アロイス様には内密にしていただけると、とても助かるのですが」
「分かりました。いいですよ」
この事は報告する、と答えると思っていたけれど、あっさりそう言われて少し拍子抜けした。このつかみどころが無い所は、少しベアトリス様に似ているかもしれない。そう思いつつ、微笑みを浮かべる。
これから出かける予定だから、アロイス様の前では何事も無かったように振る舞わないと。なるべくなら、こんな事は一人で対処したいし、余計な心配をかけて、煩わせたくはないから。そんな私を見て、ランベール様が苦笑している。首を傾げると、いえ、と口を開いた。
「ベアトリスがあなたを気にする理由が分かっただけですので、お気になさらず」
「それは、私のような性格の者を放っておけない、ということでしょうか。先ほども言われました」
ランベール様は少し目を丸くして、口元に手を当てながら再び苦笑した。
「ええ、そうですね。時には人に頼る、という事も覚えておいた方がよろしいかと。学院時代、ベアトリスはよく私にこう言っていました。何でもかんでも一人でやろうとするなんて、愚か者のする事よ。出来もしない事を引き受けて、後で後悔するのはあなたなのだから、とね」
「ベアトリス様がそんな事を?」
「天使の微笑のベアトリス、などと呼ばれていますが、彼女は厳しい人なのですよ。宮殿では猫を被っているのです」
「まぁ……」
それは初耳だ、と驚けば、内緒ですよとランベール様は微笑む。そして、何処か懐かしむような目で遠くを見つめながら、言葉を続けた。
「私にあんなことを言う人は彼女が初めてだったので、彼女に鬱陶しがられても付きまとっていました」
「強引に結婚を迫ったというのは……」
「そんな事もあなたに話したのですか?」
「口を滑らせたようでしたけれど」
「そうでしょうねぇ。私との結婚は、彼女にとっては人生の汚点かもしれません。何度も求婚して、ようやく諦めたのか、頷いてくれたのです。今でもその話をすると、とても嫌そうな顔をしますから、今度お試しください」
それは遠慮しますと答えながら、ランベール様の言葉に私は不思議に思う。妻がそんな風に思っているかも、という事を、どうして涼しい顔で言えるのだろう。そんな私の疑問が顔に出ていたのか、ランベール様は笑って言った。
「ベアトリスは、主導権を握りたい側の人間なのです。ですから、私のいいように話が進められるのが、気に入らなかったのでしょう。それでも私を愛しているが故に、私には強く言えないのですよ」
「それは、何と言いますか……」
彼女から愛されている、という自信が無ければ、出てこない言葉だ。私と2歳しか違わないのに、それを堂々と言えるランベール様は、色々な意味で凄い人なのかもしれない。
「お互いを、思いあっていらっしゃるのですね」
「もちろんですよ。本人は全力で否定するのでしょうが、私たちは相思相愛ですので」
「私も、そう言える夫婦になりたいものですわ」
それは本心だった。穏やかで、お互いを思いあえる。そんな家庭を築きたいと、思っていた。
「ここで必ずなれますよ、というと嘘っぽいので止めておきますね」
「正直ですね、ランベール様は」
「無責任なことは言えませんので。それはそうと、申し訳ありません。殿下がお待ちかねでしょうね。参りましょう」
そう言って先を歩くランベール様に続いて、私も足を進める。ふと、そういえば体の震えが治まっていることに気が付いて、先を行く背中を見つめた。たぶんランベール様は、気を遣って話をしてくれたのだ。あのまますぐ戻っていたら、アロイス様に気が付かれていたかもしれないから。
言ったら、そんな事は無いですよ、と言う気がするから心の中でお礼を言って、アロイス様の待つ屋敷へと歩いていった。