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「リディアーヌ!」
その声に、私は顔を上げる。
声のした方を見れば、こちらへ駆け寄ってくる男性が一人。宮廷で開かれるガーデンパーティーで、そんな風に駆け寄ってくる人物を、私はたった一人しか知らない。
そもそも、私に声をかけてくるのも、一人しかいないのだけれど。
「来てくれたんだね。嬉しいよ」
私の前で立ち止まってそう言うのは、煌めく金色の髪に、透き通った青い瞳を持つ、王太子殿下その人。
微笑む姿が麗しい、私の、婚約者。
「ごきげんよう、殿下」
私も微笑んで見せて、ドレスの裾を持ち上げて挨拶を返す。けれど次に顔を上げた時、私は笑みを引っ込めた。
「ところで殿下、あのように駆け寄ってくるのはいかがなものかと。転んで怪我をなさったらどうなさいます?」
私がそう言った瞬間、さっきまで聞こえていたさざめきのようなお喋りが、水を打ったように静まり返った。
言われた本人はといえば、ただ苦笑を浮かべて口を開く。
「そんなに子供ではないよ。君はいつも私を子ども扱いするね」
「私はただ心配をしているのです」
はっきりと言えば、殿下はまた苦笑した。子供扱いされている事が不満だとは思うけれど、実際、殿下はまだ成人年齢ではない。
この国では、王族であろうと無かろうと、18歳で成人と認められる。かつて私が通っていた魔術学院でも、それまではただの赤子同然だ、と言われていたものだ。18歳でようやく一人前と認められ、魔術師と名乗れるようになる。
とは言っても、聖五家の生まれであり、王太子の婚約者の私には、あまり意味をなさないのだけれど。
聖五家というのは、この国を作った王を除く、賢者の末裔。気高き翼のノワール。麗しき微笑みのブラン。勇猛なるジョーヌ。熱情のルージュ。清らかなブルー。
私の家はそのうち、ルージュの末裔。私のフルネームが、リディアーヌ・イザベル・ミリアン・コレット・ルカミエ・ド・ルージュ、と長ったらしいのもそのせい。
普段はリディアーヌ・ルカミエとしか名乗らないから、忘れそうになるのだけれど、絶対に忘れてはならない、と言い聞かせられている。
王太子は聖五家の内、いずれかの娘を婚約者に選ぶ。今15歳の殿下が、20歳になる私と婚約したのは2年前。私の誕生日だった。
残りの家は娘がいない、もしくは年齢が王太子よりも下で、唯一の年上だった私が選ばれただけ。それでも選ばれたからには、王太子に相応しくあろうと、私は心に決めた。
そして、年上の婚約者に求められるのは、王太子の行動を諌める事だと思う。将来、立派な王になれるように、支える事。
「それも嬉しいけど、もっと信じてくれた方が嬉しいな」
「殿下が成人したら考えてみましょう」
私の言葉に、ひそひそと囁きが交わされる。
「まあ、殿下に対してあんな」
「殿下があんなに健気でいらっしゃるのに」
「お可哀想な殿下……」
大体そんな感じの言葉は、もう聞き飽きた。直接言ってこないのは、聖五家の娘に何か出来るとは思っていないからだろう。
手を出したら最後、家を潰されかねないと分かっているのだ。だからそんな囁きを気にしていたら、王太子の婚約者は務まらない。
それに彼女たちは分かっていない。王太子の婚約者というのは、煌びやかなだけでは無いのだと。
「リディ。ここだとゆっくり話せないから、私の部屋へ行こう」
そう言って殿下は、私の手を引いて歩き出す。こちらの意見を聞かないのは、いつものこと。
「殿下。誘う時はもう少し丁寧に。伺いをたてて」
「いいじゃないか。私たちの仲なのだから」
笑って言われて、私は思わず苦笑してしまった。殿下のこういう所は、実は嫌いでは無いから。
◇◇
殿下の部屋は、宮殿の南側。そこに建てられた離れにある。離れと呼ぶには申し訳ないほどの立派な家で、使用人たちも多い。
一階部分に客間や食堂、舞踏会の開ける大広間などがあり、二階が私的なくつろぎの空間となっている。
私が連れて来られたのは、色とりどりの花が咲き乱れる庭のテラス。私が宮廷に来たときは、大抵ここで過ごす。太陽の国と呼ばれるに相応しい日差しが降りそそぐ、明るい庭だ。
「今日はガーデンパーティーに来たはずだったのですけど」
私の言葉に、対面に座る殿下が微笑みを受べる。
「こういう事が無いと、私の部屋に誘う口実が無いだろう?」
部屋に誘う、と言ってもこの場合は、ただの話し相手として。結婚はまだ先の私たちは、夜に部屋で会う事は王に禁じられていた。
舞踏会の開かれる夜は、殿下と踊ればそれでおしまい。部屋に控える数人の侍女たちは、間違いが無いかを見張っているのだと気が付いたのは、いつだっただろう。もちろん身の回りの世話もしてくれるのだけれど。
「殿下。不用意な発言はお控えを」
また窘めると、ため息をつかれてしまった。
「リディ。そろそろ楽しい話をしよう。それから、二人の時は名前で呼んでくれ」
「それではアロイス様」
「うん。君の声で名前を呼ばれるのは、なんだか素敵だ」
にこりと嬉しそうに、殿下、アロイス様は笑う。こういう台詞をさらりと言えるのは、殿下の美徳だと思っている。
自分の感情を言葉に出来ない、私と違って。
「それは結構でございます」
「ふふ。リディは照れ屋だな。そうは思わないか、ランベール、ヴァレリー」
アロイス様の呼びかけに、壁際に立っていた二人が反応する。一人はアロイス様付きの秘書官で、紺色の髪と瞳をしたランベール様。それからもう一人は、黒髪碧眼の護衛を務める騎士のヴァレリー殿。
この二人がアロイス様の双剣。アロイス様が、最も信頼する二人。
「そうですね。仲睦まじく、よろしいかと存じます」
にっこりと笑って言ったランベール様は、釣り目がちの細い目をしているから、少しきつい印象なのだけれど、話してみると優しい人だ。第一級魔術師、ベアトリス様を妻に持ち、本人も素晴らしい魔術師。
「ええ、私もそう思います」
続いてそう言ったヴァレリー殿は、まさに騎士と言えるように武骨で、言動も少し素っ気ない。あまり表情が見えない取り澄ましたその顔が、たまに嫌になる。
シャルムソレイユにおける地位は上から、国王、聖五家、魔術師、貴族、騎士、一般人、という位置づけになっている。
この国では、皆魔力を持って生まれるけれどその大きさは人それぞれで、まったく魔法を使えない者も存在する。そんな者達は、魔術学院に入らず、騎士になったり、宮廷で働いたり、商売をしたりして生計を立てている。中には強い魔力を持っていながら、魔術師を目指さない者もいるけれど。
魔術師がそれなりの地位を得られるのは、魔獣退治に駆り出されることが多く、危険と隣り合わせでもあるから。それでも、小さい頃の私の夢は魔術師になる事だった。たった一握りの第一級魔術師になって、大切な人たちを守りたい、と。
王太子の婚約者に選ばれたあの日に、その夢は露と消えたけれど。せっかく頑張って魔術学院を卒業したのに、お父様に告げられた瞬間、すべてが無意味になった。
今の私に必要なのは、王太子の婚約者としての役目。将来王妃となる為の器量を、今から磨く事である。
軽く息を吐きながら、肩にかかった自分の髪を払う。ルージュの末裔の証か、血のように赤いこの髪が、私は大嫌いだ。アロイス様は綺麗だと言ってくれたのだけど、やっぱり好きにはなれない。
「ところでアロイス様。今度、一緒に出かけるというお約束でしたね」
私が話題を振ると、アロイス様は目に見えて嬉しそうな顔をした。こういう所は可愛いと思ってしまう私は、たぶん婚約者として見ていないのかもしれない。
――いけないわ。結婚する事は確定事項なのに。
「ああ。どこがいいかな。王都もいいけれど、少し遠出するのもいい」
「お任せいたします」
「君に言われると、試されているような気がする」
「それでは、期待して待っていますわ」
私の事が大好きな兄が言うところの、魅惑の微笑を浮かべると、アロイス様は生真面目に頷く。たぶんこの人は、いい王様になるだろう。
それに対して私は、どうなのかしら。よき王妃に、なれるのだろうか。そんな事を考えて、眠れない夜もある。
それでも私は、この道を歩かなければならない。それが私に課せられた、義務のようなものだから。こんな事を言っては、アロイス様に失礼だろうけれど。
「海の方に行こうか。それとも森を散策するか」
頭を悩ませているアロイス様を、私は見つめる。私の為に一生懸命なその姿に、少し泣きそうになった。
◇◇
数時間後、アロイス様は勉強の時間だという事で、私は退室した。
宮廷を歩く私の一歩後ろには、ヴァレリー殿が続く。見送りなんて要らない、と言ったのに、アロイス様が屋敷まで送らせる、と言って聞かなかったのだ。
宮殿から屋敷までは、魔法を使うまでも無いほどの、歩いてすぐの距離にあるのに。すでに歩きなれた回廊を、ゆっくりと歩く。白を基調にした宮殿は、どこか神聖な気持ちになる。
実際は、ゴシップにまみれた噂話が行き交う場所なのにね。
「……静かで素敵な私の箱庭。青い屋根の小さなお家。真っ白な花咲く私の箱庭。木漏れ日囁く小さなお家」
とある詩を口にして、振り返る。唐突に振り返った私の一歩先で、ヴァレリー殿が立ち止まった。
「ねぇ、この続きを知ってる?」
首を傾げると、いえ、と目を伏せられる。私とは、決して目を合わせない。まるで、見たら呪われるとでも思っているみたい。
「訪れる人は、誰もいない。……私みたいよね」
「……それはどういう意味ですか。あなたは、アロイス様の」
「婚約者よ。だけど、アロイス様が来られることは無いでしょう?」
シャルムソレイユの王族は、誰かの屋敷へ行く事は無い。婚約者と言えども、例外では無かった。理由としては、どこかの屋敷へ行けば、すべての屋敷を回らなければならなくなるから、だとか。
私の言葉に、ヴァレリー殿が納得したような顔をする。相変わらず表情が薄くて、読めないけれど。
――昔は表情豊かだったのに。
「寂しいのですか?」
「違う。少し、昔を思い出しただけ。あなたと、野原を駆け回っていた頃を」
私たちは、幼馴染だった。友人だった。今ではすっかり、主従と呼ぶに近い関係になってしまったけれど。
「あなたなら、大丈夫ですよ」
呟くようにヴァレリーは言う。それでもやっぱり、視線は私には向かない。私たちはもう、変わってしまった。お互いの運命を受け入れて。
大人になった、とでもいうのかしら。
「分かってる。私はアロイス様と結婚する。でも少し不安なの。私は、ちゃんてやれてる?」
「ええ。あなたは立派です。アロイス様も、よくそうおっしゃっておりますよ」
「それならいいのだけど」
たまにどうしようもなく不安になる理由は、自分でもよく分からない。
私にとってアロイス様は、まだ子供だ。それでも、身長はもうすぐ私を追い越すし、体つきも変わって来た。もしかして私は、それが怖いのかもしれない。あの人が大人になった時、私は耐えられるのだろうか。
そんな事を考えながら、私はこの道を歩いている。