〈一〉― 9
「………ん?」
芯護は数回瞬いて辺りを見渡す。
そこは、見晴らしの良い草原の中心。
地平線の果てまで続く青々とした牧草。平坦な、あるいはなだらかな傾斜の大地から自由に生え伸びている。
澄み切った青空と白雲を除いて、見当たるものは目一杯の草しかない。いっそ気持ち良いくらいに清々しいとも思えるし、無さすぎて心もとない寂しさを感じさせもする、開放されているようで閉鎖されているような空間。
訪れた記憶などないその土地の風景に、芯護は疑問符を浮かべる。―――ここは一体全体何処だ? 自分はどうしてこんな寂れた場所にポツンと立っている? ここに来る前、俺は何処でなにをしていた? …と。
次々に湧いて出てくる謎に出てくる答えはない。考えても考えても頭の中はゴチャゴチャになるだけ、焦れったさに苛立ちを覚えて考えるのを止めようかと思った矢先、
「ここは、貴方の夢の中です」
「え?」
つい先程まで誰もいなかった場所に人がいて、芯護は驚かされた。
白い修道服らしきものを着込んだ、眩く輝く白髪の子供。芯護の胸辺りまでの背をしたその子は、隠れられる物陰のない原っぱで唐突に現れ、芯護より数m離れたところで微笑んでいる。
人がなにもない場所からいきなり現れるとは、現実的に有り得なくはないか。
「て、だから夢なのか。それなら人が一瞬で現れてもおかしくない、か………?」
言いながら、芯護は自分の発言こそおかしいと感じた。
白髪の子供は夢の中だと言ったが、夢と言い切るには真実味が有り過ぎる気がする。
暖かい風がそよいで肌に触れる感覚。
風に運ばれた草の匂いが鼻腔をくすぐる感覚。
どれもこれも夢のものとは思えない。詐欺にでも遭うか、騙されているような気になってくる。
納得のいかない芯護は、試しに頬をつねってもみるが、
「………痛い」
痛覚あり。
イコール、現実? と疑いまくると、子供は愉快そうにクスクス笑った。
馬鹿にされたと思い、芯護はムッとして食いかかる。
「なにが可笑しいんだよ」
「いえ………判りやすく申し上げると、ここは貴方の世界です。貴方の認識を反映した世界であり、貴方が意識する限り、それらは現実のものとなります」
「あ?」
子供は、子供とは思えない事務的な口調で小難しいことを並べていく。理解力に乏しくてちんぷんかんぷんな芯護を気遣う様子はなく、淡々と喋り続ける。
「貴方は頬をつねってみせましたが、実際に『起きている』時に行えば痛みが生じるはずです。“外的要因を加えれば必ず反応が返る。それが当然のこと”………そう『認識』していることが夢の世界にも反映されて、感じることのない『痛み』を感じたのです」
つまりは錯覚ですよ―――と締め括って。
ニッコリと笑顔を見せる子供だが、芯護に理解出来たのは“勘違い”の部分だけだ。脳内をグルグル引っ掻き回される気分に陥る傍ら、これは夢で錯覚で勘違いでー…っと話を半ば無理矢理呑み込んだ。
「これが、全部俺の勘違いか。俺の…認識? を反映した、俺の世界………」
青空と、白雲と、草原だけの世界。
芯護はもう一度自分の世界をじっくりと見渡して、
一言。
「なんにもないな」
「なにもありませんね」
子供も同意した。
そこで今度は、ようやくではあるが、子供の方へ注意を向ける。
当たり前のようにそこにいる子供。男なのか女なのか判別つかない幼い顔を、芯護は知らない。『秩序の学舎』以外の人間に面識はないから外界は当てはまらないし、生徒の内の誰かを忘れてしまったのか。
それ以前に、夢に現れているということは芯護が作り上げた虚像な訳だから、やはりこの子供とは過去に出会ったことが、
「ありませんよ。私と貴方が出会うのは、これが初めてです」
キッパリと否定された。
口に出してもいないのに。
芯護の思考を見透かして、口にするより先んじて応えてきた。
―――夢だから、なのか?
自分の考えを読み取られることも、会ったことも見たこともない子供が現れるのも、自分の認識を反映した世界と謳っておきながら、あるのは空と雲と草だけなのも。
そうだ―――反映するというのなら、何故真っ先に『秩序の学舎』が浮かんでこない。
何故レンザやバーノットやトオル、ミーシャやいけ好かない気取り屋、丹波やハロルといった教師達、その他諸々が現れない。
芯護の中身は、どうしてこんなにも矛盾で溢れている―――?
「今の貴方には理解出来ません。“微睡んだまま”の貴方では」
またしても、見透かされる。
ここまでくると薄気味悪さすら感じてしまう。現実と幻覚が入り乱れた世界で、謎めいた子供が不可解なことを喋る、なんて。
内心、夢でもなんでも良いから早く目覚めて欲しいと願い、子供の言葉にも惹かれて芯護は問いかける。
「どういう、意味だよ」
「…」
子供は答えない。
現れたその時からずっと微笑み、崩さずに芯護のことなど意に介さないで一人語る。
「準備は整いました。多少強引な干渉ではありますが、『刻』が動き出した以上、やむを得ない処置です。それに…、修正は可能です」
「だから、どういう意味だよ」
芯護は段々腹が立ってきて噛みつく。
きっとまた相手にされないだろうと予感しながら。
それなら、こちらも相応の怒りを見せようと待ち構えて、
「気にしなくていいよ。どうせここでの出来事は消しちゃうから」
予感は的を外した。
これまでの事務的な口調ではない、外見通り、年相応の喋り方で子供は話した。
とても無邪気に。
とても楽しげに。
とても………悲哀を滲ませて。
「ぴょん♪」
かけ声と共に。
子供が眼前まで迫った。
瞼を見開きする余裕もなく。
一瞬で、子供の白い髪と見上げる笑顔が視界に入る。
同時に、世界が紅色に染まった。
…―――ぴょん、ぴょん、跳ねる、ウサギさん……♪
また、あの歌。
子供が歌っている。
軽やかに口ずさみ。
声音そのものは、頭に、直に。
…―――繋ぎに往くよ、刻兎……♪
とき、うさぎ?
つなぐって、なにを?
おまえは、なに……?
…道越え、土地越え、界を越え―――……♪
こどものかおが、すんぜんまで、
むねのまんなかに、てをあて、
みずにつけるように、からだをすりぬけ、
はもんが、ぜんしんに
うちがわが、ぞわりと、
たましいが、ざわざわと、
おれのめと、こどものめが、
あかいろの、けもののめが、
す い こ ま れ ―――…、
「さあ、目を覚まそう? …―――《愛せし者》」
「―――!」
ガクンッと杖にしていた腕から顎を落として、芯護は目を覚ました。
教室の、波状に並べられた弧を描く長机の一つの一角。授業は終わっているのか生徒の数はまばらで、皆次の授業の為に教室を出ている。
芯護は廊下に出る生徒達をボンヤリ見つめ、頭を振って眠気を払う。
……不思議な夢を見た気がする。どんな夢だったのか上手く思い出せないが、寝起きにも関わらず気分が変に高揚している。夢のせいだろうか
昨日に見た夢に似て、見た気はするのに記憶に残っていない、不可思議な夢。
「疲れてんのか、俺? ………疲れてたな、そういや」
うつ伏せていた身体を上げて各所の筋肉が強ばるのを感じて、そちらの方を思い出した。座った状態で眠り体勢を変えなかったせいで、さらにピキピキになっている。
芯護は立ち上がって、辛さを我慢して腕と背を伸ばす。肩と腰も捻って身体をほぐし、次は体育の時間だから適当に動かすかー、と呑気に動き出して、
「芯護…」
「レンザ? 」
隣の席にいて、眠っていた芯護が起きるのを待っていたレンザに出くわした。
驚くほど悲しそうな表情で。
身内の訃報でも聞かされたような、しめやかな顔で、
女性教師の意思を伝える。
「トイレ掃除、一週間だって」
「…」
しばし、言葉を失い。
なんでだよ、授業の邪魔はしてない、静かにしてただろ、と反論しようとしたが、
「…なん」
「居眠りは論外」
先にトドメを刺された。