〈一〉― 7
女性は厳しい目つきで泥まみれの二人と汚れた花壇の周辺を一瞥し、眉間に皺を寄せて苦言を呈する。
「これ以上汚されると、掃除するのに時間がかかるわね。貴方達だけで処理できるのかしら」
「すいません、セイレ先生。すぐに綺麗にしますので!」
ミーシャは慌てて戦闘姿勢を解いて佇まいを直し、頭を下げて謝る。はしたない姿を目撃されて顔が少し赤い。
一方の芯護は、土を投げるのはさすがに止めたものの、謝らずに目を反らすだけにとどめる。人に頭を下げるのはどうも性に合わなくて意地を張り、それを視界の端に捉えらたミーシャが、セイレと呼んだ女性教師を上回る鋭い目で謝りなさいと訴えてきた。
睨まれたくらいで謝るような芯護ではないが、とはいえ、自責の念がないでもない。
悩んだ末、渋々妥協案を出すことにする。
「セイレ、散らかしたのは俺だから俺が全部片す。ミーシャは片付けなくていい」
「え? でも……」
「一人ですべてできるの? 私の見立てでは、二人で片付けても夜遅くなるでしょうね。途中で投げ出されても困るわ」
「投げ出さねーよ。言ったからにはちゃんとやる」
セイレは値踏みするような目で見つめ、良いでしょうと了承した。日頃の不真面目さのせいで信用がなく、断られるかと予想していた芯護は即決されたので驚く。それはミーシャも同じだったようで、
「先生、芯護だけだと勝手が判りません。監督責任もありますし、最後まで面倒見ます」
「いえ、どのみち貴女には庭園の作業は中断して貰うつもりだったから。こちらの用事に付き合ってくれるかしら」
「用事………、」
その為に貴女を呼びに来たのだしとセイレが話すと、なにか思い当たりがあるのか、ミーシャは食い下がらなかった。判りました、すぐに向かいます。お願いね、でもその前に服は着替えてきなさい。と、二人は口早に言葉を交わして、約束を取りつけたセイレは速足で立ち去っていく。
セイレを見送ったミーシャは、次に手持ち無沙汰で聞いていた芯護へ振り返る。
「それじゃあ任せるけど、芯護、サボったら駄目だからね?」
「サボっても終わらないし、帰れないしな。判ってるからさっさといけよ」
芯護にはなんの用事なのか知らなかったが、ミーシャは見るからに急いでいる様子だ。俺に構わずに早くいけと手を振ってやると、何故か難しい顔をされる。
「…こういうところは褒められるのにねー……」
「? どうした?」
「なんでもないわ。ありがとね、芯護」
パッと表情を切り替え、それだけ言い残して駆け足で遠ざかっていった。
自分の不始末を片付けるのになんで礼を言われるのか、芯護は首を傾げながらミーシャを見送る。今日はいつもよりやけに突っかかってきたし、外界でなにかあったのか―――…、
「どうでもいいか。さっさ終わらせて帰ろう」
詮索しても仕方ない。それよりも芯護は、空腹で気力を失いつつあったので、手早く目の前の問題を消化しようと花壇へ向き直り、
「……………」
惨状を直視して五秒ほど静止する。
あれ、俺こんなに土投げたっけ? と疑問を浮かべてみるが、答えてくれる人は自分しかいない。否、答えが自分でしかない。
ミーシャを黙らせるのに躍起になっていたから加減を忘れていた。作業をしていた花壇だけでなく、隣の花壇も、通路の石畳の上も、見渡せば、人魚を象った立派な銅像を頂く噴水の所々にも土が飛び散っている。
これを一人で綺麗にするとなると、本当に夜遅くと言わず朝までかかるのではないか。夕食までに終わらそうなんて夢のまた夢じゃないか?
―――ああ、でもやるって言ったしな。宣言した以上はやらないとな。
「…頑張るか」
灯りもなにもない暗がりで、一人だけポツンと残った芯護は、寂しさをまとわりつかせながらいそいそと掃除に取りかかる。
芯護とミーシャが庭園でギャーギャー騒いでいた頃。
西陽が届かなくなって暗くなった北側一階の廊下で、壁に備えつけられた灯籠に火を灯すハロル・パフェッドの姿があった。
ハロルは種火の点いたランプを持って、等間隔に並ぶ灯籠内に火を移しながら昼間のことを思い出す。
「いつまで経ってもあの子らは………あの四人は手に負えんな」
口から溢れた“あの四人”……即ち芯護達のことだが、ハロルはほとほと頭を悩ませていた。
「成績は不良、トオル以外の三人は素行も不良ときて、芯護に至っては人のことをバーコードバーコードと………ッ」
落ちこぼれ達への愚痴は最早私怨になりつつある。幼い頃から成長を見守ってきたが、何処で育て方を間違えたものか。
育児方面に関しては、手の空いた女性教師か事務員、特待生の誰かが請け負っていた。いや、当時はまだ特待生は一人もいなかったから、上記二組の影響を大きく受けたのではとハロルは推測する。
例え子育てに経験がなくとも、自分も口を出しておくべきだった。教養さえ与えていれば、目上に敬語を使えるくらいにはなっていただろうに。
「後悔先に立たず、か。悔いのないよう生きるのはやはり難しいものだ………と、」
考え事に没頭している内に、廊下の灯籠は灯し終えていた。近くには教職員室の扉も見えて、ハロルはそちらへ足を運ぶ。若葉の彫刻がなされた木製の扉を開けて中へ入ろうとして、
「おっと!」
「ぁあ?」
室内から出ようと扉の前まで来ていた教師とぶつかった。
ぶつかった相手は一体誰か、灯籠の仄かな明かりを頼りに目を凝らして見ると、飛び込んできたのは長柄の黒鎚。肩に担がれたそれは持ち主の身長をも越えていて、そんなものを常時身につけている職員は一人しかいない。
「申し訳ない。大丈夫ですか、たん―――」
「んだよ、誰かと思ったら“バーコード頭”か。なに怒ってんだ?」
「…」
そうだ。
最初にその蔑称をつけてくれた、原因の女性教師。後頭部で結った腰まである黒髪を煩そうに払う、粗野な振る舞いと喋りがなんとも教師の名に似つかわしくないその人。
懲りずにまた“バーコード”と呼んできた彼女に、ハロルはふつふつ煮えたぎる劣情を抑えながら訂正する。
「私の頭はバーコードではないと何度言えば判りますか、丹波先生」
「バーコードをバーコードと言ってなにが悪いんだよ。それに、バーコードがなんなのか“この世界”の人間には判らないんだし」
「ええ、ええ、判りませんとも。その言葉を口にする時、嘲笑を浮かべて見下すように言わなければねえッ」
堪えが効かずに顔を真っ赤にするハロルとは対称的に、忠告を受けている丹波は何処吹く風だ。悠長な物腰でさらりと受け流して、こめかみをひくつかせるハロルに構うことなく話を進める。
「で? えらくでかい独り言喋ってたのはなんなんだ? 芯護がどうとか言ってたみたいだがよ、あいつがまたなんかやらかしたのか?」
指摘を受けて、ハロルの込み上げていたものが途端に萎んだ。
声に出していたとは迂闊だった。もっと気を引き締めねばと生真面目に己を叱咤して、
生徒が問題を起こしたのに、何処となく楽しげに返事を待つ丹波を複雑に思いながら説明した。芯護が授業中に居眠りしたこと、罰として与えた草取りをサボったこと、追加で与えた庭園での手伝いもまともにこなすかどうか、などなど。
それを聞いた丹波は、怒るどころか笑い飛ばした。
「ハッ、良いじゃねーか。元気があって結構、ガキはそのくらいが丁度良いんだよ」
「またそうやって貴女は……いいですか、この『秩序の学舎』では、」
「良いじゃねえか。ここに連れてきた時の“あの状態”に比べれば、随分まともになった」
ふざけた調子を幾分か引っ込めて、丹波は懐かしい記憶を引っ張り出す。
芯護がまだ『秩序の学舎』に連れてこられる前。街の片隅に座り込んで動かなかった幼児の姿。
丹波は今でも鮮明に思い出せる。あの時の、後に『芯護』と名付けられるかつての子供は、誰の目から見ても明らかに“異常”だったと。
「戦災孤児はどいつもこいつも心に傷を持つか、物心つかねえで人形みたいな面をしてるがよ、芯護はそのどれでもなかったからな。あの状態と比べりゃあ、悪ガキに育っただけ全然マシだろ」
「悪ガキに育てる必要もないと私は思いますがね。芯護の教育も、確か貴女が受け持ったのでは?」
「おう、俺好みの馬鹿に育ってくれたぜ」
悪びれもしないで笑う丹波に、ハロルは頭を抱えそうになる。駄目だ、これ以上会話を続けても不毛だなと結論に達して、話を別の方向に変えた。
「そういえば、丹波先生はどちらへ?」
「校舎の見回りにな。今日の当番はアインだが、あいつはミーシャを呼びに行ったからよ」
「ミーシャ………ではまた?」
丹波の頷きにハロルの表情も強ばる。自分の机に向かっていた足を返して丹波の元へ戻り、その行動の真意を掴みかねた丹波は聞く。
「なんだ?」
「二人で見回った方が早いでしょう。それに“なにか起こった時”、私なら大抵のことに対処できます」
ああ、そりゃ助かる。教師ん中で一番強い律神士が一緒なら安心だ―――と丹波は茶化しながら合意して。
二人は職員室を出て二手に別れ、校舎内の見回りに出た。
――――、
「……あ、芯護だ。って、凄い泥と汗だね。まさか今の今まで庭園の作業してたとか?」
「お? サボらないとはこれまた珍しい。昼のことといい、今日はどうし………芯護ー?」
「おっす、芯護! 罰は辛かったか〜? …飯? それならもう片付けてあるぞ。いや〜惜しかったな、もうちょい早ければ残って………残念、それでチャラにしてやろうと思ってたのにってなにがだ? おーい、芯……どブろはぁッ!?」
「な…なに、そんなにお腹空いてた!? え、違う? なら………ぅえ??」
「と……トオルー!! 芯護がトオル殴るなんて滅多にないぞ………ハッ、まさか俺も!? 待て待て芯護、なにをそんな怒ってるのか知らないけどな、気持ちを落ち着けて冷静にぃ――――ッ」
「そこ退け、レンザ。俺はもう寝る。じゃあな」