〈一〉― 5
「恋してる、か」
数秒と立たずザザーっと人波にさらわれていく依妃奈達を見送った芯護は、バーノットやトオルには聴こえないくらいの小声で呟く。
…―――彼女のことが気になる? それはきっと恋だよ。
相談した時にトオルが口にしたこの言葉は、恐らく正しいと芯護は思った。
…―――なにぃ!? 依妃奈に恋したってェ!! 悪いことは言わないから棄権しろ、な?。
レンザのこの言葉には、固く握った拳で返しておいた。
…―――し〜ん〜ご〜、分が悪すぎるって〜。………でも、そこまで言うなら協力しよう。先ずこのタキシードにきが。
言い終わる前に、バーノットの鳩尾に蹴りを入れた。ていうか何故持ってる。
ふざけてばかりではあったけれど、レンザもバーノットもトオルと同じ見解を出した。だから“恋をしている”という一点においては、もう間違いないのだろう。
芯護にはよく判らなかったが。
よく判らないからこそ、
では、どうしよう? どうしたら良い?
自分は依妃奈に恋をした。それは判った。しかし、だ。………言われて初めて知った感情は“理解した訳ではなく、胸の内にあるものが『恋』というものなのだと、そういうものだと教えられただけ”だ。意味そのものはなんら理解できていない。だからこそ芯護は、次にどう考えて行動したら良いのか、この不可解な感情をどう処理したら良いのか、まるで見当がつかないでいる。
過去にトオルから助言をいくつかされもしたが、根本的に恋愛感情を把握しきれていないのではどれも役立たない。一から教えようにも、その感情は芯護だけのものであって、他人から教えられるものじゃない。
先に繋げる糸口がない。それが―――この立ち位置だ。
遠くから眺めるだけ。
話しかけたことはない。そうしようと考えたこともあったが、そうするとこんな考えも脳裏をよぎる。―――話しかけてどうなるのか、と。
話したい訳じゃない。
接したい訳でもない。
ただひたすら、気になるんだ。
彼女の存在に、自分の気持ちとは無関係に、惹かれてしまう。
“好き”ではなく、やはり行き着く先はそう、
―――“気になる”。
実感を持てないだけなのか。それとも別の理由でもあるのか。自分のことなのに何処か他人事のように感じてしまう芯護は、
「…んっと、らしくないよな」
「ふむ、君らしいといえば君らしいが」
「………」
後ろからの声に硬直した。
ギギギッと首を無理矢理動かして、振り返ればそこには。
「次の授業も始まることだし、校舎に戻るよう生徒達を呼びに来たのだがね。君と会うことになるとは予想していなかったよ。では聞こうか………草取りの罰はどうしたのかな、芯護くん?」
「ば、バーコード頭…!」
「私にはハロル・パフェッドという由緒ある名があるのだよ。間違っても『バーコード』などという奇っ怪な名ではない」
バーコード頭改めハロル・パフェッドが、手にある教鞭を振り上げて芯護を狙っていた。
周りに人はいない。トオル達は、薄情にも芯護を見捨てて逃げている。
天涯孤独となった不良生徒は、それでも諦めずに走り出して、
ハロルが握る教鞭が、教鞭の形をした『律神器』の力が、解放される。
「私の『器』から逃げおおせる確率は0%だ。―――【反駁】〈リベーズ〉」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
草取りの罰をサボったツケは高くついた。
大勢の生徒達がいる前で格好悪く空を飛ばされ、挙げ句に庭園の作業を手伝うようにと追加の罰も与えられた。
一度罰をサボっているのに二度目はサボらないとでも? と、サボる気満々だった芯護は自分の考えが甘かったことを痛感する。罰の内容は庭園の作業を手伝うことで、“手伝わなければいけない相手”が必ずいる訳で。
「芯護、次はそっちの花壇の草取りをお願いねー」
「………はいよ」
本日の授業をすべて終えた放課後、庭園の植物の一切を管理するミーシャと一緒に土いじりをすることとなった。
芯護はミーシャの指示に従って、草木に水をやったり、花を踏まずに雑草を引っこ抜いたり、土を均して種を蒔いたり…と、慣れない作業に悪戦苦闘しながらも、手を休めずに働く。心の奥底で面倒だとか、しんどいとか、やってられないとか考えながらも、いつものようにサボろうとはしない。
サボらない理由については極々単純なもの―――ミーシャが特待生の中で唯一、友達と呼べる存在だからだ。
特待生とはとんと縁のない芯護だが、ミーシャは別だった。
『秩序の学舎』に来てからずっと一学生の芯護と落ちこぼれ組は、在学生のほぼ全員と面識がある。大抵の生徒は二学生、三学生、特待生と上がっていくにつれて芯護達とは縁遠くなっていくが、人より世話好きなミーシャはそうならなかった。機会さえあれば廊下ですれ違うだけでも声をかけてくるし、問題を起こせば叱りつけにくる。そんな日々を送っている内に、いつの間にやら友人の位置に収まっていた。
ミーシャの世話好きな面は、時々行き過ぎて鬱陶しく思うこともある。自分のすることにとやかく言われるのが嫌いな芯護からすれば、ミーシャのような人は天敵にしかならない。けれど、芯護はミーシャを友人の一人として見ていた。
しつこく口を出してくるのは、相手の為を思っている証拠だ。その好意自体、芯護は素直に嬉しいと感じるし、
なによりミーシャは芯護達を落ちこぼれとは呼ばない。―――レンザやバーノット、トオルの三人を、“落ちこぼれ”と呼ばない。だから、芯護はミーシャを友人として、彼女の手伝いをしようという気になれた。
「それで、今度はなにをしたの?」
陽も傾き始めて、海岸線と空の境目が赤く染まり出した頃。
汗まみれの泥まみれになった芯護に、一息入れて立ち上がったミーシャが話しかける。
また小言を聞かせる気なのだろうと当たりをつけた芯護は、どうせいつものことだし、会話をしていれば面倒臭さも紛れるかと考えて正直に答えた。
「居眠りと罰の草取りのサボり」
簡単に、かつ簡潔に説明すると、あからさまな溜め息が返ってきた。
「授業くらいちゃんと起きて聞きなさいよ。もうじき昇級試験だってあるんだから。また一学生止まりになるわよ」
「興味ない。ずっと一学生のままで良いよ、俺は」
手は動かしたままで、ミーシャの方には目を向けず芯護は喋る。どうでも良さそうに本音を口にする。
その姿を見下ろすミーシャの顔が、いつになく真剣なものになっていることに、芯護は気づかない。
「……前から言おうと思っていたけれどね、誰かの為になにかしたいって思わないの? 養ってくれてる『秩序の学舎』への恩返し、とかでも良いし」
「“養ってくれてる”…」
ミーシャの言葉に芯護は顔を上げた。
―――そうだ。
『秩序の学舎』に暮らす生徒の大半は、教職員達に養われている孤児だ。
生徒達のほとんどは、戦災や飢饉で親を失うか捨てられている。芯護も親の顔を知らない、親を持たない孤児の一人だ。
行く宛てのない自分達を拾い、ここまで育ててくれたことに感謝して恩を返す―――ミーシャの言いたいことは良く判る。
しかし、芯護は皮肉めいた考え方をした。
「教師の皆は、見返りが欲しくて俺達を育ててくれてるのか? とんだ愛情だな」
「恩は感じてないって言いたいの?」
心ない一言のせいで、ついミーシャの語気も強まる。それを受けて、やっとミーシャが怒っていることに気づいた芯護は作業を中断して彼女の方を向く。
どうして怒っているのかは知らなかったが、一応怒らせた原因は自分にあるようなので、芯護なりに考えて話してみる。
「感じてない訳じゃないけど………される側も嫌だろ、『今から貴方になにかしてあげます。ですがそれは貴方の為ではなく、自分を育ててくれた人への恩返しなんです』って。俺は誰かになにかをしてやるにしても、そいつだけの為に動きたいんだよ」
相手のことなどお構いなしに、自分の都合だけで勝手に手を出して場を乱して、出された方は良い迷惑だ。手出しするなら、相手の方からそれを望んでからにしたい。そう持論を展開したところで、
今度は芯護の頭の中がこんがらがってしまった。
「ん? 違うな。誰かの為じゃなくて、俺の為なのか? 俺がそうしたいからそうして………でも押しつけがましいのは嫌いだしな………あ〜?」
自分で言ったことの矛盾に気づいて、考えを上手にまとめることができずに唸ってしまう。それに見かねたミーシャが助け船を出した。
「芯護が優柔不断なのはよく判ったわ。つまり、『秩序の学舎』に恩を返す気はなし、でも恩を感じてない訳じゃない。誰かが困ってても助けが呼ばれるまでは放置、でも助けて欲しいって言われたら助ける………そういうこと?」
芯護の言いたかったことをざっと整理して提示する。頭を悩ませたままの芯護は、混乱しているせいかミーシャの言葉を呑み込めず、どうだろうなと曖昧に返す。
煮え切らない受け答えにミーシャは呆れ果て、もういいと話を打ち切った。
「芯護の考え方を、間違ってるとは言わないけどね。…それじゃ間に合わないわよ」
少しだけ、憂いた表情を見せながら言い残して。
ミーシャは汚れた手を叩いて土を落とす。その右手にある、作業を始める前に着けた黄褐色の手袋が、芯護の目に映る。
赤焼ける庭園の中心で、ミーシャは右手を花壇にかざしてすっと目を閉じた。
手は陽が沈むことで花びらを閉じていく植物に向けられ、ミーシャの意識は手袋に集中する。
「…循環せよ―――【豊穣】〈アムリア〉」
無意識に紡がれた言の葉に応じて、手袋が翡翠の輝きを放つ。