〈ニ〉― 7
何処へ逃げるか、逃げ場はあるのか、考えなく飛び出した芯護は行き先に迷い、なんにせよ殺意満々の理恵子とクルミアからは距離を置くべきだと判断してひたすら走る。頭の端で残してきたトオルを気に掛けていたが、あそこにはミーシャもいる。トオルの身に災難が降りかかることはないと信じたい。
問題はトオルよりもこちらの方だ。芯護は誰もいない廊下を駆け抜けながら、途中にある他の教室を窓から覗いて調べ、何処ももぬけの殻なのを確かめていく。トオルの話した通り、全員避難訓練として指定場所に移動しているのか。
生徒を避難させた理由は、これまでのやり取りから考察する限り芯護以外にいない。律神器を使用してまで全校生徒と芯護を引き離したり、武力派の外界組が襲ってきたりと事がやや大袈裟過ぎる。一体何をやらかせばこれほど大規模な対応をされてしまうのか。
(あり得そうなのは………、まさか昨日の奴か? 俺が教室の壁を壊したから……違うか。そんな理由でここまではしないだろ)
仮にそれが正しかったとして、だとするとこの扱いはない。壁二枚と自分の命が天秤に掛けられ、壁の重さに負けたとあっては芯護も黙っていられない。
「ふざけんなよ。特待生に命狙われるいわれはないぞ…………ぅお!?」
苛立ち紛れに悪態を吐いていると、何かに足を取られて滑る。焦った芯護はバランスを取って転倒を防ぎ、立ち止まらずに進みながら滑った原因を目にした。
水だ。
校舎外縁の側の窓が開けられていて、外で降り続けている雨が入り込んで廊下が水浸しになっている。
誰かが閉め忘れたのか、けれど雨は連日降り通しだから開けておく理由がなく、ならばわざと開けられたのか。誰かの悪戯なのか、滑って転べば怪我をするのに危ない。しかし追われている芯護は窓を閉めてはいられないので、廊下の端に寄って雨を避けて直進。
…―――するのを、運命の神様は許さなかった。
「はーい容疑者〜。カームバ〜ック」
「ぐふぇ?!」
ひたすら軽い口調を耳に捉えて、何者かの右足の甲が、首の喉笛に引っ掛けられて捕らえられ。
ガクン、と急停止して息が詰まった。その次には、芯護の身体は来た道へ引き戻されていた。
「うおおおお!?」
物理的にあり得ない力に引き寄せられるかの如く滑っていく芯護は、遠ざかっていく何者かの正体を見る。―――憎き犬猿の仲でこれまた特待生外界組のディスケルグだ。ヘラヘラと笑い、包帯を巻いた手をズボンの裾に収め、自由にしている足には銀色の輝かしい具足が履かれている。律神器は発現済みで、臨戦態勢は万全………といった具合に。
「一名様ごあんな〜い。………【俊足】〈ソルシンク〉」
ディスケルグの言葉より先に。
本人の姿が急速にブレて、目で追いきれない残像が芯護の真横に迫った。『一名様ごあん』と芯護が聞いている頃には、踵を突き出しての強力な蹴りが脇腹を直撃。九の字に折れ曲がった芯護は壁に―――叩きつけられることなく開け放たれた窓へ吸い込まれていった。
雨が降りしきる野外に放り出され、芯護は冷たい水溜まりのある地面を数回転がった。新調した制服は泥だらけの濡れまくれ、ついでに口に入った泥水を吐き出す芯護もキレまくりで、罵りながら起き上がる。
「ぶえ、ぅうえ………〜〜〜〜チックショウ!! ディスクの奴!!」
「ダメですよ? 言葉遣いは丁寧に、淑やかに、―――たゆたえ、【水明】〈リレィズ〉」
誰かに叱られた。
と、芯護が反応を返すより早く雨が降り止んで―――“水の固まりが芯護の頭を覆った。”
「ごぶぼ!? ごぼげばぼぼぶご!??」
息つく暇もなく顔を水に塞がれて、つい吸い込んでしまい肺に流れ込む。溺れる、死ぬ、と必死に両手で掻いてもがいて、手は水をすり抜けるばかりで頭から外せられない。息止められるの今日何度目だ!? と泡を吐いて絶叫すると、水を操っている張本人から声を掛けられた。
「逃げないで下さい。争わないで、そうすれば、誰も傷つきませんから。ね?」
何やら、にこやかな顔で語りかけてくるのは長髪の女性らしいが、液体の揺らめきで光が歪み、顔を確かめられない。
否、確かめるまでもなかった。のんびりゆったりな口調に天然気味な言動とくれば、考えつく人物は一人しかいない。
頭に思い浮かぶのは、美しい水色の髪に羽衣の律神器を纏わせた、神秘的な印象の少女―――、
「フォーラム君、水をどけないと彼が溺れてしまうよ」
そう、フォーラムだ。視界がチカチカ瞬き出して危うく、芯護は酸素補給で埋め尽くされた頭で答えを手繰り寄せて、次なる人物の声を聞き逃す。
苦笑混じりのその声と、本当に溺れかける芯護の姿で、フォーラムはやっとやり過ぎていることに気づいた。あらあら大変とマイペースを地で行きながら羽衣を握り、揺らぐ水を四散させる。
水責めから解放された芯護は、大急ぎで水を吐き出して呼吸して、胸には空気と安堵感が一杯広がり、
「かといって野放しにも出来ないね。代わりに、僕が彼を抑えよう」
ズンッと。
目に見えない重圧が、芯護の身体全体にのしかかった。
「な……ん………!?」
支えていた手が地面のぬかるみで滑り、体勢を維持出来なくてベシャリと潰れた。泥だらけの芯護は上から降り注ぐ力に抗おうと試みるが、手足はおろか指一本を上げることすらままならない。
身動きを封じられた芯護へ、真上からこの現象を引き起こした人物に声を掛けられる。芯護の記憶には残っていない、栗色の髪に柔和な顔つき、クルミアとは違った形の眼鏡を掛けた男子生徒だ。
「お願いだから大人しくしていてくれ。君が無抵抗でいるうちは、僕達も君に危害を加えないから」
ふざけろ加えてる真っ最中だろッ、と反論したかったが、芯護にはそれすら口に出す余裕がなく。
それでも、自分は何も悪いことをしていない、諦めてたまるものかと地べたを這いずる。往生際悪く抵抗を試みる。そして―――、
「………【純心】〈シャクアス〉」
キィン、と煌びやかな音色を聴いて。
黒髪の少女が発現した聖槍の矛を、軽く首筋に当てられて。
「降参、してくれるかな」
「…はい」
諸々の事情により、芯護は白旗を上げざるを得なかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
北側の校舎の二階から三階は、壁と天井の区切りをなくして一つの空間に統一されている。特待生と教師以外に入ることが許されないそこは特待生全般の活動拠点であり、彼ら専用の特別教室となっている。
広々とした室内には質の良い調度品が数多く並べられ、解放感溢れている。居心地抜群であるこの空間を一般生徒は『神々の娯楽場』などと呼び、興味本位で忍び込んだ二学生から明かされて以来、羨む声が続出して特待生昇級を目指す促進剤となった。
芯護も昇級にこだわることはなかったが、興味がない訳でもなかった。
見れる機会があるなら見ておきたい。自分達が通っている教室とどう変わるのかを見比べてみたい。と、
その場所に立ち入る機会が訪れるまでは、そう考えていた。
率直に一言で表すならば、針のむしろだ。
一般生徒が立ち入れない特別教室の一階部分。談話室として利用されているそこで、芯護は背もたれつきの木椅子に座らされている。ふかふかな赤色の絨毯の弾力に足の裏をくすぐられながら、取り巻く特待生外界組の容赦ない視線の嵐に晒されている。
律神士に囲まれては逃走不可能と判断しているのか、身体を拘束するような器具は取り付けられていない。泥と雨水はご丁寧に洗われて、服は特待生の誰かが用意した運動着に着替えさせられた。
彼らは四方に一つずつ設置されたソファーに座り、芯護へ敵意やら好奇やら悪意と喜楽の綯い交ぜやらを向けている。後は無表情で判別がつかないのと、残る一人はこの場を離れて行方は知れない。
書架が立ち並ぶ二階から外界組以外の特待生が見守る中、芯護の正面に座するクルミアが代表として尋問を始める。
「何故ここへ連れてこられたか判っている?」
「…知らねえよ」
芯護は偽りなく答えた。不躾で愛想もへったくれもない返事だが、律神士五人からよってたかってボコボコにされた挙げ句に強制連行されての返事だ。いつもの芯護なら閉口するか勝算のない戦いを挑むかの二択で、会話が成立しただけでも上出来と言える。
芯護の反抗的な態度を聞いたクルミアは、当然ながら快くは思わない。ますます眉尻を吊り上げて脅し文句を聞かせる。
「こちらは拷問も視野に入れている。早めに洗いざらい吐くことを薦めるけれど?」
「だから知らないもんは知らないんだよ! 先ず、何があったのかを教えろよ。それが判らなきゃ、答えようがないだろうが」
「……フン、まあいいけど」
信じてない、とあからさまにクルミアの顔にはあったが、これでは一向に話が進まないので、進展させるという名目で事の成り行きを話し出す。
簡単に、かつ重大なことを、さらりと。
「昨日、侵入して捕まった男が何者かに殺害された。地下に設けた牢屋の鉄檻は鋭利な刃物か何かで切断され、男は檻ごと斬り伏せられていた」