〈ニ〉― 6
身体はいとも簡単に弾き飛ばされ、机を滅茶苦茶に押し退けながら教室前方の黒板に叩きつけられる。受け身を取ることすらままならずに、背中から強くぶつかって肺が圧迫されて、床に崩れ落ちてむせてしまう。
芯護の目に、トオルが必死な形相で何かを叫ぶのが見える。その声は、キーンと鼓膜に残る耳鳴りに打ち消されて聴こえない。
息苦しさと痛みで何が起こったのか判然としないながら、自分が危機に晒されていることは否応なしに理解できた。倒れている場合ではないと芯護は身体を起こして、散らかった教室の半ばまで歩いていた少女を注視した。
(痛………、何処から、現れた? いや、それよりも俺は攻撃されたのか? なんのつもりだ、こいつ……)
少女は姿を見せてからずっと芯護を睨みつけている。特待生外界組で【木霊】の『器』の発現者と接点はなく、恨まれるようなことをした覚えのない芯護は惑う。
彼女が、ろくに話をしたことのない芯護に敵意を剥き出すのはどうしてなのか。思い当たらなくて考えあぐねていると、耳鳴りの治まってきた芯護に不吉が告げられた。
「加減したとはいえ、音の全方向を固定してぶつけたのに立ち上がれるなんて、しぶといわね。次はさっきの二倍で試してみようか」
「……!?」
手足の先にまで痺れる感覚が突き抜け、全身をまんべんなく痛めつけた先程の一撃を、倍の威力で放つ。
喰らえば最悪どうにかなってしまうのではないか。嫌な予想図が浮かんだ芯護は身を隠そうと場所を探して、隠れて振動する空気の波からは逃れられないと知る彼女は悠長に手のひらを首飾りへ。囲うように構えて大きく息を吸い込み、音の力を放とうとして、
少女の前に先回りしたトオルが飛び出した。
「やめろ!!」
「バ…!? 出てくるな、トオル!!」
「―――はあ、邪魔よ」
焦った芯護が庇いに行くより早く、少女の方が動いた。吸い込んだ息をほとんど吐き出し、唇を尖らせて高く鋭い音を吹き鳴らす。音は芯護の耳には聴こえなかったが何かをしたのは明白で、少女と向き合っていたトオルは短く悲鳴を上げて倒れてしまった。
親しい間柄の人間に危害を加えられた。それだけで、芯護の頭は血が昇って沸騰した。
「お前、トオルに何をした!?」
「…」
何も答えない少女に、自然と右手に力を込めた芯護が詰め寄る。
女性に手は上げない、相手は格上で敵う相手ではない………自分にとって重要でないそれらは、引っくるめて無視。彼女に拳を振り上げる。
少女は殴りかかる芯護に対して、身動ぎ一つしなかった。律神器で迎え撃つこともしない彼女は、芯護の為すがままにされる。
避ける必要はない。何故なら、彼女の仲間である特待生が、すでにこの場に現れていて、代わりに芯護を狙っていたのだから。
「風穴空けろ、【颶風】〈ビアクゥア〉」
幼さが残りながらも落ち着き払う、大人びた声がして―――、ゾクリと芯護の背筋に悪寒が走った。身の危険が迫っている、と考えるより早くその場にしゃがみ、一足遅れて頭の真上を右から左へ、高速で何かが駆け抜けた。
キュガッ!! と過ぎ去った先から鮮烈な音が鳴る。音の詳細を確かめる為に芯護が顔を向けると、厚さのある壁に拳大の真ん丸い穴を発見する。
避けていなければ、芯護の胸元に空いていたであろう、位置に。
「チッ、外れた。運の良い」
「………クルミア」
穴と反対側に立っているのは、髪を頭の両端で結んだ小柄な少女。
特待生最年少にして律神士、クルミア。
おでこ辺りに付けた髪飾りを妖しく光らせる彼女は、感情の起伏に乏しい鉄面皮に見慣れない眼鏡を掛けて、膝をつく芯護と相対している。
前方に【木霊】。
右方に【颶風】。
二人の目的は同じで、揃って標的である芯護を仕留めるべく動き出す。
身を低めた状態の芯護は逃げることも隠れることも叶わない。窮地に立たされた芯護であったが、そこへさらに特待生が現れて状況が一変した。
「………スト―――ップ!!」
「み、ミーシャ?」
ズバァン!!と激しく扉が開かれ、血相変えたミーシャが教室に飛び込んできた。次から次へとやって来る特待生に、芯護はもう唖然としてしまう。
先客二名とは違って襲いに来たのではないらしいミーシャは、説明を求める芯護には見向きもしないで、というよりはあからさまに逸らし気味で、襲撃コンビの方へ近づいていく。
「理恵子もクルミアも何してるの? 脅して従わせるだけって言ったじゃない!」
(それはそれで物騒な話だな…)
芯護は場違いに思ったが口には出さなかった。
憤慨するミーシャに、二人はどちらとも堪えていない様子で、まずはクルミアが白々しく言い訳をする。
「抵抗の意思を確認したから自衛手段を行使した。そっちの一学生は、」
チラッと倒れて動かないトオルを見て、理恵子と呼ばれた少女が言葉を引き継ぐ。
「イレギュラーね。避難するよう前もって知らせたのに、教室に残ってた上に邪魔しようとしたから、気を失う程度の超音波を鼓膜に流したのよ。外傷はないわ」
「そういう問題じゃなくて! 私はもっと穏便に済ませてくれると信じていたのに、まさか説明もなしに攻撃するなんて…」
納得のいかないミーシャは息を荒らげて二人を問い詰める。その脇で、理恵子の発言を証明するように動かなかったトオルが呻き声を上げた。ゆっくり身体を起こすところを見るに、無傷というのも嘘ではないらしい。
トオルが無事なのを知った芯護は多少落ち着きを取り戻して、冷静になった思考はミーシャ達の会話から情報を取り寄せる。
やはり…というべきか、自分が狙われていることは間違いないようだ。その為に他の生徒達をあらかじめ逃がしておいて、理恵子とクルミアが襲ってきた。何にせよ、自分がここにいて助かる確率は低そうだ。
そうと判れば、いつまでもここに留まりはしない。三人が言い争いをしている隙に教室を抜け出さなければ。
(行けるか……?)
「…―――ミーシャ、これは私達の総意で決まったこと。あれを最優先で始末するとミーシャも賛同した」
「してないわよ。始末じゃなくて捕獲でしょ! 疑いがあるから取り調べるってブロイツの言葉を忘れていないでしょうね?」
「私としては、ヒナにつきまとうストーク野郎を大義名分付きでヤれれば、それで」
「それが理恵子の本音? 随分積極的に参加したがってたのはそれが理由だったのね?」
ギャーギャーと三人の口喧嘩は白熱して、渦中の芯護を見失っている。途中まで意識がなく状況がさっぱりなトオルがそれを観戦していて、忍び足で後ろに下がる芯護は連れていくかを迷った。が、やめた。
狙われているのは芯護一人。一緒にいれば巻き添えにしてしまうし、単独で逃げた方が都合が良い。
と、ジリジリ後退していた芯護と、警戒を怠っていなかったクルミアの視線が、迂闊にも重なった。
「む。逃亡?」
「………不味い」
「え?」
「あ、こら!」
ミーシャと理恵子にも気づかれて、芯護はチッと舌打ちして走り出す。幸い、扉までそう距離が残っていない。僅かな差で出られよう。
逃走を図って全力疾走する芯護を、みすみす逃しはしないとクルミアが律神器を発現させようとする。手を真っ直ぐ芯護の頭に定め、【颶風】の髪飾りが一際強く輝く。
「逃がさない。―――ビア、」
「だから待ちなさいってば! 『器』の発現は禁止!!」
クルミアの発現を済んでのところでミーシャが呼び止めた。理恵子も同様にミーシャの圧力を受けて封殺されて、まごついている間に芯護は扉に辿り着く。
教室を出る前、芯護は振り返って後を追おうとするトオルを確認した。芯護の身を案じてのことだろうが、ついてこられると何かと厄介なので、芯護は厳しい声でトオルに怒鳴る。
「俺に構うな、そこにいろ!!」
「え、しん……?」
突き放されたトオルはビクリと震えて、立ち止まったかどうかを確かめている場合でない芯護は廊下に出た。