〈二〉― 4
丹波から遅れて数分後、新品に取り替えられた制服に着替えた芯護は診療塔から出てきた。
外の雨は大降りになりつつあって風も強かった。芯護は屋根つきの渡り廊下を駆け足で、急いで校舎内に入る。せっかく新調された服が飛沫や霧で濡れて気持ち悪く、服の表面についた雨粒を払いながら速度を落としてそのまま歩いていく。目的地は、現在一学生が授業を受けている一階の教室。そこにトオルら三人もいるだろう。
まだ授業中で誰もいない廊下を闊歩する芯護は、丹波が会話中に洩らしていたある言葉について考える。
『―――お前、教室に行ったら覚悟しといた方が良いぞ』
覚悟ってなんだ、また誰かに襲われでもするのかと聞いた芯護に、丹波は笑うだけで何も答えなかった。念のため、念のため、と繰り返していたアレは一体何だったのか。
(意地の悪い顔をしてたから、良からぬことだってのは想像つくんだけどな)
まさか本当に襲われることはないだろうと楽観視してみるが、一方で丹波は、芯護と同様に悪ふざけで嘘をつく性格をしていない。何かが待ち伏せているからこそ、思わせ振りなことを言ったのだ。
果たしてそれは?
「心当たりは、ないな。直に確かめればいいか。……っくしゅ!」
診療塔からつきまとう鼻の不調に顔をしかめつつ、緩やかに曲がる長い廊下を歩いて着いた、教室前の扉。まだ授業は終わっておらず、ハロル・パフェッドの教義の声が途切れがちに流れてくる。
芯護はしばし授業が終わるまで待つかどうかを考えて、病み上がりで空気の冷たい廊下に立ちたくない、どうせもうすぐ終わるのだから大して邪魔にもならないだろうと即決。
特に気遣うことなく、無作法に扉を開けて中へと入った。
「「「………」」」
聞こえていた音が、吹き荒ぶ雨以外に消えてなくなった。
教本と教鞭を両の手に持って長々と朗読していたらしいハロルはジロリと睨み、生徒達は全員芯護の入ってきた扉へ注目する。
特に変わった様子はない。多少身構えていた芯護は肩透かしで、トオル、レンザ、バーノットの三人を探して―――、見つけた。三人共窓際の席で隣り合って座っていた。
三人も他聞に漏れず芯護を向いて目を見開いている。どうやら驚いているらしく、要らぬ想像でもしていたのか、人の無事な姿を見て驚くとは失礼な、と心でぼやきながらも、変わりない三人を見れて気を緩めた芯護は、
「「「芯護!!!」」」
「ぇ………ええ!?」
示し合わせたように声を揃えて、一斉に立ち上がり、どっと押し寄せてきた生徒達に度肝を抜かれた。
先んじてやってきたレンザが芯護に飛びつき、その周りをトオル、バーノット、興奮状態の生徒達が包囲していく。悲鳴にも似た歓声が沸き起こり、想像すらつかなかった出来事に対応しきれない芯護は、とにかく首に両腕を回してわんわん泣き喚くレンザを外そうとする。
「芯護ー!! ……無事で良がっだあああああああ」
「うるっせえ! なんだってんだ、ちょっとレンザ離れろ。首が絞まって息しづらい」
「ごべえええん!! 俺、お前と結婚するから!お前に身も心も捧げるから!! 味噌汁作りは任せろォ!?」
「任せてたまるか話聞けえ!! おいトオル、バーノ、見てないでこいつをどうにかしろ!!」
「芯護……無事で良かった。半日も眠ってたからどうしようかと」
「そうだな、気持ちは嬉しいけどこのままにされたらもっかい眠ることになるから、首絞めだけでも外せっつってんだよもしもーし?」
「芯護、お前は英雄だ!! 命懸けで皆を守ったお前を、俺は誇りに思うぞ、コンチクショウ!!」
「誇りに思って畜生はねえよ。失恋したショックで気が触れたか、タキシード」
げぶるぁ!?? とバーノットは撃沈するも、レンザは首から離れないしトオルも感涙して抱きつきかねないしで手に負えない。周囲は周囲で異様に盛り上がりを見せ、『芯護!! 芯護!!』と熱狂する始末。
そんな中で、唯一教室内で芯護以外に正常なハロルは、まさかの全員授業放棄に身を打ち震わせてなだめにかかるが、
「全員、座りなさい。大声を上げずに、静かに!! 授業はまだ終わっていないのだから、席に戻り…」
折り合い悪く、続きの言葉をリンゴーンと響いた鐘の音が被さった。授業終了を知らせる合図だ。
熱弁を振るおうとしたハロルは一時停止して、押し黙ったあとに発言を改めた。
「………よろしい。それではこの辺で終わりにしましょう。休憩時間中ならば、存分に英雄君を祝ってあげても問題はありません。君達への、私の内にある評価が斜め右下に急降下する、その程度の些事です。ええ、なんら問題はない。役目を全う出来なかった私は、速やかに退出することにしよう。では失敬」
「待て待て放っていくなバーコード!! そんな捨て台詞誰も聞いてないし、問題ならあるだろ!? 戻るならこれを鎮圧していけ、丸投げすんな!!」
教師までもが職務放棄する事態に(それも厳格さで教師中一、二位を争うハロルの放棄に)底冷えするものを感じ取った芯護が、懇願にも似た叫声でハロルを呼ぶ。しかし残念ながら『バーコード』の単語が彼の神経を逆撫でてしまい、むしろ教室を去る足の動きを速める結果となった。
孤立無援となってしまった芯護は担ぎ上げられ、時折ワッショイの掛け声と共に胴上げされたりしながら、教壇に連れていかれる。ジタバタもがいても為す術なし、何処からともなく用意された椅子に座らされると、全員の輝きに満ち満ちた眼差しが集まる。
思わず、芯護は怯んでしまった。
「さあ、律神器を発現して悪者を成敗した我らが英・雄☆芯護を、褒め称えようではないかー!!」
誰かが調子の良い声を上げれば,、また沸き上がる歓声、拍手、称賛の嵐。
芯護は目を回したような錯覚に陥る。クラス全体が異常なノリとテンションに包まれていてついていけない。
そもそも、ここまで注目を浴びたことなんて芯護の知る限り一度もなかった。それも皆から注がれる感情が、好意や尊敬、憧れで占められ、普段の落ちこぼれを見る嘲笑や好奇などは一切感じられない。悪い気はしないのだが、何分不特定多数から好意を寄せられる幸福に遭遇したことがないので、慣れない事態にまごついてしまう
そうしている間にも、皆からの集中砲火が始まった。
「それでは芯護に聞いちゃいまっす! 英雄になられた、今のお気持ちは!?」
「気持ち? えー………そこそこ」
「はい『そこそこ』頂きましたァァァァッ!!!」
ワァーっと熱気がさらに盛り上がった。
いやいやいやと芯護は首を振る。面白味もなにもあったもんじゃない『そこそこ』発言で、何故そこまで興奮する。
「芯護、カッコイー!!」
女子生徒の黄色い声が聞こえた。格好良いか? と真面目に不思議に検討する。
「芯護くん大好きー!!」
やたら野太い声が聞こえた。ぶん殴ってやろうか。
「俺達、『英雄☆芯護を愛し隊』を結成したぞ! これからずっと応援するからな〜!!」
だからなんで野郎が集まる。即刻解散しろ。永久に潰えろ。
「……落ち着け。お前ら落ち着け! 俺は英雄じゃない、お前らが思ってるような人間になってない。担ぎ上げるのをやめろ、いいから話をちゃんと聞けぇ!!」
さすがにウンザリして怒鳴ってみても、誰も聞く耳を持ってくれない。正気かどうかすら疑いたくなるクラスメイト達を前に、芯護は頭を抱えそうになる。
………これか。これが丹波の言っていた『覚悟しろ』の意味か。
皆が皆、『英雄』が出現したと有頂天になって騒ぎ立て、本人の意思に関係なく決めつける。
芯護は、英雄になんて興味すら持っていないのに。
望んでもいない称号を押しつけられるのははた迷惑なだけなのに。
誰も芯護の心情を察してくれない。調子の良いことを舌の上で踊らせるばかりで、一人もだ。こんなことなら、自室に戻って英気を養い、ほとぼりが冷めるのを待っていた方が良かった。
今からでも遅くない。強引にでもここを抜け出して寮塔に帰ろうか。そう考えて、眼前の光景に飽き飽きした芯護が席を立とうとした時だった。
「芯護、こっちこっち」
「…?」
呼ばれた方に顔を向けると、先程から姿が消えていたトオルら三人がそこにいた。何処に行ってた? と一瞬考え、それよりも中央に立つレンザの前にいる小柄な男子生徒が、もじもじしながら芯護を見上げていることに気づく。
芯護の記憶がさっと蘇る。男子生徒は、レンザと仲の良い二歳年下の男の子だ。昨日の襲撃事件で芯護が咄嗟に庇った彼。それがどうして三人に連れられているのかと疑問に思い、
その答えを、男子生徒が先に口にした。
「芯護、あの時は助けてくれてありがとう」
「え…」
照れながら、笑いながら男の子が言った言葉は、心からの感謝だった。
周りで騒いでいるのとは違う、いもしない『英雄』にではなくて、『芯護本人』に贈られた感情。飾り気もなにもない単純で簡単な言葉だったが、言われた芯護の胸にじんわりと滲むものを与えてくれる。
どう応えたらいいのか判らない芯護は、嬉しそうにその反応を楽しむ三人を見て、丹波との会話を思い出した。
『誰がどう考えたって、間違いなくお前は英雄だ』
誰がどう考えたって―――“自分がどう考えたって”。
芯護が英雄であることに変わりはないんだ。
周りで浮かれている連中も、ありがとうと言った男子生徒も、彼を連れてきたトオル達も、皆がそう思ってくれている。
勝手な話だ。頼んでもいないのに、奉って崇めたって何にもならないのに。
でも。
「…どういたしまして」
返す言葉をようやく見つけた芯護は、英雄も捨てたもんじゃないな、と思えるようになっていた。
―――思えるようになったのに。
「んまー、見てご覧なさいよバーノさん。意地っ張りで素直じゃない芯護ちゃんが『どういたしまして』ですって!」
「良いですわね、レンザさん。こうやって少年は、大きくなっていくんですのね〜。」
「「青春ですわ〜」」
「台無しだ馬鹿野郎共」