〈二〉戸惑いの変化
ゆらりと、影が踊った。
岩の壁が剥き出したそこは、一面だけ鉄製の檻でできた立方体の牢屋がある地下室だ。松明は通路側にしかなく、明かりは牢屋の手前までを赤く照らしている。
ここは長雨と夏期で湿気が多分にある。ジメジメするのが苦手な投獄者は檻の側に身を置いて、仏頂面で来訪者を迎えた。
「あら、遅かったじゃない。もう少し早く来てくれると思ったのに。《無垢なる者》を見倣いなさいよ」
そう憎まれ口を叩いたのは、派手に着飾った女装の男、ウクス。服は所々擦りきれ、左の頬と耳一帯が腫れ上がっている。
『秩序の学舎』(アカデメイア)校舎内の一室を襲撃した彼は、想定外の反撃に遭って倒れ、罪人としてこの地下牢に閉じ込められた。その際、彼が持っていた律神器は壊され、『秩序の学舎』側に回収。律神器の力なしに脱獄のできないウクスは、こうして“仲間”が来るのを待つしかなかった。その仲間は、
「…ていうかさ、その格好は何、当てつけ? ムカッ腹立つからやめて頂戴」
「…」
虫の居所が最悪なウクスの愚痴を黙って聞いていた。
「それで、上手くいきそうなの? ワタシがこんな目に遭ったんだから、成果は出せたんでしょうね」
「…」
「ワタシが見た限りじゃあ、使い物になりそうにないカンジがしたわ。あんなのを『計画』の主軸になんて出来ないでしょ。“漆黒”はなんて言ったの?」
「…」
「ねえ、ちょっと」
「……五十点」
何の応答もなしにウクス一人が喋り、無視されていると知って切れようとした時だった。牢の前で囚われの女装男を眺めていた仲間は、声の変わり目か若干低い少年の声で一声上げた。
言われたウクスはちんぷんかんぷんだ。何が五十点なのか、自分に対しての評価なのか、百点満点中の五十点だとするなら、残りの減点は何なのか………と、訝しげに仲間の顔を見る。
とても冷たい表情を、見た。
「《無垢なる者》と『秩序の学舎』生徒への攻撃は、まずまずの結果だ。アレは“予備”として残しておくことになった」
「ア…ラ、そなの? そういう風には見えなかったけれどね。それで、」
「“選別”も、お前が起こした騒動で滞りなく終わった。こっちは細かく精算しないといけないらしいが、“漆黒”のことだ。面倒になったら大雑把で済ませるだろ。どうせ稼ぎに過ぎないし」
「そう、それなら、問題は…」
少し、首筋に汗を掻き始めたウクスは結論を急ぐ。自分は役目を全うしたのだから、ならば減点される要因はないだろう。そう締め括ろうとして、
「問題は」
仲間が、それを許さない。
「例え出来の悪い『粗悪器』(そあくき)だろうと、“計画”に必要な『器』であることに変わりはない。なのにむざむざ破壊された。お前のつまらない感情一つで、だ」
おもむろに右腕を上げて、手に何かを握る仕草をする。手の内側には、濁り気味の白いもやが妖しげに渦巻いて、平たく、細長く地上へと伸びていく。
仲間の決まりきったその行動はウクスを震え上がらせて、冷静を欠いて喚かせた。
「う、ううウソ嘘、嘘でしょ? 冗談はやめてよ。だって、ワタシ達“仲間”でしょ?」
―――地下牢に現れたアナタは、ワタシを助けに来たのでしょう?
当然だ。同じ目的を持って、同じく行動し、同じように助け合う………“仲間である以上、当たり前のことである”と。
ウクスが抱いていた幻想を、仲間とは一度たりとも考えたことのなかったその人は、突き放した。
「仲間? “捨て駒”だろう? 『粗悪器』には利用価値はあるが、お前にはそれがないじゃないか。五十点もくれてやっただけ感謝しろよ。その加点が、“捨て駒”が必要とされた“証”で“ご褒美”なんだから」
愕然とするウクスに、トドメとばかりに言い捨てる。
「良かったな? 最期に“誰かに必要とされて”」
「―――」
ウクスの息が止まった。
滴っていた汗は何処かへ消えた。
顔から表情の色が無くなった。
焦りも、嘆きも、何もかも忘れて檻に近づき両手で掴んだ。考える余地が残されていれば、牢屋の隅へと下がる判断も出来ただろうに、それすら考えつかないほどの怒りの炎に包まれて檻を激しく揺すった。
「―――けるな…」
檻は頑丈でびくともしない。
檻の外にいる奴には、微塵も伝わりはしない。だとしても、ウクスは吠える。
自分を“仲間”ではなくて“捨て駒”として扱った、その人を。
同志として、どころか人としても見ていなかった。しかしそんなことは意識の範疇内になくて、ウクスが激昴したのは“褒美”と言われたことだ。
ご褒美? 証? 必要とされて、良かっただと?
「………ふざけるなァ!!! ワタシは、そんなもの望んじゃいないわよオッッッ」
鉄製の檻をへし折らんばかりに握り締め、手の皮の方が張り裂けた。焼けるような痛みが走ったが、すぐに感じなくなった。
痛みや恐怖に怯んでいられなかった。ウクスは、自分の猛りを牢の前にいる輩にぶつけようと喚き立て、
「ハッ、知ったことかよ。使い道の無くなった不要品を、いつまでも『秩序の学舎』の連中に渡しておけないから、こうしてわざわざ処分しに来てやったっていうのに、礼を言うより唾を飛ばすのか。ますます、使えない」
ウクスへの感想は、それだけで終わった。
早々と興味は失せて、口元にあった笑みもすぐに引っ込めて、無慈悲に腕を振り下ろす。
誰からも必要とされなかった彼に、“必要とされた”誉れを授けて。
律神器を、発現する。
「斬り殺せ。【誠愛】〈ヴィリア〉」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
匂いがした。
甘ったるくて鼻につく匂いだ。鼻腔をくすぐられる感覚は気持ち良さよりも痒みを伴い、背筋がゾクゾクして吹き出そうとした。
ボフッ。
くしゃみをした。…のではなくて、くしゃみをする前に鼻を何かに塞がれて止められた。
弾力のある、柔らかい素材の球体だった。それが鼻の両穴を塞いで、甘い匂いはしなくなったが、ついでに呼吸も出来なくなった。
………いや、本当、苦しくて仕方がない。丸い球体の感触は何処か懐かしく、ずっと触れていたい気持ちに駆られたが、このままでは窒息してしまう。
どうにかこのフワフワなものをどかそうともがき、息が足りなくなってきて切羽詰まる。もう柔らかいのは良いから、とにかく息をさせてくれ。
もがいても、球体は鼻からどいてくれない。息がもたない。
苦しい。
空気が、酸素が欲しい。
どけ。
どけってば。
俺を死なせたいのか。本っ気で死ぬから、ごめん、マジで、ほんとお願いだから、良いからそこぉ―――…、
「モボぇ!!(どけぇ!!)」
意識を取り戻しつつ、くぐもった声で芯護は叫んだ。
目覚めて、まず目の前一杯に広がったのは、二つの丸い球だ。芯護の鼻に乗っかったそれは豊満な胸で、その持ち主は、ベッドに横たわっていた芯護の上から前のめりに覆い被さっていた。
黒い長髪を後頭部で結い上げた、うら若き女性。言わずと知れた芯護の育て親、丹波だった。