〈一〉― 17
「え?」
気づくと、ウクスは尻餅をついていた。
依妃奈にトドメを刺そうとした、そこへ眩い閃光が教室中を照らして、直下に轟音が鳴り響いた。一体全体何が起こったのか、近場に雷でも墜ちたのか? 毒気を抜かれて腰を上げるのも億劫なウクスは目を瞬いて、
「え?」
廊下側の教室の壁が、向かいの壁までなし崩しに、大きくぶち抜かれている光景を見た。
ぽっかりと空いた穴からは外の湿った風が入り込み、吹き荒れた埃を流していく。白んでいた空気も落ち着いて、ウクスの目先で前屈む人物の姿が捉えられるようになる。
「え」
ウクスは口をだらしなく開け、食い入るようにその人を見つめる。脈動するかの如く揺らめいて、白桃色の光を放つ不鮮明な物体を右手に宿した、芯護を見る。
芯護を通り越して、目を丸くして、芯護の持つ“それ”を凝視する。
「嘘でしょ………“律神器が、産み出されようとしてる”?」
自分で言いながらも半信半疑で、けれど間違いようがない。
律神器が自然界で産み出される確率は、およそ六千分の一。
人の肉体と魂から産み出される確率は、七千五百分の一。
人の心から産み出される確率は、
六十二万跳んで、八百分の一。
そう易々と、都合良く産み出されるはずのない律神器―――『器』が、たった今、この場で産まれようとしていた。
新たに産み出された『器』が発見されることは滅多にない。それを見つけるだけでも幸運なことだというのに、『器』が産まれる最中の場面に立ち会えている。
予想の斜め上を行く展開に、ウクスは力なく笑った。
「あっはは………すごい、凄いわ! 一生にそうそう見れるものじゃないわよ。本当、驚かされたわ」
恐らくは自分を倒したい一心で、極致的に高まった思いが『器』を産み出すきっかけになったのだろう。そう推測したウクスは、そんな理由で『器』を産み出そうとしている健気な芯護が可笑しくて、馬鹿馬鹿しくて、止めどなく笑った。
………芯護は、『器』が完全に産み出される“前に”その力を引き出した。『器』が『器』として完成する前の、未成熟な状態で。
ろくに練りもせずに、形を整えただけで焼いてしまった陶器の出来は言わずとも知れている。それと同じで、『器』の形成が完了して発現されるまで、力を行使してはいけなかった。そんなことをすれば、発現者の身にどんな弊害をもたらすのか。
それなのに芯護は『器』を振るってしまった。後先考えず、気のままに動いた。ウクスはその事実が判っていて、だから笑っているのだ。―――コイツは途方もない馬鹿だ。律神器の扱い方をまるで判っていない。こちらから手を下さなくても、自分で自分の身を滅ぼすだろう、と。
『器』を産み出されたからといって焦ることは何もない。コイツは放っておいても勝手に自滅する。仮に無事でいて刃向かってきたところで、馬鹿の対処なんて容易くこなせる。
大丈夫だ。何の心配も懸念も要らない。アタシはまだ優位に立っている。悠然と立っている。だから、大丈夫。
ここの支配者はアタシ。《無垢なる者》も、ガキ共も、力で屈服させてやった。心を根元からへし折ってやった。アタシに敵はいないのよ。だから、
だから。―――なんで?
「(なんで………“震えと汗が止まらないのよ!?”)」
頭で知ったことよりも、身体の方は正直に感じた反応を見せた。
言葉にするなら―――そう、『恐ろしい』。
芯護の全身から放たれる威圧感。怒気とも、殺気とも取れるそれらすべてが、ウクスに集約されて定まっている。全方向から串刺しにして、ウクスをがんじがらめにする。
精神を絡め取られて、逃れられない。
先程までと状況は一変して、芯護からの威圧に圧倒されたウクスは動けなくなった。どう転んだところで、自分にとっての最悪な結末しか迎えそうになくて進退極まった。
その内に、芯護の方から動き出す。手に掴んでいたもやが光を伴って形を作り始め、中途半端だった発現を再開し始める。
厚さのある壁二枚を跡形もなく吹き飛ばす破壊を行っておきながら、無理な使い方をしたせいで“歪んだ”可能性がありながら、『器』は、問題なく形成を進めていった。
暴走することなく、発現を終えようとしていた。
発現し終えれば、次は果たしてどうなるのか。
考えるまでもない。矛先を『敵』に向けるだけだ。
「あ………ば、【腐蝕】〈バイダ〉!!」
上擦った声で、せめて出鼻を挫こうとウクスが鞭を唸らせる。気持ち半分は気圧されていたが、命の危機に身体が奮い立ったらしい。【腐蝕】の鞭は、ここ一番の威力を以て芯護を狙った。
けれど、ウクスは致命的な間違いを犯した。
自分の発現する『器』の形状が鞭だった為に、肝心なことを見落とした。
ウクスの持つ『器』の名は【腐蝕】。宿った万理は“病魔”。
細胞を破壊し、肉を腐らせることに本領を発揮する『器』だ。決して“打撃の威力を上げる『器』ではない”。
鞭で打つより、病魔の万理によって攻撃した方が得策だった。そのことを失念して、相手に到達するまでに時間のかかる打撃を選んでしまった。
芯護の『器』が完成する前に―――と、気を急いた。そして、
芯護だって、完成を待つ気はさらっさらなかった。
無理に強引に無茶苦茶に、理屈も常識も問答すらもすっ飛ばし、右手の力を振り回した。
振り回される間にも発現は続き、形を整えた。
形状は剣。宿りし万理は×××。
その『器』が律せし“神”は、
冠せられし、真銘は―――。
「切り払え。―――【誠愛】〈ヴィリア〉!!!」
上段から下段へと振り下ろした、なんてことはない袈裟斬りだった。
初めて握った剣を、ただがむしゃらに振るっただけ。子供のちゃんばらごっこよりもお粗末だ。
上から、下に。それだけで、空気は乱れて荒れ狂い、突風を巻き起こして向かい来る鞭をざんばらに切り分けた。
暴風となった一閃は音に乗ってウクスの左耳を掠り、背後の壁を穿った。ウクスには戦慄が走って仰け反り、情けなくもへっぴり腰で転けた。
左手の鞭は、鞭としての機能を失った。蔓の部分はほんのちょっとしか残っておらず、柄だけでは鈍器としても役立たない。
しかし、『器』としてはまだ十全に機能していた。病魔の万理は柄だけの鞭に収まり、力を発現できた。
追い詰められたことで逆に失念していた事柄も思い出して、ウクスは慌てふためいて叫ぶ。今からでも遅くない。芯護の身体を腐らせようと全力を振り絞って、
「腐らせろ、【腐蝕】〈バイダ〉!!」
「浄化して。【純心】〈シャクアス〉」
ギン! と、
足掻きは呆気なく打ち消された。瓦礫から這い出した、依妃奈によって。
骨まで見えていた怪我の治癒を終えて、血の塊がこびりついたままの左手で支えた、聖槍によって。
「て、メエ………ッ!」
またしても邪魔されたウクスは苛立ちを募らせる。相手をいたぶる道具は失っても、憎しみを込めた眼差しを送る。
「あ」
「………」
視界は芯護が立ち塞がって遮った。右手の剣は、ウクスの首に差し向けてある。
ウクスは間抜け面で、必死に喚き散らす。やれたかが冗談だの、やれほんのお遊びだの、やれふざけただけだから見逃してくれだの。耳に障る言葉を並べたくる。
戯言を口走りつつ、隠れたところて床に四散した木片から鋭く尖ったものを探し、芯護が隙を見せたら喉元を抉ってやろうと抜け目ない。
芯護は、そうしたウクスの行動をあまり視野に入れずに、ボーッと佇んでいた。
意識の混濁はなくなったが、今度は頭の中が空っぽで満たされない。何か考えると虚空に消えて、まともに物を考えられない。
ふと、右手にある固い感触を覚えて目の前にかざす。今しがた発現したばかりの、【誠愛】の剣だ。
なんでこんなものを持っているんだ? ―――守りたいと願ったからだ。
頭の中で自問し、自答した。
次に視線を傾けて、軽い口を忙しなく動かしている男に目をやる。教室に現れて自分に、皆に、依妃奈に酷いことをした、ウクスに。
こいつは俺にとってなんだ? ―――“大切な人”を傷つけた、憎い敵だ。
芯護は一つ一つをゆっくり確認していき、途切れがちな意識の中で、状況を断片的に把握していく。
戦う為の武器が手中にある。
倒すべき敵が目の前にいる。
ならば俺はどうしたら良い?
この剣で、俺は何を為せば良い?
「…これ、切れ味良さそうだよな」
「―――!」
ギクリ、と身体を強張らせるウクス。
芯護はそちらにも目をやりつつ、また【誠愛】に視線を戻す。
人を斬ることに使われる、剣。鏡のように自分の顔を反射して見せる刀身を見つめて、
透けた心に黒い火種が、チロリと灯る。
憎い敵を、コロシテ良いか? ―――許しがたい奴だ。コロシテ良いに、
黒い火種は燃え盛って、
―――駄目に、決まってるだろ。
何処からか吹いた、烈風に消されて。
「…」
柄を、強く握りしめた。
「………けど、使ったらお前、死ぬよな」
希望を匂わせる言葉を呟くと、ウクスの目は輝く。反省の色なんて毛ほどもない。芯護は抑揚のないままウクスを見て、続けた。
「斬るのは、勘弁するか…」
その一言で。
ウクスは邪な笑みで応じた。
馬鹿なガキの甘い考えで大馬鹿を見させてやろうと、隠し持った鋭利な木片を突き立てる。一片の情けをくれてやった芯護の急所を、寸分の狂いなく―――、
「代わりに、思いっきりぶん殴ってやる」
「この、馬ァ――――ッッッがペぇ??」
ゴパンッ!! と。
刀身の腹で、腰に捻りを加えて、力一杯にウクスの横っ面をフルスイングした。
手加減のない一撃は改心痛烈、ウクスは白目を剥いて、揉んどり打って教室の隅に転がっていく。床との摩擦ですぐに止まり、ヒクヒクと痙攣するだけで立ち上がっては来なかった。
ウクスが動かないのを、腕を振り切ったままの芯護は眺めた。敵は意識を失った。次はどうする? と、短絡的な思考を紡ぎ合わせて、
急に足から力が抜けて、操る糸を切られた人形のように崩れ落ちた。
「…?」
芯護はキョトンとして、なんで自分が倒れたのかを考える。そしてそれは、すぐさま虚空に消えていった。どころか、意識すら遠のき始めていた。
精神的に、肉体的に限界が来ていたことに気づいていない芯護は、自分の身に何が起こっているのか、これからどうなってしまうのか、この騒ぎはこれでお終いなのか、それとも始まりなのか、考えが目まぐるしく駆け抜けて―――全部消えて無くなった。
芯護の意識も、もたなかった。
最後に駆け抜けていった思考…―――依妃奈や皆は、無事だろうか―――…を、最後にして。
芯護は瞼を閉じて、深い眠りへと沈んでいった。
〈一〉微睡みからの目覚め…了