〈一〉― 16
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
無音の闇に包まれていた。
何かを考えようとする度に、頭の裏側がズキリと痛んで邪魔された。顔もジュクジュクと痛みが貼りついて取れなかった。
暗くて、痛くて、寒さに身も心も凍えた。凍てつく寒さから逃れたくて手足をバタつかせたが、手足はそこにはなかった。
手足どころか、身体もなかった。
闇だ。
ここには闇しかない。俺は闇に溶け込んで同化している。
頭も顔も手も足も何一つない。物足りない。痛みは何処から感じたのか、寒さの意味はなんだったのか、苦しいのは何処のどなただったのか、俺の裏側はどうしたらバタついて溶けるのか。
グルグル回る。
バラバラ散らばる
グチャグチャ乱れて、ガラガラおちる。
おれがあなたできみはわたしでわたくしのおれはぼくのかれであのこのあなたはわれわれのおれだからおれというおれはだれかれどれ?
これというあれのおまえは、いま、なにまで?
ここはあそこのどこからが、なに?
あなたにおれから、ど、う、し、た、ら………?
「毒……めて、…を癒し…―――【純心】〈シャクアス〉」
コォー…ン。
音のない闇色に、綺麗な音色が交わった。
途端に暗闇は、真っ白へと変わった。
白は光になって俺を抱き寄せ、凍った心を溶かしてくれた。
暖かさが戻ってきた。その感覚を感じるくらいには、意識が回復した。
光はちょっと眩しくて、目を開けていられない。閉じたままでいると、白い景色の外で何かが激しく動き、崩れる音が聞こえた。
薄く目を開けてみた。目は光に眩んでよく見えない。
誰か、喋ってる。上手く聞き取れない。
何…?
「ク……! 最っ…ね。…初ア…………と聞……時はゼッッ……イに…………れないと……………、考え……わぁ………。……ら、肉……って『愛』せ…う」
あ、
い。
―――ドクン。
聞こえた単語に、心臓が大きく脈を打った。
心地よい響きだ。長年慣れ親しんだような、不鮮明な感触を覚える。
俺は『愛』を知っている。
『愛した』ことは一度もないのに。
記憶にない。なら、なんでこんなに揺らぐ。
なんで、深々と心に食い込む。
俺が、かつて愛したのは。
好きになった人の、覚えは。
「たすけて………おねがい………」
聞こえた。
その声が。
愛した覚えがないかを、考えて。
真っ先に思い描いた、その人のか細い声が。
光はとっくの昔に消えて。
俺の視界は良くなって。
目に飛び込んできたのは、痛ましくも憐れな彼女。
自分の流した血の赤に彩られた、傷だらけで倒れたえ ひ な 。
ドクン。
また、脈打つ。
心臓が、俺の感情を色濃く反映する。
許せない。
堪らない。
依妃奈のそんな姿、片時だって見ていたくない。
俺は。
俺は………、
――――。
意識を取り戻した芯護は、グラつきながらも立ち上がって前に出た。
ウクスの鞭で脳を揺さぶられ、一時的に悪質な病原菌に冒された影響で頭は混濁し、とても物事の判断が可能な状態ではなかった。荒れて定まらない思考では、今ここで何が起こっているのかも理解出来ないはずだ。
それでも、芯護は目の前で困っている人がいることを理解した。
耳に聞き届けた。助けを呼ぶ、その声を。
他の誰でもない、依妃奈の声を。
―――助けを呼ばれた。だから助ける。
助けたいから、助けるんだ。相手がそれを望んで、自分もそれを望んで。それに何より、
―――助けを呼んだのが依妃奈だから―――。
彼女の呼び声だったから、無性に助けたいと思った。いいや、助けなければならない。何故なのかは知らないが、心はそればかりを叫んで止まない。
心が、
―――助けろ。
身体が、
―――助け出せ。
魂が、
―――助けるんだッ。
芯護自身が―――、
ハ・ヤ・ク!!!
「う…ぐ、ぅ」
芯護の意識が乱れてグラリとよろめいた。
思考がまるで別人のもののように働き、意思を溢れさせて混乱させる。それらをまとめきることは土台無理で、芯護は頭を押さえる。そうしている隙を見せていられる状況ではないのに、自分のことで手一杯で、彼の存在を見失う。
あまりの怒りにはらわたを煮えくり返した、ウクスを。
「あー、あー、あー、あー。なんなんだろなー、オマエ。フラッフラでワタシの前に出てきて、一体何がしたいワケ?」
それはこっちの台詞だと、いつもの芯護なら言い返しただろう。今は暴れる感情に掻き乱されて、ウクスの声すら届いてはいなかったが。
仮に届いていたとしても、返せはしなかった。ウクスが言い終わらない内に振るった鞭が、またしても芯護の顔を強打したのだから。
「……ッッ!?」
「ぁ〜………アアアアアアッッッッッぜぇんだよオ!! テメエ空気読めよな!? 《無垢なる者》を全員が見放したところでボッコボコにのしてやるのが最ッッッ高の終わりかただったろうがそれがわかんねえか!? シラケさせんじゃねえよ!!!」
壁や窓ガラスがビリビリうち震えるほどの大叫声で喚き散らして、激しく芯護を打ちのめす。それだけでは飽きたらず、ウクスは荒々しく歩み寄って倒れかかった芯護の腹を蹴り上げて『宣言』する。
「ごぶ………ッ」
「のたうち回れ、【腐蝕】〈バイダ〉」
「あ゛? があ゛ あ゛あ゛!?」
芯護の脳天に割れそうな痛みが走った。
身体の至るところが変色してドロリと零れる。病魔が細胞を蹂躙していき、激痛と相まって意識がまた断ち切られそうになる。
それを防いだのは、これまでとは違った、焦りの色を含んだ声。
「…―――【純心】〈シャクアス〉!」
キィン! と光が高速で駆け巡り。
蹴られた反動で真後ろに倒れた芯護の傷を、病魔を、瞬時に癒した。そんなことを可能とするのは、一人しかいない。
―――【純心】の『器』を再度発現した、依妃奈だ。自分の傷は後回しで、芯護を蝕む病毒を取り除いた。
そのせいで、ウクスの矛先が逆戻って依妃奈を向いてしまった。
「………ッッ!! どいッつもこいつもォ!! ウゼエことしかしやがらねえよなァ!?」
「うく…」
突くような鋭い一閃が依妃奈を襲い、片手では防ぎきれず、【純心】がまたも手から離れた。
丸腰の上、腰から下が瓦礫に埋まったまま動けない依妃奈を、完全に逆上したウクスが見下ろす。
遊びは終わりだと言わんばかりに、無感情で言葉を綴る。
「もういいわ。いちいち治されてもメンドーだし。テメエから死ね」
無情の一打が振り下ろされる。
依妃奈に回避する術はない。
これから始まり、終わりとなる悲劇を、離れた場所で動けずにいた芯護の目にも入った。
二年前から気になりだした女の子が、依妃奈が、突然現れた男の手によって、ウクスによって、壊される。
その瞬きの間を―――、
ドクン…。
やめろ。手を出すな。
ドクン。
そいつに、もう指一本も触れるな。俺が絶対に許さない。
ドクンッ。
頼むから、俺からその人を奪わないでくれ。もう、これ以上…………、
ドッ……クン。
ワ ガ イ ト シ キ ヒ ト ヲ 、 キ ズ ツ ケ ル ナ ! ! !
「―――」
内側から何かが沸き上がった。芯護の身体から迸った。
右手のひらから強い想いの塊が、霧のようなもやとなって現れた。芯護の想いを投影して、ある形を構成していった。
守りたい意志が、
手にいれたい望みが、
奪いたい欲が、
アイされたいアイが、
形を成して、具現化していった。その最中に、完成を待たずに振るおうとした。
だって、待ちきれなかった。
だって、待ちきれないじゃないか。
だって、
だって、
だって、さあ。
無理だろ。
愛する心は、止められないんだから!!!