〈一〉― 15
「アラ、上の階に人はいなかったのね、残念。ガキ共につぶされるのを期待したのに」
ウクスは伸びた蔓を手元に引き寄せ、巻いて束ねる。視界を悪くさせている埃を手で払い、瓦礫が積み上げられた場所を目で探った。
崩落に巻き込まれた依妃奈はすぐに見つかった。下半身と右手を瓦礫に挟まれ、度合いはあれど軽傷を負って、うつ伏せで倒れ伏している。
敵が近づくのを知らない依妃奈は、くぐもった呻き声を出しながら意識を取り戻す。何が起こったのか、自分はどうなったのか、痛みがアドレナリンで抑えられている内に必要なことを確かめて、下敷きにされていない左手を動かして―――手にしていた聖槍が紛失していることに気づいた。
依妃奈は焦り、辺りを見回す………ことはしなかった。無事である左手に聖槍のイメージを思い浮かべて、“新たに発現しようとする”。キン、と金属音が鳴って『器』の輪郭がうっすらと姿を現し、依妃奈はその名を呼ぼうとして、
手のひらを、ウクスの足で踏まれて集中が途切れた。
「ぅぎ!?」
「【精神】の律神器を使う奴って面倒なのよねぇ。『器』と“心”が直接繋がってるから、好きな時にいつでも何処でも発現出来ちゃう。『器』が遠く離れていても、念じるだけで呼び戻せちゃう」
ほんと厄介、とぼやきながら、ウクスは依妃奈の手を踏みにじる。床に押しつけられた手はゴリリと骨の擦れる音を発して、依妃奈の顔に苦悶が浮かぶ。
痛みに耐える彼女を無視して、それに、とウクスは続けて、
「心持ち一つで馬鹿げたチカラを発揮するしさ。アタシらみたいなザコ律神士じゃ、百年かけても使えないような神の業を。…だ・か・ら」
手が潰れるほどに押しつけていた足を、ほんの少し高く上げて。
「アンタの“純心”、へし折ってあげる♪」
メギィッ!! と、
勢いをつけて足を降ろし、手の甲を踏み砕いた。
「ギ……あああああああ!!?」
「キャハハハハハッ!! なぁに〜? そんな可愛い声で鳴いちゃって! もっとイジメてちょうだいって催促してるみたいじゃない!?」
依妃奈の絶叫にも劣らないウクスの笑い声が響く。人生最良の瞬間を極めているという様子で、手の甲の折れた箇所を、何度も、何度も、踏みつけた。
指の関節も丁寧に狙って踏み外し、捻り、ひたすら潰す。その度に依妃奈は短く叫び、自由な半身を跳ねさせて捩る。
ビクビク震えるその姿にウクスはウットリと恍惚感に浸って、ますます調子を上げていく。
「クヒ! 最っ高ね。最初アナタのこと聞いた時はゼッッッタイに仲良くなれないと思ったけど、考え直すわぁ………今なら、肉片だって愛せそう」
「う……ヒッ!? ぎァ! ガア!?」
手を潰される音と悲鳴が交互に繰り返される。次第にそこは血溜まりが出来上がって、ビチャッ、バシャッ、と水面を叩くのに似た音へと変わり、依妃奈の反応は希薄となる。それではつまらないと、ウクスは【腐蝕】の鞭を掲げてさらに追い打ちをかけた。
「キャハハハハ! キャハ、アハッハハハハハ!」
しなやかな鞭と高笑いが、依妃奈の身体を打ち据える。声を上げることも、ピクリとも動かなくなっても、ウクスにとってはもうどうでもいいらしい。鞭を振る腕が疲れるまで、ボロ雑巾となっていく依妃奈をいたぶり抜く。
拷問の時間はおよそ五分くらいで終わったが、その十数倍もの時が流れたかに思えた。ウクスの腕が止まる頃には、依妃奈は見るも無惨な姿に変わり果てていた。
「可愛くなったわねえ、英雄ちゃん?」
「ぅ、…」
依妃奈はまともに声も出せない。集中して鞭打たれた背中はズタズタに裂けて血に塗れ、あちらこちらに赤い飛沫が斑に散っている。
弱々しく、うっすらと目を開けた依妃奈が首を上げれば、英雄を好き勝手になぶったことでご満悦なウクスが懲りずに腕を振りかざしているところだ。一思いに息の根を止めようとはしないで、出来る限りの痛みと苦しみを味わわせてやろうと鞭を振り下ろしていた。
それを止めたのは、ウクスの視界に不愉快なものが写り込んだからだ。
「ア? 何だよ、そいつは」
「…」
周囲でずっと震えていた生徒逹の何人かが、すくむ足腰に活を入れて立ち上がっていた。手に各々、机や椅子の千切れた足や、拳大の石くずを持って、情けない顔をしながらもウクスと対峙した。
怪我を治してくれた。助けに来てくれた。そんな優しい人が自分逹の代わりに苦しんでいるのに、何もしないで見てはいられなかったのだ。
そんな彼らを、ウクスは鼻で笑った。
「あー……勇気が湧いたから立ち向かおうって? まるで蛆が涌いたみたい」
どれだけ束になろうと敵いはしないと、無力な生徒逹の反抗を馬鹿にする。そして、なけなしの勇気を振り絞った彼らに“面白い”選択肢をくれてやった。
「じゃあ選ばせたげる。誰か一人でも良いから『身代わり』になるっていうなら、親愛なる《無垢なる者》(えいゆう)様を愛でるのを止めてあげるわ。たーだーし、身代わりになった奴はその何十倍も痛めつけて腐らすから。さ……選びなさいよ」
言葉の締め括りに、鞭を瓦礫に跳ねさせる。鞭に触れた瓦礫は途端に腐り、衝撃で粉微塵に弾けた。
ウクスの脅しはよく効いた。立ち上がった生徒逹は、弾け飛んだ瓦礫に自分の末路を重ねて怖じ気づき、後ずさってしまう。
それでも、退かない生徒はいた。小刻みに震えていながら、手に持った武器とも言えない武器を離さないで、ウクスに挑む眼差しを向けた。全員がこれで黙るだろうと期待していたウクスは裏切られて、
「…………けて」
誰も予想していなかった声が聴こえた。
掠れた、小さな声が。弱りきった、英雄の声が。
依妃奈が、その言葉を口にした。
「たすけて………おねがい………」
タスケテ、オネガイ。
今のやりとりを聞いて、助けを求めた。
生徒の一人を身代わりに―――犠牲に、して。
私を、助けて下さい?
―――ブふ?! と、堪らずウクスが吹き出した。
「アハハハハハハ!! ちょっと聞いたぁ? 命乞いしたわよ、命乞い! こんなのが“英雄”だなんて笑わせるわよ! アハハハハ!」
依妃奈の取った行動がツボに入って、一人だけ大笑いする。生徒はそれよりも動揺して、尚且つ失望した。
最後まで弱音を吐かないと思っていたその人の命乞いは信じがたく、生徒の多くは彼女から目を逸らしたり、あからさまに毒づいたりする。彼女の為に立ち上がった生徒も、手にしていた物を落として膝をついた。助けたい気持ちはまだあるのに、見たくないものを見せつけられて、心が挫けてしまった。
最後の一人まで依妃奈を見放したのを受けて、ウクスの喜びは頂点に達する。
「あ〜ら、残念ねえ。みんな愛想尽かしちゃったわ。ま、当然でしょうけど。全員助けるとか言っといて、自分が助けて、とか!」
依妃奈を詰るように喋り、それからまた笑い出して。
…高らかに笑うウクスを止められる者は、いない。
止めに来たはずの依妃奈は潰れてしまい、生徒逹は勿論、そんなことは出来ない。
いつもの日常は狂い、教室という隔離された世界は狂い、男の狂った笑い声は止むことなく―――、
「…ああ?」
唐突に止んだ。
止められるはずのない、笑い声が。
ふらりと立ち上がり、依妃奈とウクスの境となるように立った生徒が。
―――芯護が、ボヤけた目でウクスを睨み、依妃奈を背にして立ちはだかった。