〈一〉― 14
教室は無惨な有り様になっていた。
机や椅子は半壊して端に追いやられ、生徒の大多数も軽重傷を負って壁際に寄り添い、カタカタ震えている。
全員、怯えていた。
年の低い生徒は泣きじゃくり、十代半ばまである生徒も鳴咽を洩らしている。それを聞かれて注意を引くのが恐ろしくて、必死に息を殺している。
教室中央には、恐怖と悲痛が充満する中で平静を失っていない男がいた。
鼻歌を口ずさんでいる男は、気を失っているボサボサ頭の生徒の上に腰掛けて寛いでいる。生徒はピクリとも動かず、されるがままに尻に敷かれている。
生徒は、男が手で弄んでいる鞭で昏倒させられた。意識は一瞬で刈り取られ、鞭を叩きつけられた箇所―――左目から頬にかけて“腐り始めていた”。
他にも数名の生徒が男を囲む形で倒れて、身体の至るところを腐らせている。皮膚が剥がれ落ちる言い様のない感覚と痛みに苛まれて苦しむ。
苦痛を与えた張本人は嬉々としてそれらを眺め、そして教室入り口に向いて、数分前まで整然としていた教室の面影も残らない空間を目の当たりにする、黒髪の女子生徒に声をかけた。
「あら、早かったじゃない。もー少し時間がかかると読んでたのに、頑張ったわねー………《無垢なる者》さん?」
「…」
そこにいたのは依妃奈だった。
息を切らして、頬を紅潮させた彼女は、大急ぎで此処へ来たことを窺わせる。隅で震えていた生徒達は依妃奈の姿を見て驚き、すぐに思考は一つに絞られて一杯になった。
―――《無垢なる者》が来た。戦争を終わらせた英雄が来てくれた。
自分達は、助かった―――と。
皆が希望の眼差しを送り、事の成り行きを見守った。
依妃奈は教室内の様子を確認して、惨状を築いた男にきつめの視線をくれる。睨まれた男は何処吹く風で受け流し、腰を上げて依妃奈と向き合う。
容姿に合わせた女口調で、
「遅れてきてくれても良かったのよ? アナタが来るまで“コレ”で遊んでたから」
足元に転がる生徒を蹴った。ゴミか何かを見るような目で、ぞんざいに扱う。
依妃奈の目が僅かに細り、男は軽い調子で、どーでも良いけど、と強く蹴り飛ばして、
「さてと。自己紹介をしましょうか。礼儀って大切だものね。まずワタシから、ウクスって言うの―――…」
聞く耳を持たず。
依妃奈は男の懐へ飛び込んだ。
何処から取り出したのか、身の丈より短い聖槍を両手に握り。
大きく振りかぶって、斜め横に薙いだ。
ウクスと名乗った男は、機敏に跳び下がってそれをかわし、口から文句を垂れる。
「…なってないわね。話くらい最後まで聞きなさいよ。初対面なのに挨拶も無しって、ご立派な教育受けてんのね〜」
「…」
不意打たれても調子は崩さないウクスに、依妃奈は相手にしなかった。手にした聖槍を逆手に持ち換え、切っ先を床に突き刺して意識を聖槍に集中させる
小さく、しっかりと囁く。
「毒を清めて、傷を癒して―――【純心】〈シャクアス〉」
コォー…ン、という高い音色が、淡い暖色系の光と共に拡がった。
光は教室中を満たして生徒達を包み込んで身体に浸透していく。するとたちまちに痛ましい傷が癒されていった。
腐っていた皮膚は弾けて、新たな皮膚が造られて痕も残らない。擦り傷や打撲もみるみる内に消えていく。
【純心】の輝きが、皆の心に温もりを取り戻させる。
一方のウクスは、依妃奈の行為を面白くない顔で見ていた。
「ふーん。まずは自己紹介より人命救助、ね。いやーん、《無垢なる者》様ったらやっさし〜」
人を小馬鹿にした態度には、隠しきれない苛立ちが混ざっていた。さながら、せっかく手に入れた玩具を取り上げられた子供だ。所持した鞭を床にピシャッと打ちつけて怒りをあらわに、前方にいる依妃奈を狙う。
その前に、
「ウクスさん、でしたね。『器』を手離して、降参してくれませんか?」
「ァン?」
依妃奈が口を開いて機先を制した。
何を言い出すんだ、コイツ? と表情で表すウクスに、依妃奈は繰り返し言う。
「私がこの場にいる限り、他の人達に手出しさせません。貴方がどんな目的があって暴力を振るうのか判りません。けれど、どんな理由があっても皆を傷つけるのは許せません」
真摯な目でそう訴える。混じりっけのない、穢れのない言葉で。
迷いなく、敵に情けをかける。
「お願いします。武器を捨てて、投降して下さい」
「…………プッ」
返って来たのは、吹き出した音。
ウクスは直後に笑い、依妃奈の意を介した。
「ハハハッ! くっふ……、話してた通りねえ。なんて優しいのかしら。皆を傷つけるのは許せないから、投降しろ? それって、自分が必ず勝つから、ワタシと争いたくもないから、穏便に済ませましょうってこと!? アッハハ!」
何がそんなに面白いのか、ウクスは腹を抱えて笑い通す。周囲で恐々と眺めていた生徒達も眉根を寄せる。
依妃奈は、緊張を解かずに聖槍を持つ手に力を入れた。
肌にひしひしと伝わる。彼が殺意を募らせていることを、気取ったから。
「っとに、良いわねえ、必要とされてる人間って奴は。綺麗事しかのたまえないんだからさぁぁぁ………ッ」
天井を見上げて笑っていたウクスは、呻くような低い声で言うと、
見上げたまま、ギョロッと目だけを向けて依妃奈を睨んだ。血走った、狂気の眼で。
「良い子ちゃんぶッッてンじゃねえよォッ!! ぶちのめせぇ! 【腐蝕】〈バイダ〉!!」
怒号と同時にウクスの鞭が唸った。
【腐蝕】の名を持つ律神器、宿された万理は“病魔”。細胞を壊死させる病原菌を生み、自在に操る狂鞭。
発現者の意思を体現して蛇のようにのた打ち、複雑な軌道を描きながら依妃奈に差し迫る。襲いかかられることを事前に察していた依妃奈はこれを聖槍の柄で受けて、角度を微妙に調節して鞭を後ろに弾き、和解は不可能と悟ってウクスめがけて走り出す。
初撃を外されたウクスはチッと舌打つ。一投目で仕掛けていた“小細工”は効果を現さなかった。それならと、腕を後ろに引いて伸びきった鞭の蔓を戻す。
荒れ狂った鞭の尖端が、今度は背後から依妃奈を狙い打つ。それを察して振り返った依妃奈が防ぐと、鞭は高く跳ね上がって天井を叩いた。
準備は整い、ウクスは楽しげに叫ぶ。
「もう一発イクわよ!」
先程と変わらない攻撃が繰り出される。依妃奈は走りながら弾く為に聖槍を構え、その様子を見たウクスの口元には笑みが広がった。―――獲物が、罠に掛かった。
「知らないのぉ? ………腐るのは、肉だけじゃあないんだよ」
瞬間。
“腐った天井が抜けて、依妃奈の頭上に崩落してきた”。
「!」
「ホーラ、こっちがお留守ゥ!!」
直上の危険へ迅速に対応しようと動いた依妃奈を、さらに毒牙が襲う。速度のある鞭が先に届き、依妃奈は紙一重でかわしたが、上から降り注ぐ瓦礫を回避する余裕を失ってしまう。
聖槍をかざしても盾にはならず、為す術の無い依妃奈の姿は、瓦礫と砂埃に埋もれて見えなくなった。