〈一〉― 13
少女は、誰よりも早く異変を察知した。
もっとも早く、それでいて、遅すぎた。
どれほど急いだとしても間に合わない。事は確実に起こってしまう。
そうだとしても。
最悪の事態だけは避けなくてはいけない。そうしなければならない。
だから、少女は言いつけを破った。
隠しておきなさいと言われた、教師との約を破り捨てて。
少女は、連日続く悪天候の只中へ飛び出した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
丹波が授業を放棄した。
…ではなくて。
今日も“また”補習なのだと、代理で来た特待生の誰かが説明した。クラスの大半は授業が潰れたことに喜び、丹波が来ないのは何でかを知りたがった。
丹波は授業を空けることが多い。これまでにも週に一回は休んで姿を消し、近頃はその回数を頻繁に増やしている。どうも外界に赴いているらしいことが生徒の調べで判ったのだが、外界で何をしているのかまでは調べようがなくて、こういう時は決まって芯護が事情を聞かれる。
聞かれても芯護は困ってしまう。芯護と丹波は、口調や性格が似通った為に本当の親子のように見えるから誤解されがちだが、二人は普段からそんなに顔を合わせていない。住む部屋は芯護が『秩序の学舎』に入校した時別々になっているし、お互いに会いに行くことがないのだ。二人の仲が悪い、のではなくて、校舎内でも鉢合わせる機会があるから、いつでも会えるから必要性に駆られない、それだけのことだ。
それに、芯護は丹波が外界で何をしていようと気にはしなかった。あの丹波が人に言えないような、悪事に手を染めるようなことをするとは思えないからだ。
「…だから、俺も知らないって言ってるだろ。本人に聞けよ」
「だって教えてくれないし……」
「なら諦めろ。ほら、帰った」
補習とはいえ、授業中に自分の席を離れて群がるクラスメイト達に囲まれた芯護は呆れ、煩わしそうにあしらう。本来なら特待生が諌めてくれるべきところなのだが、教卓を前に立つ特待生女子はやる気ゼロで、私は関わりありません、と傍観を決め込んでいてまるで役に立たない。
仕方ないので質問責めを知らぬ存ぜぬで堪えていると、皆は不満げな様子だったが、諦めて席に戻っていった。それらを見届けた芯護は、だるそうに身体を机に預けた。
今日の芯護は調子が上がらない。というのも、いつもなら嫌っていうほど寄ってきて騒ぐ三人がいないからだ。
バーノットは数日前の玉砕から立ち直れず自室に籠っているから良いとして、レンザとトオルは何処へ行ったのやら。罰則でトイレを掃除している時ですらからかいに来ていたのに(それでいて手伝いは頑として受け付けないのだから友情とは素晴らしい)、二人してサボりだろうか。それなら芯護を誘いそうなものだが…?
芯護は隣に離れて座っている、レンザと良く話をしている二才年下の男子に聞いてみるが、
「さあ、風邪でも引いたんじゃないの? 流行ってるでしょ」
確かに“性質の悪い流行り病が蔓延していて、病原菌が広がらないよう患者を診療塔に閉じ込めている”らしいが。
残念ながら、それには当てはまらない。
「違う、朝は食堂に来てた。他に心当たりないか?」
「うーん……ごめん、判んない」
大した収穫は獲られなかった。
男子生徒に軽く礼を言った芯護は、胸にもやもやしたものがあるのを感じる。
別にあいつらがいなくても気にすることはない。何処で何をしていようと自分の知るところではなし、いつもうるさくてやかましくて面倒にしかならないのだから、むしろいないのは丁度良い。…はずなのだが。
いざいなくなってみると物足りなさを感じてくる。居て当たり前が居ないと、調子が狂うというか。
あれ。俺、寂しいと思ってる?
「………どれでも良いから、次に顔見せた奴を殴っとこう」
認めたくなくて不穏なことを口走ったら、隣の男子生徒に聴こえてぶるっと身体を震わせた。そちらに危害を加えようとは思っていないのに何故ビビる? と芯護は謎に思い、
バン! と、勢い良く扉が開かれて驚いた。
「な……なんだ?」
芯護も、やる気のない特待生も、教室にいる全員が、一体何事かと首を向ければ。
「芯、護………」
「…レンザ?」
扉を開けたのはレンザだった。
現れた顔が馴染みのものだったことで、芯護の逆立った神経はすぐ平坦に戻る。周りも、なんだレンザか脅かすな、と落ち着きを取り戻して―――、
「しし………芯護ォ!!」
「うわ!? 何だよ?」
一人だけ取り乱したレンザが、猛烈に走り寄ってきて芯護に掴み掛かってきた。芯護はつい反射的に拳を握り、思わず反撃しかけてしまう。殴る予定もあったことだし、止めなくて良いかな、なんて面倒くさがり、
レンザの顔を見て、かろうじて手を出すのを止めた。
殴れる訳がない。こんな顔を見せられたら、誰でも殴る気は失せる。
―――蒼白だった。
ふざけているのではない。芝居をしているのでもない。レンザの顔は血の気が失せて、恐ろしげに筋肉を引き吊らせている。
今まで見たことのない友人の顔色から、芯護はただならない気配を感じ取って問い詰める。
「どうした? 何があった!?」
「と、トオル……が、あの、あ、あいつ………」
「落ち着けって! トオルがどうした?」
レンザは気が動転していて、上手く呂律が回らない。それでも何かを伝えようと言葉を絞り出そうとする。周囲も尋常でないレンザの様子に緊迫して、固唾を呑んで目を見張る。
「トオル………支度するって、自分…部屋、に、……遅く。て、呼び、行った……た、たら」
「行ったら?」
「ぅあ、あ…、アイ、ツゥ……」
「お、おい。しっかりしろって!」
ここまできて、レンザは喉に詰まらせた。
頭を抱えてしゃがみそうになるレンザ。肝心なところで黙られては芯護もどうしようもなく、先を促そうとレンザの肩に手を置いて揺らす。
―――続きが気になる。レンザの言い方からして、トオルの身に何か良からぬことが起こったらしい。急を要することなのか。まさか、命に関わるなんてことはないよな。
こんなことは初めてだ。『秩序の学舎』は安全を確保された施設。数少なくとも『律神士』が擁護するこの島で、怪我や病気で寝込むことはあっても、命を脅かされることはない。ある筈がない。
レンザが話すのを待ちきれなくて、芯護は顔を上げる。話から推察するに、問題のトオルは自室にいるらしい。現場へ行って、この目で直接確かめた方が早そうだ。それなら善は急げと、前に屈んだレンザを通り越した、開け放されたままの扉に視線を移した。そして、
二人目が現れた。
見たこのない人だった。スラリとした長身で一見華奢にしか見えない、厚化粧を施した人物。性別は化粧で判りづらいが、男臭さを消せていない。どうみても男性だ。女を下手に演じている男が、薄ら笑いを浮かべながらごく自然に入ってきた。
芯護は怪訝な顔でその男を眺めて、即座に違和感を覚えた。―――“誰も気づいていない”。
男が教室に入ってきたと知覚したのは、芯護だけだ。目立つ風貌、しかも見慣れない男が姿を見せたら、一人くらいは注目しても良さそうなものなのに、他はレンザに集中して見向きもしない。
次から次へとやってくる出来事に頭がこんがらがる芯護を余所に、厚化粧の男は不気味な笑みをそのままで、左手に持った何かの束を離して床に落とした。
それは折り畳まれていた紺色の鞭。柄の部分は指で挟んだままで、革製の蔓だけを広げる。
鞭それ自体は初めて見る芯護は、男の行動の意図が読めなくて困惑する。ただ、男は芯護の方を向いて笑う。
こいつは何者だ?
なんで誰にも気づかれない?
俺を見つめて、何を…、
「トオルが………ッ」
レンザの声を聞いて、芯護はハッとする。
男は芯護を見ていない。芯護の前で訴える、レンザに焦点を定めている。
獲物を狙う眼で、ニタ〜っと笑みを広げて、ブン! と腕を振る。
毒々しい一言を添えて―――、
「暴れろ、【腐蝕】〈バイダ〉」
「―――ッ、避けろ!!」
叫びながら、芯護はレンザの肩に置いた手で掴み、真横に飛ぼうとした。
咄嗟の判断。鞭の動きは素早く、けれど迅速に動いたお陰でギリギリかわせる。
―――かわされた鞭の行く先に、二歳年下の男子生徒がいたことを、思い出す―――。
「ッッッ」
レンザを突き飛ばして、身体を無理矢理捩じ込んだ。
男子生徒は芯護の行動をポカンと見つめている。
芯護にしか見えていない男は、芯護が反応したことに多少驚き。
放たれた鞭は、芯護の顔をしたたかに打ちのめして。
芯護の意識は、暗転した。