〈一〉― 12
「………応急処置、終わりました」
長く息を吐いて、【豊穣】の手袋を外しながらミーシャは顔を上げた。
診療塔の一階、人が裕に百は入れる一室。窓から見える空は暗雲が立ち込めて雨足が近い。部屋も大分暗くなり、天井に吊るされたいくつかの灯籠には火が灯されている。
嫌な天気だ、とミーシャは思う。太陽を遮る黒い雲が、光と一緒に幸福な気分も奪っている気がする。錯覚に過ぎないが、目の前の光景と合わせてみると、より一層思い込んでしまう。
落ち沈んだ気持ちでいるミーシャの隣では、アイン・セイレが引き継いで働いている。手を動かすのを止めず、作業をしたままミーシャに話しかける。
「ご苦労様ね。貴女がいてくれて助かるわ」
「あ、手伝います。…私は、そんなに役に立てていません。進行をなるべく遅らせるだけで精一杯で」
それでも充分よ、とセイレは諭して励ましてくれたが、ミーシャは楽観的に取れなかった。
状況は刻一刻と悪くなっている。
早く手を打たなければならないのに、有効な手を打つことが出来ない。これ以上の悪化を遅らせることは出来ても、防ぐことが出来ない。では、喜べる筈もない。
もどかしさが増す一方だ。
二人の前には、縦六つ、横十二で並べられた寝台がある。そのほとんどに、手当てを受けた生徒達が寝かされている。
生徒達は全身の至るところに、あるいは全身に包帯を巻かれていて、気持ちの悪い膿らしき汁を滲ませている。全員、アイン・セイレの律神器で眠らされているが、時々苦しげにうなされる。
……ここ最近、一部の生徒達が発症し出した奇妙な病だ。原因も治療法も見つからず、治すことに関しては一目置かれているミーシャでも、遅延が限界の難病。
空気中から感染する病気ではなく、しかしある懸念によって一般の生徒には情報を伏せ、病人達をこの場へ隔離している。
その懸念とは。
セイレは、治療を終えて寝台から体を離し、陰惨めいた室内を見て固い表情を作る。
「……被害は広まるばかりね。貴女にも苦労を掛けるわ」
「いいえ、私なら全然。それよりも先生、やっぱりこれ…」
直に手を施したミーシャはそれとなく察して、セイレも診察を重ねる内に疑惑を確信へ変えていた。
ここにいる生徒達は、単なる流行り病に冒されたのではない。通常の病気なら、ミーシャの【豊穣】で充分対処出来る。
律神器の力を以てしても治療出来ない奇病。その原因となりえるのは、必然的に数も限られてくる。即ち、
「―――律神器でしょうね。それも恐らくは『禁器』(きんき)。有する万理は“病魔”の一種でしょうけれど、『秩序の学舎』保管庫のものではないわね」
元凶は律神器、そして『秩序の学舎』が所有する『器』ではない。それはつまり、“外部の何者かが島に侵入した”ことを意味する。
有り得ないことだ。
島を取り囲む『中逢海』は、“ある理由”で航海が不可能とされている。島と外界を結ぶ唯一の道は『秩序の学舎』教師が管理する『転送器』のみ。部外者は勿論これを使えず、ではどうやって侵入してきたのか。
不可解なのはそれだけではない。
「これだけ事を起こしておきながら、痕跡を残さずやり仰せているなんて、ね。律神器を発現すれば、なにがしか力の波動を放つものだけれど……気配もなにも感じないなんて不自然過ぎるわ」
奇病を発症した生徒は全員、発見された時すでに意識はなく、誰も襲われた現場を見ていない。犯人の行方は知れず、校舎、島内を隅々まで捜索したが、手掛かりは一つも得られない。
犯人を捕らえる手段がない、これは大問題だ。増え続ける被害に歯止めを掛けられないということなのだから。
「セイレ先生…」
深刻な顔で俯くセイレに、ミーシャもなんと返せば良いのか判らない。
島の外から誰かが入ってきたことはこれまでになかった。犯行を悟らせず、悪意を持って『秩序の学舎』の生徒を攻撃されたことも。
目的、手段、動機………どれも皆不明瞭で、出来ることと言えば、被害が出てから早急にままならない治療を施し、急場を凌ぐことくらいか。
犯人の動向が掴めない今、どうしても後手に回らざるを得ない。こちらから先手を打てれば、事態を好転させられもするが…。
そこまで思案を巡らせて、ミーシャはふと重要なことを伝え忘れていたのを思い出した。好転させられるかは判らないが、闇に紛れる侵入者を見つけ出す方法を。
そのことを話すと、セイレの表情にも明るさが戻った。
「先生、話しそびれていたんですけど、クルミアがもしかしたら【透視】を発現出来るかも知れないと言っていました」
「【透視】を? それは朗報ね。長年発現者が現れなくてやきもきしていたの。なるべく急いで貰えるよう頼んでおいてくれるかしら」
「はい!」
ほんの僅かにだが、先行きの不安が払われた。自分の力が及ばないのは依然として歯痒いが、ミーシャは良しとしておく。頼みの綱であるクルミアが間に合うまで、自分も出来ることをしなければ。
自分に、出来ることを。
「…、」
「ミーシャ、包帯の取り替えは私がするから、貴女は教室に戻りなさい。連がまた授業を空けると言い出して聞かなかったから、代理で監督して欲しいのだけれど………ミーシャ?」
返事が来ないことを不審に思い、セイレは視線を寄越す。ミーシャは気まずそうな、思い悩んだ様子で手を組んでいる。
こんなことは前にもあった。ミーシャが特待生に上がってから幾度も繰り返されたこと。この頃はめっきりして来なかったので諦めたと思っていたが、そうはいかなかったらしい。
セイレは、大体の予想を頭に浮かべながらミーシャへ訊ねる
「どうしたの?」
「セイレ先生………校舎内と島の見回り、なんですけれど…」
ああ、やはり。
セイレの予想は的中した。
何度も話し合って、何度も駄目なものは駄目だと言った。それでも意思を曲げられなかったか。
悪いことではない。いや良いことだ。ミーシャのそういうところをセイレは高く評価しているし、反対するほどのことはない。
でも、セイレの返答は前回と変わらなかった。
「貴女の気持ちも、特待生の気持ちも、とてもありがたいわ。でも貴女達はまだ子供。“外界”でのことも、ブロイツから聞いています。辛いでしょうが」
答えはノー。
セイレが言い終わる前にミーシャも予想をつけていて、すぐさますいませんと頭を下げて部屋を後にする。騒がしくないような小走りで扉まで向かい、くぐって、静かに閉めた。
部屋に残ったセイレは、ミーシャに対しての感謝と申し訳なさで一杯になる。寝込む生徒達の包帯を代える為手早く取り掛かり、
部屋を出ていく後ろ姿を脳裏に浮かべて、小さく呟いた。
「後五年………最低でも五年は待って。それまでには…」
――――、
それから一週間。
裏で何かが蠢き、そんなことは露知らない芯護は平穏な毎日を過ごした。
耳に寄ることといえば、校庭での一件でディスケルグ“も”罰を受けることになり男子生徒らが歓喜に湧いたとか、バーノットが特待生クルミアに玉砕覚悟で突っ込み儚く散ったとか。
芯護自身は、アイン・セイレとグレアムの罰に勤しみながら、授業共々適当にサボり。
ハロル・パフェッドの授業に見た夢は、しばしばからかわれることもあったので忘れることはなかったが、内容の方は自分が英雄になった、程度しか思い出せなくなった。
あの夢から、一週間と一日が過ぎた。
今日も変わらぬ一日が始まる。そう誰もが思っていた、その日の午前中。
変わらぬ日常に変化が訪れる。
保たれていた平穏が、音を立てて崩れていく。
芯護を取り巻く世界が移り変わる。その兆しが現れて、
―――芯護の覚醒めの“刻”が、やって来る。
〈一〉― 12