8 月冴ゆる
「失礼する」
言葉と同時に魔導士隊の隊幕を開け足を踏み入れた参謀長は、漆黒の瞳を瞬いてしまった、という表情をした。あわててくるりと後ろ向きになる。
まさか魔王を総力で封じている最中に、陣営の中で女魔導士が半裸で月浴びをしているとは思いもしなかったのだろう。
「大変失礼した。残りの聖水を運んできてほしいと、頼まれたものだから」
他の魔導士は結界のそばに出払っている。魔導士隊の幕内に入れる人間は限られるため、参謀長自ら足を運んだのだろう。
「いいえ、こちらこそお見苦しいものを」
「傷は、悪いのか」
遠慮がちに黒髪の参謀長は尋ねる。セラが月浴びを要した理由は、一瞥して分かったようだった。むき出しの背中の火傷の傷を月光に癒してもらいながら、セラは答える。
「まだ魔導士として戦うくらいの魔力は残っていますわ。あの時は、指示に従わず、すみませんでした」
「いや、……あなた以外の人間が奴に切りかかっていたら死んでいた。私の判断ミスだ」
言葉少なに立ち去ろうとした黒ずくめの男を、思わずセラは呼び止める。
「アラン様、少し……お話してくださいます」
参謀長は戸惑ったように足を止めた。
「お聞きしたいことがございますの」
セラの声にいつものからかうような響きが全くないことに気づき、参謀長は背を向けたまま軽くうなずく。
「何なりと」
「アラン様はお辛くありませんの」
予想外の問いかけだったのか、黒い背中が微かに強張る。
「私どもには、耐えられませんわ。これだけの人が……自分の大事な部下が、いなくなること。あのマシューでさえ、弟子が一人死んだだけで、暴走して魔王を起こしてしまうのですもの」
「……そうだな、私の数秒の判断の遅れで何十人という人間が死んでいく。この4年、いつも真っ暗な水の中で溺れているようだ」
覚悟していたが、参謀長の声は重く沈んでいた。
「王都にお帰りになりたくありませんの。その方法、わたくし、存じておりますのよ」
セラはついに口にした。この人、このままじゃああまりにもあまりにもかわいそうだ。
「……多分、あなたのおっしゃるのはこの胸元の紙のことだろうな」
やはり、気づいていた。セラにはわからない。
「そう、その護符をお身から離しさえすれば、普通の……人間の体になれますのよ。そうすれば、あのかわいらしい方の近くに戻れますのに」
恋人からもらったお守りは、それは大事だろう。でも、それを手放せば苦しい運命から逃れられ、恋人のもとに帰れるのなら、どうして迷う必要があるだろう。
この人なら、死なない程度に怪我をするくらい、造作もないだろう。なんなら、手伝ってあげてもいい。
「そうだな」
返ってきたつぶやきは、予想に反して明るいものだった。
「でもこれは、僕が10年ねだってもらったものだから」
「ねだる?」
抑制の塊のような参謀長から、あまりに予想外な言葉が飛び出して、セラは戸惑う。
「見てくれるかい?この花文字の、はらいの前の絶妙なため……」
まったく無造作に胸元の紙を開いて目の前に突き出され、ぶわっと広がるピンクのふわふわにくらりとなる。
「参謀長、あの」
「この一文字一文字の大小の絶妙なバランス。筋が通っていながら伸びやかな筆運び……」
むっちゃ早口だし。参謀長の瞳にはもうセラの姿は全く映っていない。熱病に浮かされたようなそれに、セラは先王を見つめる女官たちの眼を思い出す。これは、いわゆる、あれだ。この人、筋金入りの文字フェチなのだ。この護符の文字は、彼のどストライクなのだろう。
「よく分かりましたわ」
目の前でピンクを振りまく紙を無理矢理に折りたたみ、参謀長の胸元へ押し返す。
我に返った参謀長は、私は何を、とか、申し訳ない理性が、とかごにゃごにゃ言っている。
この人はまだしばらく大丈夫そうだ、セラは抑えきれずに噴き出しながら得心する。
やってしまった。皆が腫れ物に触るようにエダのお守りの話題を避けるので、すっかり油断していたが、銀の髪の魔導士殿が久しぶりに話題にしてくれたので、ついうれしくてしゃべりすぎてしまった。アランは髪をかきむしりたくなる。
しかしエダの護符を押し返した魔導士殿の様子はおかしかった。正確に言えば、その周辺が。
「セラ殿、その、……大事ないですか」
銀の髪の絶世の美女の周りを、色とりどりの光がぐるぐると飛び回っている。
「あの人の、好きなもの……」
魔導士殿は心ここにあらずでつぶやいている。
『春夏秋冬、シュナはどれが一番好き?』
私の何気ない問いに、ほんの一瞬の間ののちに美しい声が答える。
『どの季節も美しいな』
そのまま遠い避暑地の四季の移ろいの話題となり、私はほんの少し不満を覚える。
食べ物、花の色、楽師の歌。あの人は、これが好きだと言ったことは一度もなかった。人の上に立つ者は、好き嫌いを基準に物を判断してはいけない。臣下からの進言は、それを誰に言われたかではなく、何を言われたかのみを基準に考えなければならない。
生まれた時からあの人は、自分が笑えば皆が喜び、眉を顰めれば皆が胸を痛める、そんな世界で生きてい た。ふと手に取った花が美しいといえば、他の花はすべて刈られてその花で埋め尽くされてしまう、そんな世界で生きていた。
かわいそうな人。とびぬけて美しく賢く生まれてしまったがゆえに、生身の人が神様みたいにされてしまった。愚かな好き嫌いを口にすることは決してかなわず、何もかも一人で決めて、決して間違えることはできなかった。
気づかないふりをしていた。彼は完璧な王のはずだったから。彼の顔色はどんどん青白く、声は弱弱しくなっていたのに。誰もが認めることはできなかった。
馬鹿な人。疲れたから一時気晴らしがしたい、そうねだればよかったのに。風の精の美しい歌声を聞かせて、花の精の秘密の花園をのぞかせて、私はあなたを慰めてあげることができたのに。
あなたが私を欲しいと言えば、何を失っても私はあなたのものになったのに。
何にも欲しがらず我慢ばかりして、疲れ果てて、突然遠くへ行ってしまった。
「あなたは、望んで、死んだのね」
銀の魔導士の周りの色の渦は、もうアランの視界を埋め尽くすほどになっている。
「馬鹿な人。馬鹿な私。あの人を殺すことなんて、精霊にも何にもできはしないのに」
セラは力なくつぶやく。月の精霊の力が弱まる月蝕の夜、あの人は封印された自分の力に気づいたのだろう。そして、皆既月食の瞬間、自分の望みを実行した。私の叫びは、彼の魂を引き留められはしなかった。
「アラン様」「は、はい」
色とりどりの渦と意味深な独り言を呆然と眺めていた参謀長は、突然かかった声にびくりとする。
「ありがとう」「はあ」
参謀長は眼を白黒させている。王宮で目にしていた彼の鉄面皮など形無しだ。
私は本当に世間知らずだった、セラはため息をつく。どんなに冷静沈着で、正確無比の判断力を誇るといわれる人でも、日々悩み惑いながら進むただの人間なのだ。私はそれに、この4年の彼との日々で初めて気づいた。神様といわれたあの人も、きっと、ただの迷い苦しむ人間だった。
「あの人にも、あなたのその方のような人がいたら、良かったのにね」
『セラの目隠しが外れたよー』
『わーいわーい』
彼女の周りの光の渦は、徐々にたくさんの小さな人型を取り始める。キラキラした色とりどりのそれは、くるくる回ったりあちこち飛び回ったり、忙しく動き回る。ほとんどの小さな精霊はセラの頬にキスをしようと殺到しているが、時々なぜかアランの頬にもキスがかすめる。花、風、水、光…無数の形の精霊たちが、視界いっぱいに飛び回る。
「やめてくれ。……これは、管轄外だ。俺は、見えない体質のはずだ!」
明らかに人外のそれに、アラン参謀長の顔は引きつっている。
「みんな……ごめんね、ありがとう」
銀髪の風の半精は、静かに涙を流している。その頬を、無数の精霊のキスが撫で続ける。そう、いつだって精霊たちは彼女の味方だった。生まれた時からいつだって、彼女を祝福してくれていた。
「愚かな思い込みで拒絶したのは、私のほうだった……」
天空からは、あの日と同じ、優しい月の光が降り注いでいる。