セラと月の王
どこかの国には、中秋の名月、という言葉があるらしい。
温かくどこか重たい9月の月光は、一年通してもまれなほど素晴らしい。
セラは背中に受ける優しい癒しの力に陶然とする。
ふいに、背中の重みが増した気がして、身じろぎをした。
「動かないで」
耳元でささやく優しい声に、心臓が跳ね上がる。
(まさか、嘘だ、嘘だ――)
頭が真っ白になる。でも、この声は。
「そら、治った。触ってごらん」
背中がふいに軽くなる。あの戦いが終わった後、半年たっても引かなかった火傷の痕の鈍い痛みが全く消えて、でも今のセラにはそれに気づく余裕もない。
こらえきれず起き上がり振り仰ぐと、そこには懐かしい美しい瞳が微笑んでいた。
「シュナ、なの……?」
どうしても信じられず、思わず目を閉じ頭を振る。もう一度目を開いても、その姿はそこにある。
「生きて、いたの」
変わらぬぞっとするような美しさで、彼は微笑む。
「そうだね、私の半分の月の精は。……人間だったころの身体は、もうとうに朽ち果てただろう」
寂しそうな声。
「君の前に、現れる資格がないことは、わかっている」
でも、君の背中を見たら、居ても立っても居られなくて。
人の王だったころには見たこともない、苦しい微笑みだった。
現実を受け止めきれずに黙ったセラを、彼の切れるような瞳が見つめている。
「どうして、今夜、出てきたの」
この火傷を負ったとき、私は死の淵を見たのに、彼は現れなかった。
「ずっと、眠っていた」
「……40年、ずっと?」
「……そうらしい」
思わずうつむいて笑ってしまう。人として生きた年数よりも長く、眠っていたなんて。
「私を、……許してくれるかい?」
彼の瞳が歪む。そんな顔を見たくなくて、セラは顔をふたたび伏せた。
「馬鹿な人」
冷たくささやくつもりが、声音に交じる涙を止められない。
シュナの握りしめられていたこぶしが解かれるのが見える。ああ、やっぱりこの人の前では、私の虚勢は通用しない。
「そんなこと、訊かないで……」
懐かしい腕にとらわれて、セラはあの夜以来の大声で泣いた。
眼を開いたときに初めに見えたのは、視界いっぱいの銀色だった。
「お目覚めか」
驚いて飛びずさると、鈴を転がすような、というのがぴったりの声で年齢不詳の銀の瞳の女性が言う。
「ずいぶんとよくお眠りで」
待ちくたびれたわ。立ち上がるシュナの背を支えながら、しっかり聞こえる声で独り言ちる。
「……ここは」
見慣れない寝台だった。どこかで仮眠を取っていたのだろうか。
それにしても、ずいぶん良く眠れた気がする。これほど身体が軽いのは、久方ぶりだった。
「あなたの王宮ですよ、月の王」
「月の王?」
聞きなれない呼称に眉を寄せる。
いや、それどころではない。
「東の村の家畜の疫病はどうなっている」
ふいに頭が現実に戻り、シュナは部屋を飛び出そうとする。昨晩の宰相の報告からは、ゆっくり眠っている暇はないはずだった。
「終わりましたよ、そんなもの。40年前に」
こともなげに言われ、シュナの瞳が瞬く。さすがの彼にも、まったく事態は呑み込めなかった。
「……あの時か」
40年前に人間の自分は死んでいる、と信じられない説明をされ、シュナは頭を抱えた。
シュナが王となり10年、35歳の秋、王国は厄災の只中にあった。日照り、イナゴの害、そして家畜の疫病。自分のわずかなためらいで、東の村の家畜は全滅の危機にあった。3か月ほど、シュナはほとんど眠れなかった。
頭が重い。自分でもわかるほどふらつきながら、満月の中庭に出て行こうとしたことは覚えている。目を上げると、満月であるはずの月が欠けていくのが見えた。
約束の時間までは、あと半刻。いつもの東屋にたどり着く。彼女のために、宵待ち草を摘もうと歩き出す。でも、足が、動かない。粘りのある水の中を歩いているように、シュナの足取りは重かった。
ほんの、ほんの少しでも眠れたら。
『……望みはないか』
自分の内側から、聞いたこともない声が頭に響いた。
普段ならば決して耳を貸さないような、危険な響き。
『……眠りたい』
確かに願ったのは、自分だった。
「いやそれで魂抜かれて40年寝かされるって、聞いてないっすよねーって感じですね」
月の精の女官はさすがに気の毒そうな顔をする。
「自分でも気づいてはいなかったが、限界だったのだろうな。魔が差したところに、付け込まれた」
月食の夜、たちの悪い地底の精霊の力が強くなっていたのだろう。危なく地の国に取り込まれそうになった彼の魂を、月の精霊みんなで必死に月まで運んだのは今となっては懐かしい思い出だ。
「……彼女は、セラはどうしている」
あの晩も、いつものように会う約束をしていた。魂を抜かれた自分の姿を、初めに見つけたのがセラだったら。嫌な予感にシュナの胸はざわつく。
「ご自分で確認されたらいかがですか」
女官がひょいと指し示した先には、水鏡があった。
「今宵は満月です。雲も霞もなく、下界はそれは良く見えましょう」
彼女の背を見た瞬間、シュナは息をのんだ。
「何だあれは。どうして彼女が傷ついている」
「魔王の煉獄の火に焼かれたのですよ。魔王はもう退治されましたが」
「彼女が戦ったのか」
シュナの記憶にあるセラは、編み物くらいしかしたことがない、無邪気な少女だった。
「魔導士として、剣士として、それはそれはご活躍でしたよ」
40年の歳月の重みにシュナは唇をかむ。
「……あの傷は、治せないのか」
「月の王の力があれば、造作もないことでしょう」
それなら。
彼女に向けて手をかざそうとしたとき、シュナの身体がこわばった。
40年間、自分が消えた王国でどれほどの民草が傷つき倒れたのだろう。これからも、下界の民のすべての傷を癒すことはできない。のうのうと眠っていた自分が、勝手な望みでただ一人だけに、祝福を与えることは許されるのだろうか。
あの時、人の王であることから逃げた自分に、彼女を癒す資格はあるのだろうか。
「月の王。お力を使われないのですか」
「力は、分け隔てなく使わなければならない」
息苦しい声で、シュナは言う。人の王であった時の呪縛は、今でも彼の手足を縛りつけている。
「あなたという人は……!」
月の女官は、銀色の瞳をくわり、と見開いた。
「良いですか、それは、建前です」
「建前……」
シュナの眼が見開かれる。ポロリと自分の目から何かが落ちた気がした。
「お分かりか。あなたは、ただの、意気地なしです」
その瞬間には、月の王の姿はもう搔き消えていた。
「まったく。頭が良いのか悪いのか……」
女官はため息をつく。お坊ちゃん育ちは、これだから。
水鏡には、愛しい人の背中にそっと手を当てる月の王の姿が映っている。
「セラ。私のものになってくれ」
夢見心地でシュナの腕に抱かれていたセラは、目を見開いた。
「こんな危ないことは、もうさせない」
きっぱりとした口調は、人の王であった時から変わりない。
「いや、さすがにそれは、無理でしょう……?」
半精の女精は、子をなすことができない。月の精は、一夫一婦制のはずだ。今は月の王となったシュナと添うことは、さすがに精霊たちが許しはしまい。世界中の精霊を敵に回す勇気は、セラにはない。
「何とかする」
「何とかって……」
シュナの口は引き結ばれている。
その口元に、知らずにセラの頬が緩む。
(この人、今、駄々をこねている)
人の王であった頃の彼の呪縛は、少しは緩んでいるようだった。
(彼を育てた養育係は、正しかったのかもしれないわね)
シュナが本気で駄々をこねたら、世界の理も曲げてしまいそうだ。王国一国なぞ、彼のわがままで簡単につぶれてしまっただろう。
「本当に、馬鹿な人」
セラのつぶやきに、シュナが見たこともないような不敵な笑みを浮かべる。
「馬鹿になるのは、これからだ」
そうして、二人は初めての唇を合わせた。




