プロローグ《退屈との別れ》
「はぁー…」
いつもの様に学校時間が終わり、溜息をつき一人帰路に着く。ああ退屈だ、無気力になる。そう憂いの雰囲気を出しながらトボトボと歩いているこの黒髪男子学生―――純義 拓翔〈すみよし たくと〉は今の日常生活に不満を抱いていた。
授業中は延々と先生の話を聞いてノートに書き写すだけで昼休みは自前の弁当を食べ、残った時間は一目のつかない所で読書をするだけ。決して学校生活の居心地が悪いとは思っていないが、友達や趣味の合う人ができるわけでもなければテストで高得点を取ったこともなく、毎日適当に過ごす事の繰り返しで充実しているとは言い難い…というより充実していない。家に帰っても課題など最低限やるべきことをこなしたら後はゲームと読書で一日を終える。
「はぁ~あ…なんか、こう、退屈しない様な面白い事とか起こらんかな……」
再び溜息をつきながらそんな願望をこぼす。
唯一退屈しない事と言えば友達が家まで遊びに来るのだが、偶にしか来ない上に一緒に遊ぶと言ってもそんなに幅広い分野があるわけじゃないので正直そんなに満足できるかと言われると精々退屈凌ぎにしかならないので答えは否だ。
両親はそれぞれの仕事で忙しく、母は昼過ぎ、父は早くても日が沈む寸前の時間帯で帰ってくる。一応、余計な気苦労はさせない様に学校生活は特にこれと言った悩みとかもなくかなり充実していると言ってはいるが実際は心の底から充実を実感したことなど少なくとも中学に入った辺りから無い。
「…っと、そんなこと考えていたらもう家の前か」
気がつけば自宅の前に来ていた。二階建ての一般住宅で拓翔の部屋は上のリビングだ。
「母さんただいまー…ん?」
言いながら中に入るが、何も反応が返ってこない。
「母さーん?」念の為もう一度呼んでみるがやはり静まり返っている。
「…あーそういや仕事の都合で今日は遅くなるって言ってたんだっけ」
母がどうして居ないかを思い出す。今朝言われた事なのにこうしてすぐ忘れる辺り相当退屈さに心身をやられているんだなと痛感する。
「まあいいや、とりあえず小説でも読んで楽しもう…」
自分の部屋に行き、机に座って今日借りてきたライトノベルを読む。ジャンルはよくある異世界転移で内容もこれまたよくある主人公無双モノだ。
ふと、読んでる最中で思った――この主人公は自分の力で無双することに対して快感を得ているが、それは本当に楽しさが在るのだろうか?
確かに最初は強い敵だろうと難なく倒し、その力にヒロインを始めとする女性キャラが次から次へと惚れ込み、その女性たちのコネや適当に依頼クリアなどで金も手に入れられるから生活にも困らない…という実に都合が良く、満ち足りた結末となるだろう。
だがそこから先はどうだ?何もかもが都合良くいった分『自分ならどんな問題もわけなく乗り越えられる』という凝り固まった傲慢と言ってもいい考えが生まれるんじゃないのか?そしてそれが少しずつ、けど確実にブクブクと膨れ上がっていき、少しでも苦戦を強いられたらそれが何であれストレスが溜まっていくのでは?
もしそうなった場合…それは果たして満ち足りた、充実したものなのか。
「…こんな風に勘繰ってるけど、もし異世界で無双する力を手に入れたら僕もまたその内こういう価値観になってしまうんだろうか。」
おお怖い怖いと半ば自嘲気味に笑みを浮かべる。そんな事を思いつつしばらく文に目を通していると急に瞼が重くなってきた。
(ああ…そういえばさっき部屋に入った時に暖房つけたんだっけ)
今の時期は冬場だ。布団に籠ってない限り暖房がないとやってられないからつけたは良いが、それが反って眠気を促す事に繋がってしまった。更に間の悪い事に学校帰りの疲れもそれに拍車をかけたので、意識すればするほど余計に眠気が強まってしまい――。
(次に目覚めたら…異世界転移とか、してるといいなぁ…なん、てね………)
意識が闇に落ちる直前、拓翔はそんな淡い望みを考えた。
『あーやっとだよ!!ようやく条件が揃う逸材が見つかったわ…、最も肝心の才能の方は及第点をギリ上回るくらいだけどもうこれ以上探すの面倒くさいしこの子で妥協するとしようかしら』
その淡い望みが、適当且つ強引に叶ってしまうとは露知らずに――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「…んんぅ……」
ゆっくりと意識が覚醒する。どれくらい寝ていただろうか。すうっと瞼を開く。
「……?」
開けた途端、まず視界に入ってきたのは一面の黒。直後に仰向けになっている感覚を覚えたので、最初は机に突っ伏していた自分を親が部屋の照明を消して布団に寝かせてくれたのかと思っていたが、よく見ると不気味に赤く光っている粒子の様なものが漂っている。更に視界の端にも赤く光る何かが映っているので恐る恐る上体を起こすと―――――
「―――――!?」
一面。床一面がどこまでも広く、果てしなく、赤く紅く艶やかに鈍く光っていた。その床から先ほどの粒子状の何かが発生していた。ここはどこだ、何なんだこの空間は。そもそも何故自分はこんな得体の知れない場所にいる?
(寝ている間に人攫いにでもあったか?だとしたらその目的は?身代金?復讐?或いは悪質な嫌がらせや八つ当たりとか?…いやまさかとは思うけど実はただの家族ぐるみのドッキリでした何てことは――――)
「――おはようさん、アンタが起きんの待ってたわ」
「ぇ…」不意に後ろから声がかかる。思わずか細い声が漏れてしまったが、こんな意味不明な状況下に置かれた上に聞き覚えの無い声で「お前が起きるのをずっと待ってた」なんて言われれば恐怖を覚えるのも致仕方ないだろう。直前に人攫いだのと色々考えていたなら尚更だ。
「誰…です、か…?」恐る恐る聞いてみる。黙れと言われたら相手の許しが無い限りはそこまでだが、もし会話が可能ならば相手の発言から自分がこれまで関わった中で該当する人物がいないかを記憶から必死こいて探し回る算段だ。考えたくはないが最悪の結果の事を想定してダイニングメッセージも予め用意する必要がある。
…こんな地下室とも独房とも洞窟とも称せない様な理解しがたい空間でそれが意味を成すかは甚だ疑問ではあるが。ただ声からしてボイチェンでもしていなければ少なくとも女性ということは確実だろう。
振り返るのは…情けないかもしれないが正直言って怖いので無理だった。
「まーそんな怖がらずに…ってのは流石に無理があるかしら? 別に振り返ったところで何もしないけど、その怯えようだと私が前に出る必要があるみたいねぇ」
言いながら女性(仮)が自分の横を通り過ぎ、目の前に立つ。その際に足の部分を見たが真っ黒なジーパンの様なものを履いていて、膝の当たりに赤い菱形の文様が一つだけ印されていた。足元は少しダボついているがこれまた真っ黒で赤い一本線が横に入っている金具により足首辺りで固定されている。靴も同様に光を拒む様な黒で覆われていた。
取り敢えず下の服装はわかった。上は…顔は、どんな感じなんだ。
先ほどこの人は振り返ったところで何もしないと言った。なら、それが嘘でなければ顔を見ても特に問題は無い…はずだ。
そのままゆっくり、ゆっくりと顔を上げる。緊張が走る。呼吸が乱れる。汗が滲む。手に力が入る。体が強張る。そして―――
「初めまして人間、私はイヴィル=ブローディア。ただのしがない邪神よ」
―――――その顔は、絶句するほどの美しさで満ち満ちていた。