5 人を射殺す視線
「ルナールさん、クオートさん、お帰りなさい!」
研究所の前では、エメリーが笑顔で帰りを迎えてくれた。時間は昨日言っていた17時ほぼピッタリだ。
ルナールはクオートと二人の時には見せた事もなかった優しい笑顔を浮かべて、エメリーと言葉を交している。
仲の良い姉妹のように微笑ましい光景の横で、クオートは生気の抜けた死人のような顔をしていた。
なにしろ、午前3時に出発してもう14時間だ。いくらか昼寝を挟んだとはいえ、クオートの活動限界はとうに超えていた。
「クオートさん、晩御飯は昨日と同じ7時ですから!」
エメリーが元気よく知らせてくれるが、今のクオートには食欲よりも睡眠欲だった。
「ごめん、エメリー。俺夕食はいいや、もう眠た……いっ!」
そう言いかけて、クオートは全身を襲う凄まじい殺気に体が硬直する。部屋に向かおうとした足が、地面に貼り付いたようにピクリとも動かなくなってしまう。
……かろうじて動いた首を恐る恐る殺気の方に向けてみると、ルナールがとてつもなく怖い目をしてクオートを睨んでいた。
まるで最上級の氷属性魔法でも使おうとしているような、凄まじい量の冷気がルナールの体を覆って見える。
氷青色の瞳から放たれる視線は刃のように鋭く、クオートが着ている支給品の皮鎧など、たやすく切り裂かれてしまいそうに思われた。
「――ひっ!」
視線が合うと、思わず喉から引きつった悲鳴が漏れる。クオートは生まれて初めて、本気で命の危険というものを感じていた。倒れんばかりだった眠気も、どこかに吹き飛んでしまう。
ルナールはなにも言わず。ただ炎すら凍らせるような冷たい目で、じっとクオートを睨み続ける。
「……え、えっと……やっぱり晩御飯いただこうかな。7時……だったよね?」
なんとか、かろうじてその言葉を絞り出す。すると、それまで空間全体を凍りつかせんばかりだった冷気が嘘のように消え、クオートの体を硬直させていた殺気も感じられなくなった。
息をするのも苦しかった圧迫感から解放され、生きた心地というものを本気で実感する。
「はい、わかりました! また起こしにいきますから、昨日みたいにお休みになっていてくださって結構ですよ」
自由になった体でエメリーの方に目をやると、クオートよりも冷気の核近くにいたはずなのに、何事もなかったように嬉しそうに笑っていた。……が、目尻には少しだけ涙が浮かんでいる。
それを見て、クオートははじめて自分がしようとしていた失敗に気がついた。
エメリーは今日一日、ずっと一人で留守番をしていたのである。幼くして両親と死に別れた少女にとって、それは孤独で、心細い時間だった事だろう。
昨日は寂しくないかとの問いに平気だと答えていたが、寂しくないはずがないではないか。夕食の時間はそんな彼女にとって、人と触れ合う事ができる大切な時間なのだ。
その時間に、昨日からはメンバーが一人増えた。少女にとってどんなに嬉しかった事だろう。おそらく今日一日、新しいメンバーが加わっての夕食を心待ちにして留守を守り、今までより一人分多い夕食の準備をしてくれていたはずなのだ。
今更その事実に気づき、クオートは自分の鈍感さを反省する。それと同時に、ルナールのあの天を衝かんばかりだった怒りの原因も理解し。血も涙もない冷血人間だと思っていたのを、少しだけ見直すのだった。
……ルナールはすでにこちらに背を向け。馬を引いて厩舎の方へと歩いている。クオートも慌てて自分の馬を連れ、その後を追った。冷や汗で前髪が凍っていやしないかと、恐る恐る触って確かめながら……。
時刻は午後七時の少し前。なんだかんだでちゃっかり仮眠をとったクオートは、エメリーに起こしてもらってルナールと共に食堂のテーブルに座っていた。
料理を運んできてくれたエメリーが、『少し待ってくださいね。今パンが焼きあがるところですから』と言って、調理場へ戻っていく。この様子だと、また七時きっかりに夕食がはじまりそうだ。
エメリーが戻ってくるまでのわずかな間に、クオートはルナールに向かって頭を下げる。
「保護官長。先程は申し訳ありませんでした……」
もちろん、エメリーに対する配慮に欠けた発言に対する謝罪である。
今までの人生で何百となく謝罪を繰り返してきたクオートの経験上。謝るタイミングは後に用事が詰まっている忙しい時が最適だ。
長々とお説教したりできないし、場合によっては『ええい、もういい』とか言われてそれでおしまいになったりする。
そんな謝罪のプロであるクオートの言葉に。ルナールは眉一つ動かさず、『わかってくれたのならそれでいい』と言っただけだった。
もっと怒られるかと覚悟していたクオートは、意外に思いつつルナールを見る。
クオートに視線を向ける事もなく。テーブルの上で手を組んで、考え事でもしているかのように、じっと花瓶の花を見つめている。いつも通りの冷たい無表情だが、クオートにはほんの少しだけ。いつもより嬉しそうにしているように見えたのだった……。
……まもなく、エメリーが焼きあがったパンを運んでくる。
「お待たせしました。さあ、夕食にしましょう」
今日も7時ちょうど。エメリーが席に着いて『いただきます』と言うと、ルナールもそれに続く。初めてルナールの人間味らしきものに触れた気がしたクオートは、笑顔を浮かべて『いただきます』と言って、自分も食事に手をつける。
この晩の食事はことのほか美味しく感じられ、相変わらずクオートとルナールの間での会話は乏しいものの、全体的に和やかな雰囲気で食事が進んだのだった……。
食事もそろそろ終わりに近づいた頃、不意にルナールが口を開く。
「明日はサルファ湖の対岸で調査を行なう。出発は2時、帰還予定は今日と同じだ。エメリー、朝早くて申し訳ないが朝食と携帯食の用意を頼むよ。では、質問がなければ解散」
昨日と同じように明日の予定が伝えられる。どうやらこの時間はエメリーと一緒に過ごす時間であると同時に、連絡事項を伝える場でもあるらしい。全員が揃う訳だから、最適だろう。
……だが、問題はそこではない。
サルファ湖の対岸というのは、今日見た湖の反対側だろう。大きな湖だったから目的地は今日より遠くなり、移動時間が増える分出発が早くなる。
理屈の上ではよくわかる話だが、この際そんな理屈もどうでもいい。
問題なのはただ一点、『出発は2時』という一言である。
2時……。それは午前と午後の……という話は昨日やった。当然午前2時だろう。
クオートにとって午前2時とは、人間が活動する時間ではない。人間夜は寝るものである。今日の3時でも死にそうだったのに、2時とか現実的に考えて不可能だ。
「はい、わかりました」
突然聞こえたエメリーの声に、クオートは驚愕の表情を浮かべて振り返る。一瞬なんの冗談かと思ったが、エメリーはなにも変わった事などなかったかのように、平然と夕食の後片付けをはじめていた。
(……ひょっとしてこれは特殊な事態や俺への嫌がらせではなく、ここの日常風景なのか?)
そんな恐ろしい考えが頭をよぎり、クオートは戦慄する。だがもしそうだとしたら、前任者や研究員達が次々と辞めていったというのも納得だ。
今日は一日限りの事だと思ってなんとか耐えたが、こんな事が毎日続いたら三日目くらいで過労死してしまうに違いない。
「保護官長!」
クオートは、命懸けでルナールを呼び止める。こんなに必死になるのは人生で初めての事だった。なんだか最近人生で初めての体験が多い気がする。
「なんだ、なにか質問か?」
「あの、いくらなんでも2時は早過ぎませんか? 夜道は危ないですし、夜が明けてからの出発にした方が……」
意気込みとは裏腹に辞を低くし、それらしい理由をつけて意見を述べる。クオートが知る限り、これが最も人に意見を容れてもらいやすい方法だった。
「必要な調査と移動時間から逆算した出発時刻だ。夜道も私と私の馬が馴れているから、今日と同じ組み合わせで行けば問題なかろう」
しかし、ルナールはそんな浅知恵が通用する相手ではなかった。実に理に適った、的確な切り返しだ。議論馴れしていないクオートなどは、思わず納得してしまいそうになる。
だがここで納得してしまったら、あと二日で過労死の運命だ。
「でもほら、馬もそんな夜中から行動したら疲れるでしょうし、朝御飯つくってくれるエメリーだって……」
「わたしなら平気ですよ。お気遣いには及びません」
食器をお盆に積み上げながら話を聞いていたのだろう。横からエメリーの声がする。
……エメリーが働き者なのはクオートも十分承知しているが、ここは少し空気を読んでくれてもいいのではなかろうか?
「馬という動物はな、元々一日に数時間しか眠らないのだ。それも多くは立ったまま、断続的に睡眠をとる。常に周囲を警戒して、移動を続けていた種だからな。だから過度な負荷をかけず、水と食事と休憩をちゃんと与えていれば、一日に20時間くらいの行動は問題ない」
動物学者である、ルナール先生の生物講座が開講される。
(一日20時間だと? 一日20時間寝るならともかく活動するなんて、あいつらそんなスーパー生物だったのか……)
……などと感心している場合ではない。クオートは頭を振って気持ちを切り替え、なおも執拗に食い下がる。
「そうだ、現地に一泊するというのはどうでしょう? 移動時間が少なくなる分、調査に当てられる時間も増えるのではないかと思……」
言い終わらないうちに、クオートの背筋に寒気が走った。
「泊まりの調査は必要であれば行なう。だが今回は必要ではない、わかるな?」
ルナールの声が冷たさを通り越し、刺すように痛く感じられる。空気の振動に過ぎない声から痛みを感じるなどおかしな話であるが、確かに感じるのだから仕方がない。
クオートは慌てて、頭を一回転させてみる。
――現地に一泊するという事は、その晩はここに帰ってこないという事だ。つまり、エメリーは丸一昼夜以上も一人きりで過ごす事になる……。
(あ、これダメなやつだ)
夕方の出来事を思い出し、クオートの顔が真っ青になる。
「わ、わかりますわかります。日帰りできるならその方がいいですよね。うん、2時出発了解です!」
「わかればいい。遅れるなよ」
そう言い置いて、ルナールはふいと食堂から出ていった。
(あぶない……二日後どころか今死ぬ所だった……)
「クオートさん、明日は何時に起こしましょうか?」
今にも膝から崩れ落ちそうな体を必死に支えていると、エメリーの声が聞こえてくる。
(エメリー、君は素直で真面目で働き者でよく気が回って。ホントにいい子だねえ……)
そう思いながら、クオートは生気の抜けた声でつぶやくのだった。
「1時45分にお願いします……」




