36 予想外の事態
……ようやく制止の命令を出し。ボロ屑のようになって横たわるルナールの元に、再び公爵が歩み寄る。
剣士の男に背中を踏みつけられているルナールの前に立ち、公爵はポケットから小さな布の包みを取り出した。
出てきたのは、透き通るような銀色の宝石をはめ込んだ、美しく繊細な細工がされた指輪である。
「お前が先日送って寄越したドラゴンの目から作らせたものだ。これを婚約の証として、相手の指輪と交換しろ。未練も断ち切れて丁度良かろう」
「…………」
ルナールは地面に顔を伏せたまま、なにも反応を返さなかった。
しかし、血が滲むほどに握り締められて震えている拳が、ルナールの心中を余す所なく物語っている。
張り詰めた空気と沈黙の中、いつしかクオートの頬を涙が伝っていた。
それは悲しみと怒りと悔しさと、絶望の混じった涙である。
クオートは心の中で、ルナールが信念を曲げて父親の要求を受け入れてくれるよう祈ったが。同時にそれがありえない可能性である事もよく知っている。
……クオートは、今朝ルナールから託された願いを。
自分が死んだらエメリーとエルクを連れて逃げて欲しいという頼みを、強く意識するに至り。その覚悟を決めつつあった。
まるで世界が終わってしまったかのように物音一つ聞こえてこない中。公爵の手の上で、指輪が太陽の光を反射してキラリと輝く……。
「ピーッ!」
――突然、静寂を破ってけたたましい声が響く。鳥の鳴き声に似ているが、それよりもずっと声量がある。
全員の視線が集中した先に、白銀の翼をいっぱいに広げ、空に向かって叫ぶエルクの姿があった。
『──バサッ!』
今までエメリーの命令を忠実に守り、人形のふりをしていたエルクが、大きく翼をはばたかせ。砂埃を巻き上げて空に舞い上がる。
その場にいた全員が、太陽の光を受けて輝きながら飛ぶドラゴンの姿に驚き。雪の彫刻のような美しさに目を奪われる。
「ピピーッ!」
なにかを呼ぶような声で鳴きながら、エルクは上昇から一転、急降下の姿勢をとる。
「――保護官長! 逃げて!」
エルクの様子にただならぬものを感じたクオートが、とっさにありったけの声で叫ぶ。
それとほとんど同時にエルクのお腹が一瞬膨らみ、口から強力な氷の息を吹き出した。
「ルナールさん!」
かろうじて体を動かせるまでに回復していたエメリーが、最後の力を振り絞って土属性魔法を発動させる。
土壁にぶつかった猛烈な吹雪は、離れた場所にいるクオートの視界さえ真っ白に染めるほどの勢いで、周囲へと拡散する。
――エルクが上空を通過し、睫毛が凍るほどの冷気の霧が晴れてみると、一面が真っ白に凍りついた中で、ルナールの周囲だけが元の色を留めていた。
クオートはホッと安堵の息をつき。力尽きたように意識を失ったエメリーを抱きかかえる。
いざという時にはこの子とエルクを守るのが、クオートに課せられた使命なのだ。
ルナールを助けたエメリーの防壁は、同時に周囲にいた剣士や公爵。魔法士達も助けてしまう結果になっていた。
ようやく我に返った男達が構えをとる頃、エルクは上空を悠然と旋回し、今度は低空で襲いかかっていく。
「うわああああーっ!」
恐怖に満ちた悲鳴が聞こえ、剣士の男の体が宙を舞った。
エルクは魔法士が出した岩壁を体当たりで突き破り。迎え撃とうとした剣士の右足に噛みついて、そのまま持ち上げてしまったのだ。
エルクはまだ子供で、剣士とは体格で倍以上、重さでは三~四倍ほども差があるはずだ。だがそんな差を物ともせず、大人一人を軽々と咥えて高度を上げていく。
「離せ! この野郎!」
逆さまにぶら下げられた剣士が狂ったように剣を振り回すが、魔法薬で強化された力をもってしても、エルクの鱗には傷さえつける事ができず。
ただ『キン』『キン』と澄んだ音を響かせるだけだった。
公爵が切り札として使った魔法薬は、使用者にドラゴンの力の一端を付与する物である。
あふれんばかりの魔力。人間離れした筋力と敏捷性。そしてルナールの剣を弾いた防御力。
どれも人間同士の戦いでは圧倒的なものだったが、それはあくまで力の一端であり。ドラゴンそのものであるエルクは、その全てを産まれながらにして備えているのである。
エルクは剣士の攻撃などお構いなしにどんどんと高度を上げ。一方で何度も鱗に弾かれた剣は、ついに折れ砕けてしまう。
怯えきった剣士の悲痛な叫び声は、地上で見上げるクオートにすら戦慄を感じさせた。
「ぎゃあああああ!」
上空から一際大きい悲鳴が聞こえたかと思うと、右足を噛み砕かれた剣士の体が落下してくる。
ドラゴンの鋭い牙と顎の力は、ドラゴンの鱗に匹敵する強度を持つものであっても噛み砕いてしまうのだ。
男の体はまっ逆さまに落下し、屋敷の上へと落ちてくる。
ルナールでさえ破壊にてこずった、頑丈な石造りの建物。魔法薬の力で硬化された男の体は、その屋根・床を突き破り、一階の床に突き刺さって盛大な砂埃を上げた。
……クオートはその方向を警戒するが。瓦礫の山となった落下点はシンとしていて、しばらく待っても生きている人間の気配は感じられなかった。
「――くそっ! 化物め!」
また上空から急降下してくるエルクを近くまで引きつけ、リーダー格の初老の魔法士が全力で火属性魔法を放つ。
エルクが巨大な炎の渦に呑み込まれるのを見て、クオートは息をのんだ。
……だが次の瞬間、炎の玉を突き破って冷気の嵐が吹き出し、反対に魔法士を襲う。
瞬きする間に魔法士の体は冷気の嵐に呑み込まれ、顔に驚愕の表情を貼りつけたまま、氷の柱と化してしまった。
一方炎の渦を突き抜けたエルクは全くの無傷で、体にも翼にも焦げ跡一つついていない。
「──うわあぁぁぁ!」
残った最後の魔法士が表情を引き攣らせ、恐慌状態に陥って任務を放棄し、逃走をはじめる。
だが、人間が走る速度などドラゴンが飛ぶ速さには及ぶべくもなく、あっという間に二つめの氷柱にされてしまった。
……そしてエルクは、また次の獲物を求めるように反転して高度をとる。
エルクの圧倒的な強さを見ながら。クオートは先日、エルクにパンをあげるふりをして咥える直前で上によけ、また咥える直前でヒョイと横によけるという意地悪をしたのを思い出して、全身から血の気が引いていくのを感じていた。
大人しいのですっかり犬や猫のような感覚だったが、エルクはその気になればクオートなど一瞬で食い殺してしまえるほどの力を持った、地上最強の生物なのである。
クオートが怖れを持って見守る中、体勢を立て直したエルクは次に目についた相手。ルナールに向かってまっすぐ突っ込んでいく。
「保護官長、危ない!」
エルクは明らかに正気を失っている。しかしよろよろと立ち上がったルナールは、上空を見上げたまま微動だにしなかった。うつろな目で天を仰ぎ、魔法を使う様子もなく、放心したように突っ立っている。
そして猛然と襲い来るエルクを前に、あろう事か目を閉じてしまった。まるで殺されるのを、進んで受け入れようとしているかのように……。
「保護官長!」
クオートはありったけの声で叫び、ルナールの言いつけを破って全力で水属性魔法を発動させる。
エルクを相手にしては、攻撃魔法も防御魔法も通じないだろう。クオートよりずっと能力が高い敵の魔法士がそうだったのだ。
……ならば、とるべき方法は一つしかない。




