2 上司ルナール
クオートは自分の上司になる人物について、エメリーからさらに情報収集を試みる。
「美人って事は女の人なんだよね。名家って、貴族かなにか?」
「はい。フルネームをルナール・ピアストルと言って、有名なお家だそうですがあまり家の事は話してくださらないので、詳しい事はちょっと……」
「そっか……って、ピアストル!?」
世事に疎いクオートですら、その名には聞き覚えがあった。ピアストル家といえばガレノス王国でも一・二を争う名門貴族で、現当主のキュビェ・ピアストル公爵は今の王国宰相である。
なぜそんなお嬢様が……と思うと同時に、ますます謎が深まっていく。名門ピアストル家の御令嬢と懇意になれるとあれば、こぞって子弟を送り込んでくる有力者がいくらでもいそうなものだ。
……いや、エメリーが一年半で15人辞めたと言っていたから、実際多く送り込まれているのだろう。だがそれなら、ますます辞めてしまう理由がわからない。
エメリーの話を聞く限りでは、性格破綻者のわがままお嬢様という訳でもなさそうなのに……。
いくら考えても答えが出ず、庶民の出であるクオートにはわからない権力闘争でもあるのだろうかと考えていると、不意にエメリーがピクンと反応する。
「――あ、ルナールさんが帰ってきたみたいです! クオートさんもいらしてください!」
そう言って、少女は元気よく駆け出していく。
窓の外を見ると、もう太陽が山影に沈みはじめていた。しばらくして、ようやくクオートの耳にも馬の足音が聞こえてくる……。
「おかえりなさい、ルナールさん!」
研究所の前で嬉しそうに出迎えるエメリーは、まるで主人の帰りを待ちわびていた子犬のようで。かわいらしい尻尾がパタパタ振られているのが見えるようだった。
「ただいま、エメリー。留守中変わりはなかったか?」
……クオートは扉の陰に隠れて、二人の様子をそっと観察する。馬から降りてきた女性は背が高く、雨具兼用だろうローブを纏っていて、乗馬用のズボンにブーツ姿、腰には剣を吊っている。
全く貴族のお嬢様っぽくはなく。実用本位の装いだ。
服にも剣にも馬にも、装飾の類は一切ない。
クオートの視線の先で女性がローブと一体になっているフードを降ろすと、長くて綺麗な金色の髪がふわりと宙を舞い。夕日に照らされて文字通り輝いて見える。
……エメリーが言っていた通りすごい美人で。人間の三大欲求のうち睡眠欲が99パーセントを占めていると評されるクオートですら、一瞬見蕩れてしまうほどの魅力があった。
細身で手足はスラリと長く、それでいて胸元はローブの上からでもわかるほどの膨らみがある。長い金髪に、気が強そうだが整った顔立ち。加えてなにより印象的だったのは、太古の氷河の破片を思わせるような。氷青色の澄んだ瞳である。
まるで物語に登場するエルフが本当に現れたような。そんな印象さえ抱かせる、ある種現実離れした美しさを宿した女性。
身に纏う空気のせいで大人びて見えるが、全体的に幼さも残していて。歳は今年16歳になったクオートと同じか、少し上くらいだろう。
「――あのですね、クオートさんがいらっしゃいましたよ!」
エメリーが嬉しそうに報告する声に。隠れて様子をうかがっていたクオートは、慌てて扉の陰から姿を現す。
「こ、このたび保護官長附きを拝命して着任しました、クオート・タルク三等士官であります! クオートとお呼びください」
とりあえず型通りの挨拶をし、辞令を渡そうとした瞬間。クオートは背筋にゾクリと冷たいものが走るのを感じ、思わず半歩後ずさった。先ほどまでエメリーに優しい姉のような視線を向けていたルナールが、一転氷のように冷たい目でクオートを睨んでいたのである。
「……到着予定は五日前と聞いていたが?」
抑揚がなく。視線に劣らず冷たい声が発せられる。
「え……あの……その、道中色々ありまして……」
「色々だと?」
ルナールが切れ長の目を細めると、ただでさえ鋭い視線が更に切れ味を増す。
まるで水晶の刃のようで、触れただけで皮膚が裂け、血が噴き出すような感じがした。
神経は図太い方だと自負していたクオートだったが。恐怖のあまり口が乾き、顔を冷汗が伝う。氷青色の瞳にじっと睨まれると、まるで心の奥底まで見透かされているような気にさせられる。どう考えても、エメリーの時にように誤魔化せそうにはなかった。
「……ルナールさん、お疲れでしょう。お風呂が沸いていますから、汗を流してきてください。お話は後でまた、夕食の時にでも」
クオートの窮地を察したように、エメリーが助け船を出してくれる。
「──フン、まぁいい。エメリーに免じて今回だけは見逃してやる。だが覚えておけ、私は時間を切るようなだらしない人間は大嫌いだ」
鋭い口調でそう言い残し、ルナールは馬を引いて厩舎の方へと歩いていく。エメリーも後を追うが、すぐに振り返って元気な声を出した。
「クオートさん。7時から晩御飯にしますから、食堂へきてくださいね!」
明るい調子でそう言うと、ルナールの後を追って厩舎へと駆けていく。
残されたクオートは、ただ一人身動きさえできずにその場に立ちつくしていた。
16年の人生で、こんなに鋭い恐怖を感じたのは初めてだったのだ……。
……時計の針は、午後6時を指している。あの後なんとか動けるようになったクオートは、夕日が差し込む自室のベッドの上にいた。
そして時計という、この世でもっとも嫌いな道具を見ながら溜息をつく。
この時計なる代物は。先の大戦中に軍用として開発され。戦後民間にも広く普及したのだそうだ。クオートに言わせれば、人間の行動を束縛し、不幸にする悪魔の発明品である。
もっとも、たとえ時計がなくても五日間の遅刻は誤魔化しようがないのだが、クオートは時間に厳しい人と出会うたびに、この機械を恨めしく思う。
そして今また、その化身のような人物と出会ってしまったのだ……。
「はあ……」
もう一つ溜息をつきながら、支給品の時計をポケットにしまいこむ。本来ならこのまま夕食まで一眠りといきたい所だが、今は先に考えなければいけない事がある。
ルナールとの出会いは、軽くトラウマ物だった。あの視線に宿る気迫は尋常ではない。見た目こそ大人びた少女という感じだったが、士官学校で一番恐れられていた鬼教官からでさえ、あんな威圧感は受けた事がない。
エメリーは優しい人だと言っていたが、この地方で流行っているギャグかなにかだろうか?
そしてクオートにとって厄介なのは、一目で悟ったルナールの性格が、自分と最も相性の悪いタイプである事だった。
すなわち、厳格で自他共に厳しく。妥協を知らない……。
……どう考えても一番近付きたくない相手なのだが、向こうは保護官長でクオートは保護官長附き。おまけに住む所まで同じとあっては、避けようもない。
しかも、厳しそうで怖い人なのは確かだが、今までの先任者が全員辞めてしまった理由としては弱い気がする。それはつまり、まだ他になにかあるという事なのだ。
そこまで考えて、クオートは暗澹たる思いに沈み込む。
どうやら快適な生活という夢は、文字通り夢と消えてしまったようだった。
これからの生活が思いやられ。クオートはベッドに寝転がって、また深い溜息をつくのであった……。