3ー1 有希奈を訪ねて
最近有希奈の様子がおかしい。
健信からそんな連絡がきたのは、世間がお盆休みに入る少し前の頃だった。
確かに、チャットアプリで研究室に誘っても、返信すら来ない。
学内でたまたま顔を合わせる事はあるのだが、軽く挨拶を交わしたら「またね」
以前のように、あちらから積極的に絡んでくる様子は全くないと言ってよいだろう。
健信は自分の考えをまとめる為だけに話題をふってきたようで、じゃあ教授の家へ様子を見に行こうと誘ってみると………
「今は距離を置いた方がいいんじゃないか」
なんて言い出す始末。
健信の忠告を聞き届けた俺は今、敢えて忠告を無視して教授の家へ続く坂道を1人で歩いていた。
健信の言ってる事もわかるが、本人に確認し、実際に様子を見てみないことには何もわからないではないか。
それに、あの単純な有希奈の事だ。
ふとしたきっかけで元通りに元気を取り戻すかもしれない。
動かずにいられなかった理由はもう1つある。
自分を「吸血鬼」と呼ぶように願う彼女だ。
最近はだんだんといい雰囲気になってきたのだ。
有希奈とはまるで本当の姉妹のように気安く接しているし、健信の冗談にも考え込まずにころころと楽しそうに笑うようになってきたし、俺の質問にもすらすらと詰まらずに答えるようになってきた。
少しずつではあるが、今の常識に慣れ、わざわざ詳細な説明をしなくても意思疎通が出来るようになってきている。
たったそれだけの事が、楽しい。
皆で話をする事が本当に楽しいと思えているのだ。
健信のいうように、今、本当に有希奈がおかしくなっているなら、彼女はどんな気持ちで日々を過ごしているだろうか?
今まで楽しいと思えていた雰囲気が崩れないとは思えない。
それは正直困る。
有希奈が一体何について悩んでいるのか、俺に何が出来るかわからないけど、話を聞くくらいは出来るはずだ。
教授の家へ着き、出迎えてくれた彼女は、やはりいつもの彼女ではなかった。
前回、有希奈のお茶の味が劇的に改善した時とは、笑顔の明度が違う。
有希奈に声をかけてくると言い、部屋を出る歩みの弾みかたが違う。
明らかに意気消沈している様子の彼女を見送った俺は、榊教授が淹れてくれたお茶を飲み、教授が子供の頃飼っていたハムスターが肺炎になった事があって………というオチが良くわからない話を聞きながら、彼女が戻ってくるのを待っていた。
「光誠ごめんなさい。やはり有希奈は体調がすぐれないようです」
リビングに戻ってきた彼女が沈痛な面持ちでそう言うのを聞いた俺は、聞いた言葉から受ける印象とは逆に、少しだけホッとした気持ちになっていた。
精神的・感情的に落ちているなら時間がかかるかもしれないが、体調を崩しているなら、元気になればすぐにいつもの有希奈に戻ると確信できたからだ。
「そうか、仕方ないな」
「珍しいね。今日は有希奈に用があったの?」
「健信に言われたんです。最近様子がおかしいって。ちょっと話を聞くくらいなら大丈夫かと思ったんですけど………」
「あぁ、そっか。健信は良く見てるね………」
教授との会話で、先ほど抱いた確信は揺らいだ。
体調だけが問題なら、この教授の様子は違和感がある。
「教授は何か知りませんか?」
「親だからって何でも知ってるわけじゃないし、知ってても全て話せるわけでもないでしょ?」
「まぁ、そうですよね」
やはり教授が簡単に話せるような様子ではないようだ。
「わたくしも心配なのです。何か知っているなら教えていただきたいのです!」
「お時ちゃん………」
「わたくし、本当に最近楽しいと思っているのです。皆でお話するのも、有希奈と2人でお茶の練習をするのも………。今の雰囲気が壊れてしまうのは本意ではありません」
彼女の言葉を聞いて、ドクンと心臓が跳ねた気がした。
「………今はちょっと待っててあげて欲しいな」
「わたくし、有希奈のお友達で、家族同然だと思っているのです。有希奈が本当は体調不良ではないことくらい存じております! 何か思うことが………」
「お友達で、家族同然だからこそ、言えない事もあるの」
「それは………どういう意味ですか?」
「ちょっと待っててあげて。今は………それだけしか言えないかな」
教授は苦笑しながらそう言うと、自分のカップを持ってリビングを出ていった。
何故か最後に、俺の方へ視線を向けながら………
「わかりません………」
彼女は言った。
俺からは、教授が出ていった扉を見つめる彼女の背中しか見えない。
しかし、その丸くなった背中は、彼女の心境を雄弁に物語っていた。
「家族同然だから言えないとは何なのですか? わたくしには、まだまだ有希奈と仲良くなれていない、という意味にしか思えない………」
彼女はそれだけ言うと、身動ぎもせずに黙りこんだ。
リビングが気まずい雰囲気に包まれる。
いつも基本的には笑顔を絶やさない彼女の表情が今、辛そうに歪んでいるのがすぐに想像できた。
有希奈の事を大切に考えていて、情の深い彼女の事だ。
きっと、自分に至らないところがあったのだと、自らを責めているのだろう。
何かないだろうか………? 俺にしてあげられることが………
「その………大丈夫?」
「………きっと、今つらいのは有希奈です。わたくしではありません」
「あぁ………うん」
意を決して彼女にかけた言葉は、至極もっともな返事で返された。
こういう時、自分が無力だと思い知らされる。
理論的に話をする事は出来ても、人の感情に寄り添った話し方ができない自覚はある。
健信が羨ましいと、心から思う瞬間だ。
その時、彼女がくるりと身を返して近づいてきた。
すたすたと歩き、俺の隣へ座る。
ソファーがギシリと音をたてて、彼女がどれだけ勢い良くこちらへ近づいてきたかを表した。
「光誠、知恵を貸してください。わたくしはどうすれば有希奈を理解してあげられますか? どうすれば元気づけてあげられるのでしょう?」
それは………尋ねる相手を間違えている。
などと言えるわけもない。
しっかり向き合って、出来る限りの事を考えなければ………と考えつつも、俺の口から出た言葉は、無意識に「逃げ」の方向へ向いてしまっていた。
「教授は待っててって言ってたけど………」
「その助言は聞き入れたいとは思いますが、人間の時間は有限ではないですか。何もせず、というのは、その………わたくしには難しいようです」
またも彼女の言葉にドキリとさせられた瞬間だった。
俺が健信の忠告を聞き流した事と、彼女が教授の助言を聞き流した事とは、天と地ほどの違いがあると認識させられたのだ。
悠久の時を生きながら失われない、彼女の前向きな心や強い意志は、一体どこから来るのか………
「そっか、うん。そうかもしれない」
「つらい時に力になってあげられなくて何が友達ですか? 何かあるはずです。わたくしにも出来る事が………」
「とはいえ、有希奈が話してくれないのを無理に聞き出す事も出来ないからね」
「それは………わかっています。………でも、わたくしはあなたの事を大切に思っています、心配しています、といった事を、せめて伝えたい」
「え? 会話も出来てないの?」
「いえ、食事を一緒にとる事も多いですし、会話がないという事はございません。ですが、きちんと伝わってない気はしています」
「そっか………有希奈が比較的落ち着いている時に話出来たらいいんだけど………」
改めて、考える。
彼女が有希奈に出来る事。
彼女が有希奈にしてあげたい事を実現するやり方を。
俺が今、彼女に、有希奈に、してあげられる事を。




