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霧雨市怪奇譚

霧雨市怪奇譚 きさらぎ駅

作者: 野崎昭彦

「あれ……?」


 加藤明良かとうあきらが目を覚ますと、そこは電車の中だった。

 どうも、座席に座ったまま、着替えの入ったスポーツバッグにもたれて眠ってしまっていたようだ。

 体を起こすと、半ばクセで乱れたスカートを直しながら寝ぼけなまこを擦る。


「うー……」


 周囲を見回しても車内には明良の他に人影はなく、ただただ電車の走る音と、線路の継ぎ目の上を通る際の規則的な振動だけが続いている。

 窓の外は真っ暗で、どこを走っているのかは分からない。

 ただ、トンネル内ではないようで、上の方には若干赤みを帯びた月が雲間に浮かんでいるのが見える。

 窓に映った自分は高校の制服を着ているが、通学に使うスクールバッグは持っていない。スポーツバッグがあることと併せて考えるに、どうも大会か何かの帰りらしい。

 だが、明良はどうして自分が電車に乗っているのかいまいち思い出せなかった。


「なんじゃ、これ」


 明良はとりあえず、スポーツバッグのサイドポケットに突っ込んであるスマートフォンを取りだそうとした。その時、急に電車がブレーキをかけて減速した。車内に金属のこすれる耳障りな音が響く。あまりの急減速に明良はスポーツバッグの上に倒れてしまった。

 電車はそのまま減速を続け、やがて完全に停まってしまった。

 どこかの駅に着いたようだが、特にアナウンスがあるわけでもなく、車内は静まりかえっている。

 明良は首を傾げながら窓の外を見た。

 薄暗いホームのほぼ中央に駅名表示板が立てられていて、点滅を繰り返す蛍光灯に照らされている。


『きさらぎ』


 駅名はそう記されていた。


「きさらぎ……駅? 聞き覚えないけど、どこだったっけな?」


 明良は今度こそスマートフォンを引っ張り出すと、Webブラウザーを立ち上げた。だが、いつまで経ってもポータルに設定した検索サイトが表示されない。やがて、検索サイトではなく、インターネットに接続できなかったというエラーメッセージが表示された。

 電波状況を示すアイコンは感度が良好であることを示している。それなのに、繋がらない。

 この不可思議な状況に、明良はますます首を傾げた。


「……そうだ、駅なら公衆電話があるかもしれない」


 そう考えると、ブレザーのポケットに財布が入っているのを確かめて電車のドアを開けた。

 金属製のそこそこに重いドアがごろごろと音を立てて開くと、点滅しがちな蛍光灯に照らされた、侘びしい小さな駅のホームだった。冬の凍てついた空気が車内に侵入してくる。

 半ば予想していたとはいえ、明良は一瞬、車外に出るのを躊躇ためらった。

 だが、電車の中で待っていても事態は動かない。そんな気がして、明良は無人のホームに降り立った。

 堅い音がして、スニーカーが乾いたホームを叩いた。

 ホームには駅名表示板があるだけで、他には自販機や電車を待つベンチのようなものもなかった。隣には古びた木造の駅舎が建っていて、そこが待合室を兼ねているようだが、中にも明かりの類はない。

 駅の周囲にはこれといって目印になるようなものはなく、ひたすらに田畑が広がっている。遠くに見える山の裾まで、灯りらしいものは何一つ見えない。

 まるで人の気配らしいものはまったくなかった。

 さらに、不思議なことに改札口には電子定期券用の読取機も切符の回収箱も設置されていない。

 ワンマン電車が走っているような路線なら無人駅があってもおかしくないのかもしれない。だが、明良はこの路線に無人駅があるという話は聞いたことがなかった。

「もしかして、今は使ってない駅に何かの理由で停まったとかかな?」

 だとしても、それなら何かのアナウンスがあるはずだ。

 そこまで考えが至って、ようやく明良はまだ電車の運転席と車掌室を確認していなかったことに気付いた。

 明良は電車内に取って返すと、先頭車両にある運転席を目指した。

 だが、運転席は無人だった。

 最後尾の車掌室も同様。

 つまり、今この駅にいるのは明良だけなのだ。

 そのことを知った瞬間、明良はその場にへたり込んだ。


 ***


 冬休みが明けて最初の日曜日。霧雨駅南口に面したコンビニの飲食スペースで、黒田孝美くろだたかみはフライドポテトを挟んで明良から夢の話を聴いていた。

 いつもの明良なら元気はつらつといった様子なのだが、今日はどことなく雰囲気が暗い。

 くりくりとよく動く大きな目も、遠目には男子と間違えそうな短髪、やや地黒の肌だって、普段と変わるところはない。明灰色のパーカーにジーンズ地のズボンという格好も普段通りだ。にも関わらず、孝美は暗いと感じた。


「……っていうわけでさ、もう同じ夢が何日も続いてるから気になって調べてみたんだけど、どうも有名なネット怪談らしいんだよね」


 明良から夢の話を一通り聴いた孝美は腕を組みながらため息をついた。


「『きさらぎ駅』、かぁ……」

「うん。もちろん、夢の話だから下手に考えすぎるのもどうかって思うけどさ。ほら、これが一番にヒットしたサイト」


 明良は孝美にスマートフォンを見せた。

 表示されていたのは、ネット上に散在している情報をまとめた、いわゆるまとめサイトだった。オカルト系の情報全般を扱っているようで、現在開かれている『存在しない駅!? きさらぎ駅の正体を探る』という記事の他にも、トピックスには『ついに判明! 恐怖のくねくねの正体とは!』『幻の海獣ニンゲンを追え』『南米の秘境ゴンドリナスに幻獣スカイフィッシュを見た!』『あまりにもお粗末なインテリジェンス・デザイン論』『ロズウェルUFOとはなんだったのか』『ノストラダムスの大予言――恐怖の大王はナポレオンか?――』といった眉唾物の記事が古き良き時代を彷彿とさせる妙にリアルなタッチのサムネイル画像を添えられて並んでいる。


「何、このサイト?」

「あたしも『きさらぎ駅』のことを調べてて見つけたばかりなんだけど、ここだけじゃなくて、他のサイトでも内容は似たか寄ったかの話しか載ってなかったよ」

「そうなんだ。なんか、昔の子供雑誌みたい。――で、明良は今日までこの話のことは知らなかったの?」

「知らないよ。あたしは孝美と違ってこういう話興味ないもん」

「それじゃ僕がオカルトマニアみたいじゃないか。それはともかく、本当に知らなかったのなら、単なるネット怪談じゃなくて、実際に妖怪として存在するのかもしれない。座敷童や雪女郎みたいにね」


 以前、明良の兄が雪女郎がらみの事件で孝美の師匠、羽柴藤はしばふじの世話になったことがある。だが、その名をきいた明良は眉間にしわを寄せた。


「雪女って言っても、あの人は別に吹雪を呼んだり、春になったら溶けて消えたりはしないよ。単に寒さに強いだけの、普通の人。変な夢とかネット怪談とかと一緒にしないでよ」

「ん、ごめん。でも、妖怪って元々『普通とは少し違う奇妙なモノ』を呼ぶ言葉だから、彼女の冷気耐性も十分妖怪の部類に入る気がするんだけどな」


 孝美はそんなことを言いながら、スマートフォンの画面をスライドさせて記事を読んでいく。

 それによれば、どうも『きさらぎ駅』は一種の異空間に迷い込んでしまった女性の話のようだった。しかし、はっきりと恐怖の対象が登場するわけではなく、女性が不審者に誘拐されそうになったところで謎の人物に助けられて自宅の最寄り駅に生還する、というデウス・エクス・マキナ的な終わり方をしている。

 孝美にはこの話の怖さが今一つ理解できなかったが、不気味さという点では確かによくできた話だ。


「遠くからお囃子の音が聞こえてくるっていうことは、この人が迷い込んだのは天狗の世界か狸の世界なんだろうな。鉄道があるなら狸かも」

「え、そんなことわかるの?」


 孝美が考えを口にすると、明良が驚いたような顔をした。


「うん。狸ならまあ、そんなに危険はないかな。あいつらが人を化かすのは基本的にいたずら目的だもん。もっとも、この話が事実だとすれば、だけどね」


 なにしろ、初出が匿名のネット掲示板だ。信憑性は決して高いとはいえない。


「でも、それじゃあたしが見た夢はどう説明するの?」

「噂の具現化、とか? ジュブナイル系のやつでよくあるじゃん。最近だと津中百合子ツナカユリコの『すぐに消せ』とか」


 ネット原作のライトノベルを例に挙げてはみたものの、孝美としてはそっちの可能性はあまり考えていなかった。噂が具現化するなどというのは創作の世界の話でしかない、と藤からも再三言われている。もし具現化したなら、そこには必ず仕掛人くろまくがいるのだ、とも。


「とにかく、色々調べてみるよ」

「うん、お願いね。あたしじゃこれ以上調べようがないし」

「にしても、君といい、荒木といい、どうも僕を心霊探偵みたいに勘違いしてる節があるのはどういうことなんだろうな?」

「あれ、違ったの? こういう、オカルトがらみで困ったことがあったら孝美を頼ればいいって噂になってるけど」

「左様ですか」


 噂の出所がわかったらとっちめておこう、と思いつつ、孝美はフライドポテトを口に入れた。


「それはともかく、夢に関するお化けっていうと、枕返しくらいしか思いつかないんだよな。でもあいつが見せる悪夢は普通の悪夢っていうか、その人の記憶に依存するはずだ」

「あたしはよくわかんないけど、枕返しだっけ? そういうのって普通、古い家とかにいるんじゃないの?」

「昔はそうだったんだろうけどね。この頃はついそこの渡来わたらい川の河川敷にも猪が出るじゃないか。時代や環境が変われば今まで旧家に出たようなお化けが都会に現れてもおかしくないよ」

「うえ、そうなの? あたしあの河川敷でよく走り込みやるんだけどな」

「明良もたまにはニュースに目を通しときなよ」

「オカルトマニアに指摘されるとは」


 そう言って大げさなリアクションを取る明良はいつもの雰囲気に戻りつつあった。孝美が調査を請け負うことで不安が多少は薄れたのかもしれない。もしくは孝美という第三者に話したことで黒幕の影響力が弱まったのか。


「仕掛人のことはとりあえず置いといて、まずは『きさらぎ駅』のことをもう少し調べてみようか」


 ちょうどフライドポテトを食べ終わったこともあり、孝美は席を立った。

 明良と別れた孝美は家に帰るとまず、インターネットで『きさらぎ駅』について何か新しい発見がないか調べてみた。だが、匿名掲示板が出所だったせいか、ネット上に出回っている情報はどれも断片的なログを並べているものばかりで、明良から見せられたサイトが最もわかりやすくまとめられているという有様だ。話題としてはとうに旬を過ぎているせいか新しい情報はまったくない。

 孝美はスマートフォンから顔を上げ、眉間に手をやった。

 とはいえ、ここまでは想定内ではある。


「問題は、これを具現化した仕掛人が誰でどこにいるか、なんだよな。……もう一度情報を整理してみるか」


 孝美は『怪奇事件簿』と題したノートを机の上に広げると、開いたページに明良の夢と『きさらぎ駅』の情報で符合するものを書き出してみた。


「殺風景な中に建つ小さな無人駅、実在しない謎の駅名、か。お囃子は聞こえなかったみたいだけど、実際はどうなんだろう? 気付かなかったって可能性はあるよな」


 孝美は腕組みをして体をのけぞらせた。背もたれの軽い反発が心地良い。

 なんとはなしに机の脇に立っている本棚を見ると、『神隠しの考察』というタイトルが目に入った。高名な民俗学者の手による神隠し文化の研究書だ。


「神隠し、か……」


 考えてみれば、元となった『きさらぎ駅』は神隠しの亜種と捉えることもできそうだ。神隠し譚には失踪者が無事戻ってきて失踪中の出来事を語るというパターンがある。

 つまり、『きさらぎ駅』もリアルタイムの報告であるという点に目をつぶればそのパターンだと言えるのだ。しかし、仮にネット上の『きさらぎ駅』がそれ、あるいはそのパターンを念頭に創作されたものだとしても、明良の夢も同じパターンだとは限らない。

 夢枕に立つだけならその辺をさまよっている幽霊にだってできる。だが、それはあくまで夢に出るだけの話だ。それ以上のことをするとなるとやはり相応の存在だと考えるべきだろう。

 だとすればそれは一体何なのか。

 孝美は深いため息をついた。

 やはり、ここは藤に意見を求めるべきかもしれない。

 孝美はスマートフォンを手に取ると、アドレス帳から羽柴屋敷の電話番号を呼び出した。数回の呼び出し音の後、電話口に出たのは使用人の前田利也まえだとしやだった。いつものことだ。


「もしもし、孝美だけど」

『申し訳ありません、生憎お嬢様は来客中でして。……孝美さんから電話があったと伝えましょうか?』

「うん、そうしてくれると助かるかな。ところで、利也さんは『きさらぎ駅』って知ってる?」


 答えまでにわずかな間があった。


『いえ、知りませんね。この辺の路線ですか?』

「ううん、実際の駅じゃなくて、そういうネット怪談というか、都市伝説なんだけど」

『ふむ、そんな話があるのですか。それで、今日の用件はそれですか?』

「まあね。友達がどうもそれに……というか、その話を利用した何かに憑かれてるっぽいんだ」

『分かりました。その辺りも含めてお嬢様に伝えておきます』

「ありがとう。助かるよ」


 そう言って孝美は電話を切った。

 これで藤に話は伝わるだろうが、いつ伝わるのかはわからない。

 状況としては何も変わっていない。

 孝美は椅子から立ち上がると、本棚から『世界の妖怪・悪魔図鑑』を引っ張り出した。ヨーロッパのお化けを中心に網羅的に収録した子供向けの図鑑だが、生憎と孝美の手持ちで海外のお化けを扱ってるものはこの一冊だけだった。

 日本のお化けで思い当たるモノがいないなら海外、という発想は安直だというしかないが、孝美としては他に思いつくものがなかった。

 古き良き昭和期の妖怪図鑑を彷彿とさせるショッキングなコピーとリアルタッチなイラストが並ぶページをめくっていくと、『夢世界の使者』と題されたページに目が止まった。


「ナイトメア、か……」


 そのページには馬面人身の怪人が寝ている子供の布団をめくり、鼻息のようなものを吹きかけているイラストが載っていた。イラストからは想像できないが、人々に悪夢を見せるお化けで、同類もモーラやドルーデなど、ほとんどが洋モノだ。


「確かにこいつなら……でも、こいつから身を守るって言っても、どうすればいいんだろ?」


 孝美は首を傾げた。

 漫画やアニメのように直接夢の中に乗り込むことができれば話は早そうだが、そう都合良くもいかない。

 だとすると、やはり現実世界での撃退方法を考えるしかなかった。


「何にも負けない心こそが最強の武器なのだから、ってのがお化けに対する時の基本なんだけど、姿の見えない相手だと、どうしてもなぁ……」


 孝美は呻いた。とその時、スマートフォンが着信を告げた。画面を見ると、羽柴屋敷からだ。

 孝美は慌てて通話ボタンをタッチした。


『もしもし、孝美? さっきはご免なさいね』


 それが、藤の第一声だった。


「でも、お客さんじゃ仕方ないよ」

『気を使ってくれたのね、ありがとう。さて、利也の話だと厄介な都市伝説に巻き込まれてるみたいね』

「そうなんだよ、藤姉さま。もう僕はどうしたらいいのか。だって相手は夢を操れるんだよ」

『そうねぇ。夢を操るっていうなら夢魔、淫魔の類が得意そうね。でも、お友達は彼らに狙われそうな子なのかしら?』


 電話向こうの藤の様子は分からない。だが、声の調子は心なしか苛立っているようにも感じる。


「たぶんお化けに狙われ易いタイプじゃないと思う。言うことははっきり言うし、元気はつらつって感じで」

『そう。だとすると、仕掛人は本来不得手なタイプの相手を狙っていることになるわね』

「だから余計に分からないんだ」

『でも、孝美はこれがナイトメアの仕業だと思ってるんでしょう?』

「夢を操れるようなお化けといえば彼らだと思うんだけど」

『それなら対策は簡単じゃない。ほら、獏のお札を作ってお守りにすればいいのよ』

「あっ、そうか!」

『都市伝説っていう外見で目が曇っていたのね』

「うん、どうも難しく考えすぎてたみたい。ありがとう、藤姉さま」

『私は何もしてないわ。ところで孝美、このところ中高生の突然死が増えてるって話、聞いてる?』

「ううん、僕は聞いてない。突然死ってどういうこと?」


 中高生と突然死、という言葉がとっさに結びつかず、孝美は訊き返した。


『ここ三週間ほどで五人くらいかしら。前日までは元気だったのに朝になったら布団の中で冷たくなってた、なんて症例が増えてるみたいなのよ。死因は心不全。要するに原因不明ね。事故や災害ならともかく、原因不明の突然死なんてどう考えても尋常じゃないわ。大体、若くて健康な人がある晩突然死んでしまうなんてあり得ると思う?』

「思わない。大体、突然死って聞いて一番に連想するのはお年寄りとか病人だよね。っていうことはお化けが関わってる?」

『私はそう睨んでるわ。でも、全く見当が付かないのよね。それで、さっきまで永田ながた先生と情報交換してたのだけれど……』


 藤の口振りからすると有用な情報は得られなかったようだ。


『孝美は何か、噂みたいなものを聞いてないかしら?』

「うーん、最近はこれっていう噂はないかな」

『昔みたいに噂っていう形での伝播でんぱはしてないのかしら? それとも、別の次元で広がっているのかも』

「別の……ああ、インターネットかぁ。僕もそっちはあまり詳しくないんだよな。……あ、明日学校に行ったら友達に訊いてみようか?」


 返答までに少し間があった。


「藤姉さま?」

『そうね、それとなく話を振ってみてくれる? 私は私で伝手つてを当たってみるわ』

「分かった。それじゃ、何か分かったら改めて連絡するよ」

『ええ、お願いね』


 それで、藤からの電話は切れた。

 孝美はそのままメール画面を呼び出すと、文芸部の先輩である大谷吉乃おおたによしのに向けてことの次第を簡潔に伝えるメールを送信した。顔の広い彼女なら今日中にはなにがしかの成果を挙げるだろうと踏んでのことだ。

 それが終わると、今度は机の上を片付けて習字セットを引っ張り出した。


「僕、絵心ないんだけど大丈夫かな?」


 硯に墨汁を垂らしながら、孝美は呟いた。


 ***


 明良はまた、きさらぎ駅のホームに立っていた。

 目の前の電車は一向に動く様子がなく、そもそも運転席にも車掌室にも人の姿はない。


「また、この夢だ……」


 いつもは覚めて初めて夢だと認識していたのだが、今日ははっきり夢だと自覚している。それだけではない。今日は何故か、夢が始まった時にはすでにホームに立っていた。

 明良は電車のドアを開けて車内に入った。意外にも電気は通っており、照明は点いていないものの、ヒーターは作動している。


「なんなんだろ、この電車」


 明良はホームと反対側の窓から外を覗いてみた。

 月明かりのおかげでぼんやりと見渡せるその空間は、見渡す限り田畑が広がっていた。その向こうには山が真っ黒な塊となって浮かび上がっている。


「どこの路線なんだろ?」


 明良の知る限り、起きている時にこんな風景を見たのはせいぜい映画くらいだ。いくら群馬が田舎とはいえ、見渡す限り耕作地という光景はなかなか見られない。

 駅のそばであるならなおさらだ。

 やはり、夢の中の世界だからこその光景なのだろう。

 明良はしばらくそのまま外を見ていた。何か夢を脱出する手がかりになるものがあるのではないかと思ったからだ。

 だが、これといって気を引くようなものはなく、孝美と違って知識もないため、何に注目して良いのかも分からないというのが現実だった。


「……え?」


 唐突に人の気配を感じて、明良は振り返った。

 反対側の座席に制服姿の男子高校生が座っていた。背筋をぴんと伸ばし、明良のことなど見えていないというように、前を向いたまま身じろぎもせずに座っている。

 気が付くと、車内には他にも中高生と思しき制服姿の男女が数人、座っていた。やはり同様に背筋を伸ばし、無表情のまま前を見つめている。


「ど、どうして?」


 明良は手近に座っている女子高校生に駆け寄り、肩を揺すってみた。

 しかし、そばかすの目立つ、純真そうな彼女はまったく反応しない。

 他にも何人かに試してみたが、やはり反応はなかった。よくできた人形に囲まれているかのような感覚がして、明良はその場に立ち尽くした。

 その時、車両のスピーカーから小さな音が漏れた。回線が通じる時の雑音だ。続いて、平板な調子の発車アナウンスが聞こえてくる。


『毎度ご乗車ありがとうございます。当列車はまもなく発車いたします』


 発車アナウンスはそれだけだった。

 明良が乗り込む時に開けてそのままだったドアが重い音を立てて閉じる。


「え、あっ!?」


 明良は慌ててドアに駆け寄った。だが、ロックされたドアは押しても引いてもびくともしない。

 そうこうする内に、電車はゆっくりと動き出した。


『毎度ご乗車ありがとうございます……。次の停車駅は、りんじゅうー、りんじゅうー』


 スピーカーからの放送に、明良は耳を疑った。

 ネット怪談では、次の停車駅は『かたす』だったはずだ。

 やばい。

 明良は最後尾の車両にある車掌室に向けて走り出した。

 別に深い考えがあるわけではなく、とにかく車掌に話せばどうにかなるのではないかと思っただけだ。

 中高生らしい男女が身じろぎもせずに座る間を駆け抜け、たどり着いた最後尾車両は何故か無人だった。

 その突き当たりにある車掌室の前に立つと、明良は呼吸を整え、ドアをノックした。

 だが、しばらく待っても返事がない。


「あの……」


 聞こえなかったのかと思い、声をかけてながらもう一度ノックしてみたが、やはり返事はない。

 その時、電車が軋むような音を立てて減速し、やがて停止した。

 明良はとっさに目の前の吊革を掴んで踏ん張り、投げ出されるのを避けた。


『毎度ご乗車ありがとうございまーす。いけづくりー、いけづくりでーす』


 停車の直後、スピーカーからアナウンスが流れる。


「また、駅名が変わってる……?」


 明良は思わず窓の外を見た。

 だが、駅の設備らしきものは右側にも左側にも見えない。

 それなのに電車は止まった。

 明良はわけがわからなくなった。


 かちゃり。


 小さな音がして、車掌室のドアが開いた。

 中から藍色の作務衣を着た人物がゆっくりと出てくる。

 体つきから男とわかるが、それにしては背が低い。その身長は明良の肩ほどしかない。

 その手には何に使うつもりか、一振りの段平だんびらを持っていた。もう長いこと手入れなどされていないのであろう、脂と錆の浮いた段平だ。

 だが、なにより目を引いたのは、男の顔だった。男は顔に能や狂言で使うような黒翁の面を着けていたのだ。

 明良は男に声をかけようとしたが、その異様な風体に思わず息を呑んだ。そして、言葉が出ないまま、男を目で追った。

 男はぎこちない動きで明良の前を通り過ぎると、ゆっくり前の車両へと歩いていく。

 車両の連結部分のドアが重い音を立てて開き、そして閉じた。

 窓ガラスの向こうに、前の車両の窓が向き合っている。

 その、左側。

 栗色の髪を後頭部で団子状にまとめた、まだ幼い横顔が見えた。

 男はその少女の前に立つと、手にしていた段平を顔の前に振り上げた。

 そして、躊躇う様子を見せることなく振り下ろした。


 ***


 孝美は苦戦しながらもなんとか獏の絵姿を描き上げ、悪夢の退散を願う祭文を余白に書き入れた。

 後は墨が乾くのを待つだけだ。


「うーん、及第点」


 孝美は出来上がった獏の護符を見ながら一人呟いた。

 部屋の隅で、不意にスマートフォンが着信曲を流し始めた。『エピデミック・ナイトメア』――一昔ひとむかし前に流行した怪奇系探偵アニメの主題歌だ。

 そのタイトルが今回のケースに妙にマッチしている気がして、孝美は思わず身震いした。


「大谷先輩が何か噂を突き止めたのかな?」


 だが、そんな予想に反して画面に表示された名前は吉乃のものではなかった。


『着信中……加藤先輩』


 そう表示された画面を見て、孝美は心臓が飛び上がりそうになった。明良ではなく、兄の清虎きよとらからの電話。明良の身になんらかの事態が生じ、連絡が取れない状況に陥ったのかもしれない。

 孝美は恐る恐る通話ボタンを押すと、スマートフォンを耳に当てた。


「もしもし?」

『黒田、効きたいことがある。今日、明良と会った時何か変わったことはなかったか?』

「どうかしたんですか?」

『お前なら話してもいいか。実はな、明良が意識を失くしたんだ』

「えっと、つまり、倒れた?」

『うむ。帰ってきてからはしばらくリビングにいたのだが、いつの間にか眠っていた。いや、眠っているように見えた、と言った方が正確か。しばらくして声をかけたのだが、いくら呼んでも反応はないし、揺すっても起きる様子がなかった』

「単に寝てるだけ……って訳じゃなかったんですね?」

『いくら遠いと行っても街まで行って帰ってくるくらいでそんなに疲れるわけがないし、逆に揺すっても起きられないほど疲れているならそもそも街まで降りていかないだろう』


 明良の家は山間の梅畑うめはた地区で、霧雨きりさめ市の中心部との間を往復するにはかなり時間がかかる。

 途中電車を使っても片道で三十分から四十分といったところだ。だが、明良はいつも、それを気にした風もなく自転車で登下校していた。


「それもそうですね。……ひょっとして明良、悪夢に囚われているのかも」


 明良の意識は今、『きさらぎ駅』をさまよっているのかもしれない。孝美はなぜか、そう思った。


『悪夢だと? 明良が同じ夢を続けて見ていると言っていた気がしたが、それか?』

「そうです。すぐには危険がないと思ってましたけど。それで、病院には?」

『もう羽柴さんには連絡したが、厚生病院だ』

「そうですか。わかりました」


 孝美は電話を切ると、護符の乾き具合を確かめた。そして、上から別の半紙を当てて余分な墨を吸い取らせる。これで乾くまでの時間は大きく短縮できるはずだ。


「さて、僕も行かないとだ」


 孝美は一度着替えた部屋着からまた外出着に着替え直す。

 着替え終わる頃には護符はすっかり乾いていた。それをクリアファイルに挟み、バックパックにしまう。

 最後に紺色のコートと大きなベージュの鳥打ち帽をかぶると、孝美はバックパックを手に玄関に向かった。

 霧雨厚生病院は通り一本を挟んで孝美たちの高校の前にある。

 孝美は自転車のロックを外してすぐに走りだそうとした。ちょうどその時、スマートフォンが新たな着信を知らせてきた。画面を見ると、羽柴屋敷からだ。


「もしもし?」

『孝美、まだ家を出てないかしら? 清虎から話を聴いたわ。さっきの話、彼女のことなんでしょう?』

「うん、そうなんだ。だからすぐに行こうと思って」

『今、利也に車を出させるわ。私の方の案件にも関わってくるかもしれないもの』

「それって、明良が突然死するかもしれないってこと?」

『どうかしら? まだ確証がないからなんとも言えないわね』


 そういうことらしかった。

 電話の後、藤の迎えは割とすぐにやってきた。

 住宅街に似つかわしくない、黒塗りの高級車だ。運転席には使用人の前田が収まっている。

 孝美が後部座席に滑り込むと、車はすぐに発車した。

 その後部座席では、臙脂色のドレスに身を包んだ藤が腕を組んで瞑目していた。


「さて、それじゃあ急ぎましょうか。護符は持ってきたのでしょう?」


 孝美が頷くと、藤は右手を挙げた。それを合図に前田が車を発進させたる

 厚生病院のポーチで車を降りた孝美と藤は窓口で明良の病室を訊いた。若い担当者は戸惑ったような顔で孝美たちの顔を二度、三度と見直したが、怪訝そうな顔のまま病室を教えてくれた。

 明良が運び込まれた病室は最上階の一室だった。

 孝美たちがドアを開けると、ベッドそばのパイプ椅子に座っていた清虎が立ち上がった。


「黒田、来てくれたか」

「ええ、電話をもらって急行してきたんです」

「そうか。……羽柴さんも、ご足労をおかけしました」

「いいえ、大したことではないわ。それより、明良の状態はどうなの?」


 藤が訊ねると、清虎はベッドの方を指した。明良が寝かされているが、何らかの医療が施されている様子はない。


「ごらんの通りです。検査の結果待ちですが、永田先生の診断ではただ眠っているだけだ、と」

「そう」


 藤はそれだけ答えると、ベッドに歩み寄った。

 華奢な白い手でそっ、と明良の頬を撫でる。


「藤姉さま……」

「孝美、護符を出して」


 孝美がバックパックから取り出した護符を渡すと、藤は小さくくすり、と笑った。


「個性的ね。まあ及第点と言ったところかしら」

「あっ、酷いな。まあ、僕も描き上げた時同じこと思ったけど」


 藤は孝美の抗議には耳を貸さず、明良の頭をずらすと、枕の下に護符を差し込んだ。


「ながきよの、とおのねぶりのみなめざめ」


 藤の、紅を差したような唇から紡がれたのは、あまりにありふれたまじない歌だった。

 正月の初夢が良いものであるように願う回文の歌だ。


「なみのりぶねの、おとのよきかな」


 孝美が下の句を続けると、眠っている明良の口から一筋の煙が流れ出した。

 その煙は最初窓の方に流れていったが、閉まっている窓ガラスに当たると方向を転換してドアの方に向かう。

 だが、今度はかなり離れたところで急に向きを変え、天井の換気扇へと上り、そのまま部屋の外へと逃げるように流れていく。


「な、なんだあれは?」

「そうね、明良を眠らせている悪夢の正体、とでもいうべきかしら」


 言いながら、藤は口元に人差し指を当てた。日輪の右目が、月輪の左目がわずかに燐光を放つ。


「さて、それじゃちょっと捕まえてくるわね」


 藤はその場でくるり、とターンすると病室を出ていった。


 ***


 明良はハッとしてあたりを見回した。

 電車は再び動き出している。

 一体何がどうしたのか、記憶がすっぽりと抜けている。どうやら明良は車両のど真ん中で、立ったまま気絶していたらしい。

 明良は震える手で隣の車両に通じるドアを開けた。

 その途端、猛烈な血の臭いが押し寄せてきた。


「うっ……」


 明良は思わず右手で鼻と口を覆った。

 なるほど、活け作りだ。

 お団子頭の女子中学生は黒翁の手によってバラされ、綺麗に飾り付けられている。

 その向かいにいたスポーツマン風の男子高校生は炙り、その斜向かいの神経質そうな男子中学生はお開き。

 他の席に座っていた乗客も皆、同様に無惨な有様になっている。

 あまりにもショッカーな光景に、明良は吐き気をおぼえ、その場にしゃがみ込んだ。

 と、スピーカーが再びがなりはじめた。


『ご乗車ありがとうございます。次は、くしざしー、くしざしー』


 明良はぞわりとした悪寒を感じた。

 見られている。

 誰に?

 決まっている。あの黒翁だ。


 がらり。


 車掌室のドアが開く、重い音がした。


「えー、走行中は大変危険ですので座席にお座りください」


 背後から声がした。

 明良はとっさに前の車両へ向かって逃げようとしたが、しゃがんでいたせいで前のめりに倒れてしまった。

 それでも這って進もうとするが、床にぶちまけられた血と脂がぬるぬると滑り、思うように進めない。


 かっ、かららら。


 背後で、何かを引きずる音がした。

 鉄パイプか何かを引きずればそんな音がするだろうか。


「次のーぉ、停車駅はーぁ、くしざしーぃ、くしざしーぃ」


 妙に語尾を引き延ばした声が、次第に近付いてくる。


「……っ」


 明良は悲鳴をあげそうになるのを堪えながら必死で床を這った。

 手が、膝が、血と脂にまみれる。

 気ばかり焦るが、ぬらぬらと滑る床に足を取られ、まるで先に進めない。


「くしざしーぃ、くしざしーぃ」


 そうこうするうち、男の低い声がついに明良のすぐ後ろまで近付いて来た。


「くしざしーぃ、くしざしーぃ」


 男の声が頭上から降ってくる。

 明良は観念して目を閉じた。

 だが、予想していた何かはいつまで立っても起こらない。

 明良が恐る恐る目を開けると、目の前に赤い袴をはいた足があった。

 顔を上げると、大天狗の面を着けた、真っ赤な束帯姿の何者かが黒翁と対峙していた。

 明良は横に転がるようにして二人の間から抜ける。

 黒翁は長い金属のパイプを持っていた。あれで明良の体を串刺しにするつもりだったのだろう。

 一方の天狗の手には槍が握られている。穂先が車内の電灯を反射して鋭く光った。


『去ねや』


 天狗が黒翁に槍先を向けると、黒翁は風に吹き散らされるように消え去った。パイプが派手な音を立てて転がる。

 同時にブレーキ音が鳴り響き、強い慣性が体にかかった。


善哉よきかな善哉。娘よ、命拾いしたの」


 天狗は明良を見下ろしてそう言うと、腰に差していた扇を広げ、明良にかざした。

 その扇から白く目映い光が溢れ出し、明良の視界を覆っていく。


「え、ちょっと、あなたは一体……」


 最後まで言い終える前に、明良の視界は真っ白になる。それに耐えられず、明良は目を閉じた。瞼越しでも分かるほど強い光だったが、直視よりはましだ。

 しばらくそうしていると、やがて光が弱まってきた。

 いつのまにか、ねっとりとした血と脂の臭いがツンとした消毒薬の臭いに変わっている。

 恐る恐る目を開けてみると、そこはどこかの病院の病室だった。明良はその病室のベッドに横になっていた。


「明良、目覚めたか!」

「良かったー。起きないんじゃないかと思って冷や冷やしたよ」


 ベッドの両脇から清虎と孝美が口々に声をかけてくる。


「え? あれ、あたし、どうしたんだっけ?」


 どうやら、夢を見ている間に病院に運ばれたらしい。


「覚えてないのか? お前帰ってきてすぐに眠り込んで、そのままだったんだぞ」

「覚えてない……。あれ、孝美と会って、家に帰ってきて……気付いたら『駅』にいたんだ」

「それって、『きさらぎ駅』?」

「うん。それで電車に乗ったら急に動き出して……なんか、能面みたいのつけた人に襲われた。活け作りとか、串刺しとか言いながら」

「なんか『きさらぎ駅』の話とは違ってるな。ひょっとして、何か別の話とつながってるのかも」


 孝美がそう言って右手を頭にやった時、『エピデミック・ナイトメア』のショートバージョンが流れた。


「あ、ごめん。急いでたから電源切らずに来ちゃった」


 孝美は恥ずかしそうに頭を掻くと、病室を出ていった。

 室内に妙な沈黙が流れる。


「あの、さ」

「うん、どうした?」

「ごめん。兄貴、心配したでしょ?」

「まあな。だが、目覚めて良かった。羽柴さんの話だと突然死していた可能性もあったようだからな」

「突然死……。え、羽柴さん、いたの?」

「ああ。黒幕を捕まえると言って出ていったが」

「そっか。……お礼、言いたかったな」


 明良は少しだけ残念だ、と思った。

 しばらくして戻ってきた孝美は困惑したような顔をしていた。


「明良、『サルユメ』って、知ってる?」

「ううん。何それ?」

「ネット怪談の一つ。なんだけど、ここ一月くらいで急に広まってるって、今大谷先輩から」

「それって、何か関係あるの?」

「うん、明良がさっきまで見てた夢によく似てるんだ」

「え?」

「明良が見てたのはだから、『きさらぎ駅』じゃなくて『サルユメ』の可能性が高い」


 室温が急に下がったような気がした。


「どうも、あれはひどくしつこいみたいだ」


 孝美の言葉をきっかけに、周囲が陰ったように暗くなった。


『次のーぉ、停車駅はーぁ、くしざしーぃ、くしざしーぃ』


 低い声が天井から降ってくる。


「えっ?」


 明良は思わず天井を見上げた。

 いつの間にか天井に黒いもやのようなものがわだかまっていて、その中から黒い翁面が降りてきていた。


「な、何だ!?」


 清虎が身構える。


「無駄ですよ、先輩。これは暴力じゃ撃退できません」

「じゃあどうするんだ!?」

「そうだな、ここは三十六計ってやつで」

「逃げるの!?」

「うん。急ごう!」


 孝美に急かされるまま、明良はベッドから降りた。

 三人は孝美を先頭にして明良、清虎の順で病室を飛び出した。

 清虎が病室のドアを閉めた瞬間、硬いものがぶつかる音がして、ドアが大きく震えた。


「保たないかも!」

「逃げる時間ぐらいは稼げると思ったけどな」

「こういう時に限って藤姉さまがいないなんて」


 三人はそんなことを言いながら真っ直ぐに廊下を駆けていく。その後ろから、病室のドアが破られる耳障りな音が響いた。


「逃げるんですかぁー? 逃がしませんよーぅ」


 黒翁の声が追いかけてくる。

 明良は必死で駆けた。

 どこまでも続く廊下を真っ直ぐ、真っ直ぐ。

 力をセーブしながら走る持久走と違い、今は全力だ。三分もしない内に息が上がってくる。

 部活で基礎体力を鍛えている明良からしてこうだ。文系の孝美など、もう顔が真っ赤で息も絶え絶えといった様子で清虎に引っ張られている。


「次はーぁ、くしざしーぃ、くしざしーぃ」


 声が追ってくる。振り向けば追いつかれてしまうに違いない。いや、このままではいずれ追いつかれてしまうだろう。そうなれば死、あるのみだ。

 そうはなるまいと明良は胸元に手を当てながらも懸命に走った。

 長い。

 白い壁と、ドアと、木製の手すりで構成された廊下はいつまでも続く。

 いつまでも、いつまでも、いつまでも。


「なあ、おかしくないか?」


 それに気付いたのは、清虎だった。


「なっ、何が?」

「こんなに長いのは変だろ」


 清虎に言われて、初めて明良はこの廊下が異様に長いことに気付いた。

 それに、人の気配もまったくない。


「これ、って、もしか、して……?」

「あの能面が原因だろう」


 と、それまでなんとか付いてきていた孝美が何かにつまづいて転んだ。

 孝美を引っ張っていた清虎が止まり、仕方なく明良も止まる。というか、正直言って限界だった。

 孝美は懸命に立ち上がろうとしているが、疲れ切った足が言うことを聞いてくれないらしく、なかなか立ち上がれない。ふと見れば、黒翁はすぐそばまで迫ってきている。表情などないはずなのに、心なしか笑っているように見えた。


「お待たせいたしましたーぁ。くしざしーぃ、くしざしーぃ」


 翁面の周囲にわだかまる靄の中から鉄パイプが現れる。


「うぐっ……!」


 明良は思わず後ずさる。

 その時、一陣の風が吹き抜けた。


「あのことこのこと聴かせんな、近江の国の長浜の、しっぺい太郎に聴かせんな」


 風は涼やかな声を乗せていた。

 予想外のことだったのか、黒翁の動きが止まる。

 廊下の向こう、進行方向に臙脂色の影が凛、と立った。


「やっと追いついたわ」


 革靴の音を響かせながら藤が悠々と歩いてくる。


「靄に変じるなんて、考えたものね。靄ならどんなに小さな隙間でも出入りできるし、排気ダクトを使えば建物内を自由に移動できるもの。ね、狒々?」


 藤の後ろには、使用人の前田が影のように従っている。


「お、おお、お……」


 黒翁が呻いた。


「利也」


 藤が右手を肩の高さに上げると、前田が一振りの脇差を差し出した。藤は脇差を鞘から引き抜き、無造作に構える。


「どうってことない安物なのが残念だけれども、仕方ないわね」

「おお、お、お……」


 黒翁は呻くばかりで答えない。

 藤はつかつかと黒翁に歩み寄る。


「羽柴、さん……?」


 明良は呆然と藤の動きを見つめていた。

 藤はほとんど予備動作もなしに五歩分ほどの距離を一息で詰め、脇差を突き出した。その一撃はまっすぐに翁面の中心を貫き、鍔元まで突き通る。

 その瞬間、空間が震えた。


「――――っ!」


 翁面が絶叫を上げていた。

 その甲高い叫びに耐えきれず、明良は耳を塞いだ。

 翁面の表面に無数のひびが走ったかと思うと、欠片も残らないほど粉々に砕け散った。

 明良はそれと同時に強い目眩を感じ、意識が暗転した。


 ***


 気が付くと、明良は元の病室のベッドにいた。

 孝美がパイプ椅子に座ったままぐったりしている。まだ息が整っていないようだ。


「起きたんだ。良かった……」


 孝美が顔を上げた。


「羽柴さんは?」

「売店で何か買ってくるってさ」

「そうなんだ」


 明良は周囲を見回した。

 もう、黒い靄も翁面もない。


「終わったの?」

「うん、終わったよ」


 孝美は短く答えた。


「怖かった」

「うん、怖かった」


 その時、病室のドアが開いて藤が入ってきた。清虎が後に続いている。


「あら、起きたのね。……今回は大変なものに魅入られたわね」


 藤がにこり、と笑った。

 それだけで心なしか病室が明るくなったような気がする。


「お茶を買ってきた。まずは一息つこう」


 清虎がベッドサイドのテーブルにペットボトルのお茶を二本置いた。


「いただきます」


 孝美が即座に一本手に取ると、キャップを開けて飲み始めた。


「あら、そんなに喉が乾いていたの?」


 藤が呆れたような声を出した。


「えっと、あれは一体、何だったんですか?」


 明良が訊ねると、藤は自分の分の紅茶を開けて一口飲んだ。


「あれはね、狒々(ひひ)よ。年を経た猿のお化けね」

「さる?」

「さっき、利也の電話に孝美から電文が転電されてきてね。どうも『サルユメ』っていう怪談が流行ってるらしいじゃない。おそらく何らかの方法で局地的に噂を流行らせて、それを利用して狩りをしてたんでしょうね」


 藤は小さく笑った。


「まったく、手こずらされたものね。でも、これで中高生連続突然死事件も終息するでしょうよ」

「突然死……」

「孝美もお手柄よ。あなたがあの電文を利也の携帯電話に転電してくれなかったら間に合わなかったもの」


 絶句する明良をよそに、藤は孝美の頭を撫でた。


「藤姉さまも携帯持ったら?」

「やあよ。私はあんなものに縛られたくないの」

「……もう」


 そんなやりとりを見ている内に、明良はようやく事態が解決したのだと実感した。


「えっと、羽柴さん。結局あの……狒々? はどうなったんですか?」

「さあ、どうしたのかしらね。ま、どうせもう何もできないはずよ」

「どうして、ですか?」

「利也がいるからよ」

「利也さん?」


 孝美が訊ねると、藤は頷いた。


「利也は犬神統の末裔なのよ。もっとも、男子だから犬神を使うことはできないのだけどね」

「そうなんだ。犬神は女系遺伝だもんね」

「そう。使うことはできないけれど、お母様から遣わされた犬神が護っているのよ。だからただの脇差でも効いたの」


 藤はくすくすと笑った。


「文字通り犬猿の仲、っていうわけですか」


 ***


 狒々(ひひ)


 山に棲むという猿が歳経た化け物。

 針のような剛毛を持ち、猿でありながら人や獣を捕らえて食べるという。

 鍋を盾として銃弾を防いだという伝承もあり、大分知恵が回るようである。

 山で生活する人々は人に似ていながら人ではない猿という動物を特別視しており、山神の使いであるとして『猿』と呼ぶのを忌む地域も多い。

 同様に猿が変じた化け物としては猿神と呼ばれる悪神の存在が知られている。

 こちらは村の鎮守などに棲み着き、花嫁という名目の生け贄を要求するという伝説が多い。この場合は武者修行中の勇者や遠国から連れてこられた猛犬によって討伐されるのが一般的である。


 ――十詠舎刊『妖怪事典』より抜粋


 ***


「あれ……?」


 少女が目を覚ますと、そこは電車の中だった。

 どうも、座席に座ったまま、着替えの入ったスポーツバッグにもたれて眠ってしまっていたようだ。

 体を起こすと、半ばクセで乱れたスカートを直しながら寝ぼけなまこを擦る。


「うー……」


 周囲を見回しても車内には彼女の他に人影はなく、ただただ電車の走る音と、線路の継ぎ目の上を通る際の規則的な振動だけが続いている。

 窓の外は真っ暗で、どこを走っているのかは分からない。

 ただ、トンネル内ではないようで、上の方には若干赤みを帯びた月が雲間に浮かんでいるのが見える。

 窓に映った自分は高校の制服を着て、通学に使うスクールバッグを膝に乗せている。どうも学校の帰りらしい。

 だが、彼女はどうして自分が電車に乗っているのかいまいち思い出せなかった。


「なんじゃ、これ」


 やがて、電車はゆっくりと減速し、停車した。だが、特にアナウンスがあるわけでもなく、車内は静まりかえっている。

 少女は首を傾げながら窓の外を見た。

 薄暗いホームのほぼ中央に駅名表示板が立てられていて、点滅を繰り返す蛍光灯に照らされている。


『きさらぎ やみ――かたす』


 駅名はそう記されていた。


「きさらぎ……駅? 聞き覚えないけど、どこだったっけな?」


 少女はポケットからスマートフォンを引っ張り出すと、Webブラウザーを立ち上げた。だが、いつまで経ってもポータルに設定した検索サイトが表示されない。やがて、検索サイトではなく、インターネットに接続できなかったというエラーメッセージが表示された。

 電波状況を示すアイコンは感度が良好であることを示している。それなのに、繋がらない。

 この不可思議な状況に、彼女は首を傾げた。


「……そうだ、駅なら公衆電話があるかもしれない」


 そう考えると、ポケットに財布が入っているのを確かめて電車のドアを開けた。

 金属製のそこそこに重いドアがごろごろと音を立てて開くと、点滅しがちな蛍光灯に照らされた、侘びしい小さな駅のホームだった。冬の凍てついた空気が車内に侵入してくる。

 半ば予想していたとはいえ、少女は一瞬、車外に出るのを躊躇った。

 だが、電車の中で待っていても事態は動かない。勇気を出して無人のホームに降り立った。

 堅い音がして、スニーカーが乾いたホームを叩く。

 ホームには駅名表示板があるだけで、他には自販機や電車を待つベンチのようなものもなかった。隣には古びた木造の駅舎が建っていて、そこが待合室を兼ねているようだが、中にも明かりの類はない。

 駅の周囲にはこれといって目印になるようなものはなく、目に付くのはひたすらの草原。遠くに見える山の裾まで、灯りらしいものは何一つ見えない。

 まるで人の気配らしいものはまったくなかった。

 さらに、不思議なことに改札口には電子定期券用の読取機も切符の回収箱も設置されていなかった。ワンマン電車が走っているような路線なら無人駅があってもおかしくないのかもしれない。だが、この路線に無人駅があるという話は聞いたことがなかった。


「もしかして、今は使ってない駅に何かの理由で停まったとかかな?」


 だとしても、それなら何かのアナウンスがあるはずだ。

 と、少女の耳に小さな音が聞こえた。

 笛の音だ。


「誰かいる……のかな?」


 音はまだ遠いが、少しずつ近付いてきているような気もする。

 少女は改札を抜け、音のする方へと歩きだした。

 田畑の間を縫うように続く畦道をスマートフォンのライトを頼りに歩いていく。

 近付いていくに従って、笛の音は段々大きく、はっきりとしてきた。

 どうやら笛だけではなく、鼓も一緒で短い旋律を繰り返しているようだ。

 やがて、行く手に数人の人影が見えてきた。


「な、なにあれ? お祭り……?」


 少女は思わず立ち止まった。

 先頭を行くのは赤い装束に真っ赤な天狗面を着けた人物だった。右手に扇を持ち、左脇には槍を抱えている。

 舞の一部なのか、数歩進む度に右手の扇を翻し、左手の槍を回す……という所作を繰り返している。

 その後ろにはひょっとこがいて、滑稽な仕草を繰り返しながら天狗面に続いている。

 さらに後ろに囃子方が数人いて、笛や鼓を演奏している。

 天狗面は少女の前まで来ると立ち止まった。


「よう参られた。ささ、怖れることはない。楽にせい」


 天狗面はそう言って扇で少女を招いた。

 構造がメンドくさい作品ですが、いかがでしたでしょうか?

 ツッコミ、激励、要望、ツッコミ(二回目)等あればお寄せ下さい。

 あ、強制ではないですよ(笑)


 なお、作中に出てきたのは実は能面ではなく、神楽面を想定しています。

 えっ、違いがわからない?

 ごもっとも……

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― 新着の感想 ―
[良い点] 楽しかったw 冒頭の描写、謎の考察を経て、スピーディーな対決、Cパート的なラスト! ありがとうございました。
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