オクラの花とオリオン座
夏のわりに涼しい風が吹いていて、気持ちがいい。
今日は休日だ。
しかし、同僚たちと我が家でホームパーティをすることを計画していた。
今は準備に忙しい。
「ちょっとは手伝ってよ。」
主に妻が忙しいのだが。
「何を手伝えばいいのかな。」
「ホント、のんきなんだから。会社の人たちは何時ごろ来るんでしたっけ。」
「あと、四十分くらいだったかな。」
「急がなくちゃ間に合わないじゃない。ちょっと、食器並べて!」
夫婦そろって、パタパタとリビングを走り回る。
テーブルを揃えて、椅子を整えて、食べ物を盛り付けて。
着々と準備ができてきた。間に合いそうだ。
そう思っていると妻が困ったような顔を向けてきた。
「ねえ、これ見てくれない?」
サラダの大皿である。
「これ、ちょっと緑ばっかりできれいに見えないの。」
たしかに、緑ばかりで、草食動物のエサのようにも見える。
とはいえ、同僚たちもサラダごときをぐだぐだとこき下ろしたりなんかはしないだろう。あいつらはどうせ腹に入れば一緒なんだから。
「そうはいきません! せっかくの集まりなんだから、ちゃんとおもてなししないと。……赤とか黄色とかが足りないのかしら。もう、買いに行く時間もないし。」
赤とか黄色ね。何かあったかね。
「あ、そうだ。あれだ、オクラがあっただろう。ベランダのプランターで育てているやつ。」
「オクラは緑じゃないの!」
「違う違う、そっちじゃない。花の方だよ。」
「花って、食べられるの?」
妻が無邪気にも首をかしげて聞いてくる。かわいい。
「そう、食べられるよ。」
「知らなかったわ。あのハイビスカスみたいな花が食べれるのねえ。」
「そ、花だけど、オクラと同じでねばねばしてるんだよね。」
言いながら、ベランダに出て、オクラの花を三つほど採った。
そのまま、サラダの上に花びらをのせていく。
「淡い黄色がきれいね。それにしても、よく知ってたわね。私、スーパーなんかで花なんて見かけたことないわ。」
「そうだろうね。この花は一日咲いたらしぼんじゃうから。商品にはならないだろうねえ。」
「どこで、知ったの?」
「昔、近所のおじいさんにね。」
「あなたの昔の話って、聞いたことなかったわ。聞かせてよ。」
「つまんないよ。」
「私はつまらなくない。」
うーん、と悩んでいると、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。どうやら来たようだ。
「今度、教えてね。」
と言うと、妻は「はーい」と言いながら玄関に向かった。
私はサラダの皿にのったオクラの花を見た。
見ていると白髪でよく日焼けした、あのおじいさんの顔が思い浮かんだ。
橋本さんと出会ったのは、小学校の頃だった。
学校に行く道と帰る道、必ず通る小さい道があった。畑に面したその道には、ときどきおじいさんもいた。この人が橋本さんだった。
道の横の畑は橋本さんのものだったようで、たまに畑の世話をしているのも見かけていた。
正直な話、私はこの道を通るのが嫌だった。おじいさんがそこにいれば挨拶をしなければならなかったからだ。
別に橋本さんは雷おやじでもなんでもない。単に私の人見知りをする性格が原因だった。
挨拶をどのくらいの距離ですればいいのだろうかとか、速足で通り抜けたら失礼だろうかとか、そんなことばかり考えていた。
なんだかんだと考えつつも、結局は顔を合わせたら、毎回ぎこちなく挨拶をしていた。
そんな橋本さんと話すようになったのはいつだったろうか。
たしか、中学生になってからだったと思う。
あれは……そうだ、グランドゴルフだ。町内会のイベントで地域の住民を集めて公園でグランドゴルフ大会をしたのだ。グランドゴルフっていうのは、ルールや見た目としては、ゲートボールとゴルフの間みたいなやつだ。今思えば、当時不良みたいになって、ひねくれていたような連中も来ていたんだっけ。とにかく結構大きな集まりになっていた。
地区ごとの対抗戦で、私は橋本さんと同じチームだった。
始める前は、グランドゴルフを楽しみにはしていなかった。いつも休日になるとじいさんばあさんが公園を占拠してするスポーツというイメージがあったからだ。私たち子どもは野球なんかをしたかったのに、公園が空いてなくてできないなんてこともあったから、グランドゴルフにいいイメージはなかった。
今思えば、この町内会の催しは普段公園がなかなか使えない子供たちに配慮してくれたのかもしれない。
さて、グランドゴルフを始めてみると、これが単純でわかりやすく、結構面白い。何より、橋本さんが盛り上げるのが上手だった。私を始め、チームの子どもたちは、あのときに橋本さんと打ち解けたのだと思う。
グランドゴルフの結果はもう忘れてしまったが、それから学校の行き帰りに橋本さんに会うと話をするようになった。
夏ごろにオクラの花をかじらせてもらったし、じゃがいもの花が白いことやキャベツや白菜の花が黄色いことについても話をした。ゴーヤが熟すとかぼちゃのようなオレンジ色になったことに気づくと、これも食べられるんだと、熟して弾けたゴーヤの中にある、真っ赤でとろみのあるゴーヤの種も舐めさせてもらった。あんなに苦いゴーヤからこんなに甘い種ができるのかと驚いた。冬には、パンパンに膨らんだ大根ももらった。
少しずつ少しずつ、いろいろなことを話した。懐かしい思い出だ。
ホームパーティはお酒が入っていることもあって、なかなか華やかになっていた。オクラの花を使ったサラダはみんなの目を引いたようで、物珍しさから真っ先に空になった。「これ、ほんとにねばねばしてる!」とか、「うわ、ハイビスカスみたいなのにギャップが!」とか、嬉しい反応をしてくれていた。
何より、妻が上機嫌だ。お酒が入っていることもあるだろうが、さっきから「ありがとうありがとう」と言いながら、私の左腕に抱き付いている。私も上機嫌だ。
独身の同僚が「なんでお前ばっかり! 奥さん俺も可愛がってよ!」とけしからんことを言っているが、妻が「だめー」と言いながら、私の腕をさらにキュッと掴むのがたまらなくかわいい。
時間は過ぎ、同僚たちはタクシーを呼んで帰っていった。妻も酔いが少し覚めてきたようで、先ほどのことを恥じらって少し赤くなっている。これもまたかわいい。
「もう少し飲みたいんだけど、いいかな。」
「私も?」
「もちろん。ちょっとベランダで飲もうよ。」
私は椅子を二つベランダに出すと、乾きものと酒の入ったグラスを持って椅子に座った。隣の椅子に妻も座る。
「星がきれいね。」
「今日はよく見えるね。……でも、今日はあれがないなあ。」
「あれって何?」
「オリオン座。星座って、あれだけしか知らないんだよね。」
「それも近所のおじいさんに教えてもらったの?」
「いや、逆だね。オリオン座だけ、おじいさんに教えてあげた。」
「あら、どこで星座なんて知ったの? 学校の授業?」
「学校の星座の授業はまったく覚えてないなあ。だってさ、星は昔からそこにあるわけだろ。それに人間が後付けして星座の名前を呼んでいる。そんな人間の勝手でこじつけたもの勉強しなくてもいいじゃないか。」
「全然ロマンがないのね。」
妻が冷めた顔で言った。
「でも、オリオン座は覚えてるんでしょ? それはどうして。」
「単純に好きな映画に出てたからなんだけどね。宇宙人の出てくる話で、そいつが言うわけだ。『お、オリオンのベルト……!』って。」
宇宙人のセリフの真似をすると、妻はくすくすと笑ってくれた。
そう、あのときもそんな感じで言ったんだったな。
中学生になって、入っていた野球部の練習が遅くなることが多くなった。
冬のある日、暗くなった道を帰っていると、例の道に橋本さんがいた。橋本さんは畑を囲っているブロック塀に腰かけて星空を見上げていた。
「こんばんは。」
「おお、こんばんは。練習だったのかい? 精が出るねえ。」
「星、好きなんですか?」
「こうやって、ぼーっと見上げているとなんだか落ち着いてね。」
「どれがどの星座なんですか?」
「せいざ? ああ、星座か。すまんねえ。一つも知らんのだよ。星座なんて人間が勝手につけたもんだろう? 重要な気がしなくてね。」
「たしかにそうですね。」
「君はどれか知ってるの?」
「一つだけ。えーっと、あ、あった。あの三つ並んでいるやつわかりますか?」
「お? おお、おお、見つけた。」
「それを中心にして、砂時計みたいな形に周りの星を繋ぐんです。」
と、私はジェスチャーを交えて言った。
「あ、わかったぞ。あれだね。なんて名前なんだい?」
「オリオン座です。」
「ほーう、ビールみたいだね。」
「ビール?」
「はは、君には早かったね。それにしてもなんで知ってるんだい?」
「この間見た映画に出てきたんですよ。こう、宇宙人が『お、オリオンのベルト……!』って、言うシーンがあって。」
「ああ、見たよそれ。なるほど。あの映画の星座はこれだったのか。……そういえば、君は風呂に入った方がいいね。今日はもう遅いよ。」
「そうですね。また明日。」
「ああ、お疲れさん。」
「それから、空を見上げる度にオリオン座を探すようになったって、橋本さん言ってたなあ。」
「ふーん。ねえ、地元はそんなに星が見えるの?」
「そうだね。ここよりきれいに見える気がするな。街灯が全然ないからさ、地元の方は。」
「今度、連れていってね。」
「そうだね。たまには行きたいな。」
「あと、」
「うん?」
「私の地元に合わせて住んでくれて、本当にありがとう。」
「いいんだよ、うちの親は転勤ばかりだったから慣れてるよ。」
「子どもが、できたらさ。」
「子どもができたら?」
「その、オクラの花とかゴーヤの種の話とか、オリオン座が出てくる映画とか、そういう話も子どもとしたいね。」
「そうだねえ。面白がって聞いてくれるといいけど。」
「私は面白かったよ。」
「ありがとう。」
「……。」
「……。」
心地よい静けさが周りを包む。
「あの、」
「どうしたの?」
「今日の片付けは明日しましょう。」
「そうする?」
「今日はもう寝ましょう。」
「わかった。じゃあ、これを飲んだら寝るよ。」
「先に寝室にいるからね。」
頬を赤らめて言う彼女が本当に愛しい。
私はグラスの中の酒を一息に飲み干すと、もう一度星空を見上げた。
橋本さんは元気だろうか。
また今日みたいな星のきれいな日には畑を囲っているブロック塀に腰かけて、ぼんやりと星空を眺めているのだろうか。
今日は見えないオリオンを頑張って探しているかもしれない。
想像すると少し笑えた。
さてと。
彼女が待っている。
私はベランダから戻り、寝室に向かった。
昔を思い返すと胸が苦しくなります。昔に戻りたいとは思いませんが、いいこともいっぱいあったなあと懐かしくなります。
作中の野菜の話は全部本当です。オクラの花もオレンジ色のゴーヤも食べることができます。お試しあれ。