見えない恋人
彼女の第一印象は、まさに最悪だった。
「はじめまして。今日からよろしくお願いします」
「……………め……て…………ら………ま……」
返してもらった挨拶はほとんど聞きとれなかったし、笑顔なんてものもなかった。電池の切れかけたロボットが、死力を振り絞ったような動作。そんな印象だった。
可愛いのにもったいない、と思った覚えがある。そう、顔は可愛かった。が、入社二年目の(つまりはペーペーの)俺が見ても、『どうして採用されたんだ?』と思えるくらい愛想がなかった。ここの仕事は事務職だからとか、そういうことを考慮しても酷い。クラスに一人はいる『ほとんど話さないタイプの子』に輪をかけたような彼女は、職場で友達ができることもなく、毎日淡々と仕事をこなしていた。
当初こそ職場内で話題になったものの、あまりにもいじりがいがなさすぎて、彼女の無口かつ無表情っぷりはそのうちスルーされるようになった。
「……銀シャリおにぎりが好きなの?」
思い切って彼女に訊いてみたのは六月。というのも、彼女は入社してから二ヶ月間、具の入っていない(海苔もまかれていない)銀シャリおにぎりを自分のデスクで食べ続けていた。昼食は決まって、コンビニの銀シャリおにぎり二つ。それ以外のものを食べている彼女を、誰も見たことがない。これも最初こそ話題になったものの、スルーされるようになっていた。
「…………」
永遠のように長い、無言の時間が続いた。彼女はおにぎりを食べる手を止め、こちらを見たまま動かない。俺は俺でなんとなく動けなくなってしまい、俺と彼女、二人の空気と時間が凍った。
再び動き出したのは彼女。無表情のままでおにぎりと俺を交互に見比べ、やがて小さく口を開けた。
「…………ので」
「え?」
「おにぎりの具を選ぶのが、面倒なので」
どういう理由だ。本当にどういう理由だ。具を選ぶのが面倒というのは分からなくもないが、それでも普通、具の入ったおにぎりで固定しないか? 鮭おにぎりとか、無難なものは沢山あるだろうに。
話は終わっただろうと言わんばかりに、彼女は昼食を再開する。俺は気まずさを感じながら、持参していた弁当を片手に、隣のデスクに腰かけた。ちなみに、彼女の隣のデスクは俺の友達のデスクで、弁当一つ置くのが精一杯なくらいに散らかっていた。
彼女が俺の方をちらりと見る。……無表情すぎて、何を考えているのか分からない。
「えーっと。もしかして俺、邪魔?」
「………………いえ」
「ここで食べても大丈夫かな?」
「どうぞ」
……しまったものすごく気まずい。遊びに誘える雰囲気でもない。いや別にそういう意味で近づいた訳じゃないが、いやでもやっぱりちょっと色んな意味で気になっていたというか、いやでも別にそんな、
「――……あ」
色々なことを考えながら弁当のふたを開けた俺は、硬直した。二段弁当のはずなのに一段しかない。そのうえ、白ご飯しか入ってない。つまり、おかずの段を忘れた。ついでにふりかけも忘れた。一人暮らしなので、おかずもふりかけも忘れたのは間違いなく俺だ。責める相手は自分しかいない。馬鹿だ。正真正銘の馬鹿だ。
彼女がこちらに目をやったのが分かる。俺は変な汗をかきながら、彼女に向かって笑った。
「えーっと。俺も白ご飯が好きなんだきっと。あはは……」
「…………」
一瞬。本当に一瞬だけ、彼女は笑った。
けれどその後は無表情のまま、無言でおにぎりを食べていた。
それから何度か、昼食を一緒に食べた。
彼女はやっぱり銀シャリおにぎりだったし、会話が弾むわけでもなかった。
俺の方からどうでもいい話を切りだして、彼女は明らかに適当な相槌を打つ。
ただ、それがどうしてか心地よかった。
なんで? と訊かれると全く分からない。
ただ、どうしても気になるものがあった。ひっかかるような、惹かれるものがあった。
その正体も分からず、俺は彼女に告白した。八月の蒸し暑い夕方。場所は、職場から近い喫茶店だった。
「……………………」
銀シャリおにぎりについて訊いた時よりもさらに長い沈黙が続いた。近頃、少しだけ話すようになっていたので(というか、こちらが一方的に話してるだけなんだが)、もしかしたら……なんて思っていた自分の考えは思いっきり的外れだったのだと確信した。彼女の顔には、『どうやって断ろう』という文章がくっきりと浮かんでいる。失敗した。確実に失敗した。少しでも好意を持ってくれてるんじゃないかなんて、自信過剰もいいところだ。
彼女は俺からふっと視線をそらすと、不明瞭な声で呟いた。
「――……見えなくなると、嫌なので」
「見えなく、なる?」
訳が分からない。何が見えなくなるんだろう。
彼女はしばらく考え込んでから、再び口を開いた。
「あなたに問題がある訳ではなく。……私に、致命的な問題があります。だから、誰かとお付き合いすることはできません」
時間をかけて推敲した割には、単語を並べたような固い文章だった。俺は首をかしげる。――致命的な、問題。
「問題なんて、誰でも抱えてるんじゃないかな」
「…………」
「言ってくれないと分からないよ。もしかしたらその問題は、自分にとっては重要でも、傍から見たら些細なことかもしれないじゃないか。それに、二人でなら解決できることかもしれない」
そう言った途端、彼女の顔つきが変わった。いつもの無表情を脱ぎ捨てた彼女は、怒りを露わにしていた。ただその怒りが、俺に向けられているのか、それとも他の何かに向けられているのかは分からなかった。
「――家族にも友達にも見捨てられて、諦めるしかない日々を過ごす人間の気持ちが分かるの?」
彼女の言葉に、俺は沈黙した。誰からも見捨てられるような問題を、彼女が抱えている? 例えば社交的でない彼女の性格の件なのだとしても、誰からも見捨てられるなんてことはないはずだ。
きっと考え過ぎだ。彼女の。彼女が――
「私にはもう、家族も友達も『見えない』。そんな人間と、誰が付き合ってくれるの」
「え?」
言葉の意味が分からなくて、俺は間抜けな返事をした。
――家族も友達も『見えない』。
まるで堰が切れたかのように、彼女は話しだす。彼女の言う、『致命的な問題』を。
「いつからそうなったのか、明確には覚えてない。原因も分からない。けれどある日突然、家族の姿が見えなくなった。家族が消えたわけじゃない。置いて行かれたわけでもない。家族は私のそばにいて、けれど私は『認識』できなかった。見えないし、聞こえない。文字を書いてもらっても、私には白紙にしか見えない。メールしてもらっても、私の携帯には届かない。――家族には、私の姿が見えている。けれど私は、家族がそこにいることを『認識』できないの。そんな状態で、コミュニケーションなんてとれるはずがない。……そのうち、家族は私の事を避けるようになった、みたい。見えないから分からないけれど」
少しずつ、彼女の息が荒くなっていく。彼女は両手で胸を押さえながらも、話を続けた。
「友達もそうだった。見えなくなって、聞こえなくなって。……不気味でしょう、そんな友達。当然、私は友達をなくした。――そこで、私は気付いたの。私は、『好きな人間を認識できなくなってしまう』んだって」
いつも以上に饒舌な彼女を前に、俺は言葉を失っていた。そんな非現実な話、と言って笑い飛ばしたかった。けれど、切迫したその口調と空気が、この話は本当なのだと伝えていた。
「見えなくなる人間のラインは、曖昧なの。『ある程度好きなだけ』なら、見える場合もある。けれど、……家族、親しい友人、恋人なんかは確実に見えない」
――恋人が、見えない。
「逆に、一度見えなくなった人間でも、再度認識できるようになったりもする。自分の中で『特別好きだった人間』から『普通に話す程度の人間』という意識になった場合、その人間は認識可能になる。……そう、誰とも親しくならなければ、誰かが見えなくなるなんてこともないの。――だから」
だから、の次は馬鹿な俺にも予想できた。そう、だから彼女は。
「だからなるべく誰とも話さないようにした。愛想を振りまくのも辞めた。むしろ、嫌ってもらえるように努力した。誰かを好きにならないように努力した。――見えなくなってしまうのが、嫌だから」
だから、付き合えない。そう締めくくると同時に、彼女は泣き崩れた。
ごめんね、ごめんね。きっともうすぐ、あなたの姿も見えなくなってしまうの。好きになっちゃだめだって、あれほど自分に言い聞かせたのに。だめだった。ごめんね。きっと見えなくなる。怖い。怖いんだ。あなたが見えなくなったら。
そしたら、私はまた一人ぼっちだから。
二人でなら解決できることかもしれない。
数分前にそんなことを言った自分を殴り飛ばしたかった。
彼女は泣き続けている。けれど、泣きやんでほしいとは思わなかった。
誰にも好かれないように、好きにならないように、感情を出さないように。
一体どれほどの歳月を、彼女はそうして生きてきたんだろう。今までを、そして、これからも。
「――……もしも」
俺は馬鹿で、言葉を選べるくらいの余裕もなくて。
だから、本心を伝えるしかなかった。
「もしも明日、君が俺のことを認識できなくなったとしても。――それでも、俺は君の事が好きだから」
家族の姿も友達の姿も認識できない。
けれどそれを自覚しているということは、『好きな人間の記憶』は残っているということだ。
――ならば、
「それだけでも。俺の気持ちだけでも、覚えていてほしい」
ひんやりとした空気が部屋に入り込んできて、俺はベランダへ向かった。十月にもなると、朝は寒い。秋特有の澄んだ空気は好きだが、ベッドで眠っている彼女が風邪をひくと困る。俺は一度深呼吸をして澄んだ空気を堪能してから、ゆっくりと窓を閉めた。――が、立てつけが悪い窓は予想以上に大きな音を立ててしまう。自分でも驚くくらいに、大げさな音を。
「…………」
背後で、彼女の動く気配がした。どうやら起こしてしまったらしい。
俺は、これから彼女に訊かれるであろう事と、それに対する返答を思い浮かべた。
毎日毎日繰り返す、そのやりとりを。
ゆっくりと目を開けた彼女は、緩慢な動作で部屋を見渡した。やがて部屋の隅に立っている俺の存在に気付き、眠そうな目をしたまま首をかしげた。
「――おはよう」
先に挨拶をするのはいつも俺で、彼女は事務的に「おはようございます」と返す。彼女はその後、言いにくそうに口をもごもごさせながら俺に向かって質問をする。毎日、毎日。
「……すみません。あなたは誰ですか」
誰ですか。誰ですか。あなたは、誰。
俺は笑う。その笑顔の意味を、彼女がどう捉えているのかは分からない。
俺が告白した二週間後、彼女は職場で首吊り自殺を図った。
首を吊った数分後、上司に発見されて命は助かった。ただ、脳に後遺症が残った。
彼女は。
これまでの記憶のすべてを、失くした。
更に、記憶を保持することが出来なくなった。
毎日、――早ければ数十分で、その時起こった出来事を全て忘れてしまう。
全ての記憶を失くした彼女は、家族や友人の姿が見えるようになった。
忘れることによって、『好き』だという感情を失くしたから。
記憶を保持できなくなることで、『見えなくなる人』もいなくなった。
好きだという感情も、保持できないから。
毎日毎日。『調子の悪い日』は数十分置きに。
「……誰、ですか」
不安げな顔で、彼女は俺に訊いてくる。
彼女には、俺の姿が見えている。見えなくなることも、ない。
俺の事を好きになってくれることも、きっと二度とない。
――これが彼女の望んでいたことなのか。幸せなのか。
いくら考えても分からない。けれど一つだけ、はっきりしていることがある。
だからそれだけは、はっきりと答える。
「俺は、君に片思いしてる人だよ。見えなくなっても、忘れられても、それは変わらないんだ」
そう答えて、笑いかける。毎日でも、何度でも。