さようならとおかえり
彼の声はもう聴こえない。
解っているのに、彼の声が今にも聞こえてくるような気がして、私は此処を離れることが出来ない。
彼の温もりはもう伝わらない。けれど彼の匂いだけが、未だにこの場所に残っているから、私は留まってしまう。
彼はもう此処には帰ってこない。でも彼がスグにでも目の前の扉を開ける気がして、私は此処で待っている。
だから、まだ彼が生活をしていた頃の、面影が残る部屋の中で、ひたすらに私は待ち惚けをしている。彼のベッドに横たわって、今も残る数少ない彼を感じなら、彼が帰ってくることを祈っている。
横たわって眺める部屋の中央のテーブルには、一本のワインボトルと、二つのグラスが置いてある。それは私が彼と飲もうと思って買ってきた。
でも、結局今日まで私が一人で飲み続けた。夜になるたびに二つのグラスにワインを注ぎ、朝方に一人で二つのグラスを手にとって飲み干す。
そうやって一人で二人のグラスに分け合って、私の中で一つにする。
その度に涙が頬を伝って床に落ちる。でも、その雫も昼になれば渇いて、私が来たときと同じ色の床に戻ってしまう。変わるのはワインの中身と、ベッドのシーツのしわだけ、 そして私に残るのは心に空いていく穴だけだった。
ドン、ドンと不意に玄関の方から音が鳴った。一瞬私は彼が帰ってきたのかと思った。でもスグに違うなと、考え直した。だって彼が帰ってくるとしたら、窓からしかないのだから。
彼と私が別れたのは本当に唐突だった。私はあの日m約束もせずに昼に訪れた。そしてベルも押さないで合鍵で中に入った。ただ彼が驚く顔が見たかったからそうした。
それなのに驚いたのは私だった。彼は窓から身を乗り出していて、私は一瞬何が何だか分からなくて頭が真っ白になった。
それでも思わず「何してるの?」って彼に尋ねた。そしたら彼は驚いたような、困ったような、悲しいような笑みを浮かべて、「さようなら」と言って飛んでいってしまったのだから。
あの時に揺れていた白いカーテンのことは良く覚えている。そしてそこから見えた、透き通るような青い空も、だけど飛んで行ってしまった後の彼のことは思い出せなかった。
あの後どうなったのかは分からない。でも彼がもう戻ってこない。ということだけは私の仲の直感は確信していた。
それなのに、何故。
そう確信しているくせに私の直感はスグ近くに彼がいる様に感じさせる。でも、それを感じてどれだけこの部屋を探し回っても、彼が現れることは無かった。
ドンドン、まだ玄関の奥からは音が聞こえる。彼意外と何て今は逢いたくないのに、その音は私を此処から連れ出そうとするかのように鳴り響く。
それがどうしようもなく怖くて、気付けば私は泣いていた。
「ねぇ怖いよ。助けてよ。勝手にどっか行かないでよ。一人にしないでよ。やだよ、寂しいよ。怖いよぉ」
溢れ出した涙は止まらなくて、頬を伝っては床に落ちていく。悲しみだけが私の中を満たしていく。
あぁ、そうだ。此処から出される前に彼のところへ行かないと……
「あの窓の外へ、行かないと」
ゆっくりとあの白いカーテンで閉ざされた窓へ歩いて行く。
バンっと大きな音を立てて、玄関の扉が開く音が聞こえた。私は急いでカーテンを開いた。
「……え、なんで」
そこに広がっていたのは真っ黒な雲だった。とても彼が飛び立った場所には見えなかった。そして私が逢いたいと思っている人とは、到底逢えるとは思えない空だった。
もう私にはその場で泣き続けることしか出来なかった。
「お前何してんだよ」
後で聞きなれた声がした。
「たくよぉ。寝ていてもお前の声が聞こえるから、戻ってきてやったよ」
聞き間違えるはずの無い彼の声だった。
(おかえりなさい)
そう笑顔で言えた気がした。
読んでくださった方ありがとうございます。
もし、悲しみが伝わったのならとても嬉しいです。
でぁ、またいつか。