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「君の席はない」と婚約者に笑われた夜会で、王妃様が隣の席を空けてくださいました 〜殿下、そこは本来“次期王妃”の席です。あなたの席は、もう王宮にはありません〜

作者: たっくん
掲載日:2026/05/23

「――リディアナ。君の席はない」


 王太子レオンハルト殿下は、そう言って笑った。


 白大理石の床に、楽団の奏でるワルツが滑っていく。天井から吊るされた水晶灯は眩しいほどに輝き、今宵の王宮大広間には、王都中の貴族が集まっていた。


 春告げの夜会。


 それは本来、王太子であるレオンハルト殿下と、その婚約者である私――リディアナ・クラウゼル公爵令嬢が、初めて正式に並んで座るはずの夜会だった。


 王妃様の隣に設けられた、次期王妃の席。


 十年前、まだ私が八つだった頃から、その席は私の未来として語られてきた。


 歩き方も、笑い方も、紅茶の温度も、国賓の名も、地方貴族の家系も、飢饉の年にどの領地がどれほど穀物を出せるかも。


 私はすべて覚えた。


 覚えなければならなかった。


 王太子妃になるとは、綺麗なドレスを着て王子様の隣に立つことではない。国の痛みを、王家より先に知ることだと、王妃様は教えてくださったから。


 けれど今夜。


 その席には、知らない少女が座っていた。


 淡い桃色のドレスを着た、男爵家の令嬢ミリア・ロゼット。


 彼女は私を見るなり、怯えたように肩を震わせ、レオンハルト殿下の袖を小さく握った。


「リディアナ様……ごめんなさい。わ、私、殿下にここへ座るようにと言われただけで……」


「謝ることはない、ミリア」


 殿下が、彼女を守るように一歩前へ出る。


 その仕草に、広間の空気が揺れた。


 ああ、なるほど。


 今夜は、そういう夜なのだ。


 私はゆっくりと視線を巡らせた。


 公爵家の令嬢が立ち尽くす様を、好奇心で眺める者。扇の陰で笑う者。気まずそうに目を伏せる者。


 誰も、私に声をかけなかった。


 この十年、夜会で誰より早く来て、席次を確認し、招待客の顔色を読み、失礼のないように取りなしてきた私に。


 王太子が機嫌を損ねれば、さりげなく話題を変えた。

 地方貴族が王都で孤立しそうになれば、近い趣味を持つ令嬢の輪へ招いた。

 国王陛下の体調が優れない日には、献上品の酒を遠ざけるよう侍従に伝えた。

 王妃様がお疲れの時は、音楽を一曲短くするよう楽長に頼んだ。


 そうして整えてきた夜会で、私はいま、立つ場所すら与えられていない。


「聞こえなかったのかい?」


 レオンハルト殿下は、わざとらしく声を張った。


「君の席はないと言ったんだ、リディアナ」


 笑い声が、広間の隅で小さく弾けた。


 ミリア嬢が「殿下、そんな……」と弱々しく呟く。けれど彼女の指は、殿下の袖を離さない。


 私は手袋をした指先を、そっと重ねた。


 怒りは、不思議となかった。


 胸の奥が冷えている。


 凍った湖の上に、薄い月明かりだけが落ちているような静けさだった。


「殿下」


 私は、いつものように膝を折った。


 背筋を曲げすぎず、顎を引きすぎず、声は低く、けれど広間の端まで届くように。


 王妃様から教わった礼法そのままに。


「私の席がない、というのは、殿下のご判断でございますか」


「ああ。そうだ」


 殿下は満足そうに頷いた。


「君は昔から冷たい。完璧な礼儀、完璧な微笑み、完璧な返答。だが、そこには心がない。私の隣に必要なのは、君のような堅苦しい女ではない」


 ミリア嬢の頬が赤らむ。


「ミリアのように、人の痛みに涙できる女性だ」


 私は静かに瞬きをした。


 人の痛みに涙できる女性。


 その言葉に、少しだけ笑いそうになった。


 殿下が十三歳の冬、地方視察から戻ったあと高熱を出された夜、暖炉の前で薬湯を作ったのは誰だっただろう。


 殿下が初めて国政会議で失言し、北部侯爵を怒らせた時、三日かけて謝罪文を整えたのは誰だっただろう。


 殿下が剣術大会で負けた朝、敗者を称える言葉を紙に書いて、上着の内ポケットに忍ばせたのは誰だっただろう。


 彼はたぶん、知らない。


 知ろうともしなかった。


 だから私は、微笑んだ。


「承知いたしました」


 その言葉を聞いて、殿下の表情が一瞬だけ緩んだ。


 私が泣き崩れると思っていたのかもしれない。

 怒って声を荒らげると思っていたのかもしれない。

 あるいは、彼にすがると思っていたのかもしれない。


 けれど、私はただ一歩下がった。


「では、私は失礼いたします」


「待て」


 殿下の声が、少し鋭くなった。


「何だ、その態度は。君は婚約者の座を失うのだぞ」


 婚約者の座。


 その言葉に、広間の空気がまた揺れる。


 私は殿下を見上げた。


「殿下。私はまだ、婚約破棄を告げられておりません」


「ならば今告げる。リディアナ・クラウゼル。私は君との婚約を――」


「レオンハルト」


 その声は、大広間のざわめきを一瞬で沈めた。


 静かで、低く、誰よりも美しい声。


 王妃セレスティア様だった。


 玉座に近い上席から、王妃様はゆっくりと立ち上がられた。


 銀糸を織り込んだ深青のドレスが、水晶灯の光を受けて夜空のように輝く。


 その瞬間、貴族たちは一斉に頭を下げた。レオンハルト殿下でさえ、わずかに顔色を変える。


「お母様、これは私の問題です」


「いいえ」


 王妃様は、はっきりと告げた。


「これは王家の問題です」


 広間の奥で、誰かが息を呑んだ。


 王妃様の視線が、ミリア嬢の座る席へ向かう。


「ロゼット男爵令嬢。そこはあなたの席ではありません」


 ミリア嬢の顔から血の気が引いた。


「あ、あの、私は殿下に……」


「ええ。存じています。ですから、あなたではなく、命じた者の責任を問います」


 王妃様はそこで、私を見た。


 先ほどまで凍っていた胸の奥に、ほんの少しだけ温かいものが落ちる。


 王妃様は微笑まれた。


 それは夜会用の微笑ではなかった。


 十年前、初めて王宮に上がった私が緊張で紅茶をこぼした時、「大丈夫よ、最初の失敗は王宮に預けていきなさい」と言ってくださった時と同じ、柔らかな微笑だった。


「リディアナ」


「はい、王妃様」


「こちらへいらっしゃい」


 私は一瞬、足を止めた。


 王妃様は、ご自分の隣に置かれていた椅子へ手を添えた。


 大広間の視線が、その一点へ集中する。


 王妃様の隣。


 王家の紋章が刺繍された、白銀の椅子。


 今夜、私のために用意されていたはずの席。


「あなたの席は、ここです」


 ざわめきが波のように広がった。


 レオンハルト殿下が、信じられないという顔で王妃様を見る。


「お母様……?」


 王妃様は、もう殿下を見ていなかった。


 ただ私だけを見て、静かに言った。


「次期王妃の席を、空けてあります」


 その瞬間。


 レオンハルト殿下の顔から、笑みが消えた。


「次期王妃の、席……?」


 レオンハルト殿下の声は、ひどく乾いていた。


 先ほどまで大広間を支配していた余裕は、もうどこにもない。唇だけがかすかに動き、視線は王妃様と私の間を行き来している。


 私は王妃様のもとへ歩いた。


 一歩。


 また一歩。


 白大理石の床を踏むたび、衣擦れの音がやけに大きく響く。


 誰も喋らなかった。


 ほんの少し前まで私を笑っていた貴族たちでさえ、今は扇を閉じることも忘れている。


 王妃様の隣へ着くと、侍女長のエレナが音もなく椅子を引いてくれた。彼女とは、王宮に来た初日からの付き合いだ。


 あの頃の私は、王宮の廊下の長さすら覚えられず、控え室へ戻るたびに迷っていた。


 エレナはいつも表情を変えずに、私の半歩後ろへ立ち、「こちらでございます」とだけ言った。その声に、何度救われただろう。


 その彼女が今、ほんのわずかに目元を和らげている。


「お座りなさい、リディアナ」


「……はい」


 私は王妃様の隣に腰を下ろした。


 途端に、大広間の景色が変わった。


 立たされていた時には、私を囲む壁のように見えた人々が、今は遠くに見える。水晶灯の光も、楽団の沈黙も、膝の上に重ねた自分の指先も。


 すべてが、ひどく静かだった。


 王妃様は広間を見渡された。


「皆様、少しだけお耳をお貸しください」


 その声に、誰も逆らわない。


 王妃セレスティア様は、この国で最も静かに人を従わせる方だった。


 怒鳴らない。

 脅さない。

 けれど、決して退かない。


「今宵は春告げの夜会。本来ならば、次代を担う若者たちの門出を祝う場でございました」


 王妃様の視線が、レオンハルト殿下に向かう。


「けれど残念ながら、我が息子はこの場の意味を理解していなかったようです」


「お母様!」


 殿下が声を荒げた。


「私はただ、自分の隣にふさわしい女性を選んだだけです!」


 ミリア嬢がびくりと肩を震わせる。


 殿下はそれに気づき、慌てて彼女の手を取った。


「ミリアは優しい。純粋で、私を心から愛してくれる。リディアナのように冷たく、計算高く、王妃になるためだけに私へ微笑む女とは違う!」


 大広間の空気が凍った。


 王妃様は怒らなかった。


 ただ、少しだけ目を伏せられた。


「レオンハルト」


 その声は、先ほどよりも静かだった。


「あなたは、リディアナが何のために王妃教育を受けてきたと思っているのですか」


「私の妃になるためでしょう」


「違います」


 即答だった。


 殿下の目が見開かれる。


 私も、思わず王妃様を見上げた。


 違う。


 その一言は、私の十年にも向けられているようで、胸の奥が小さく揺れた。


 王妃様は、ゆっくりと言葉を続けた。


「リディアナが学んできたのは、あなたの妻になるためではありません。この国を支えるためです」


 誰かが、息を呑んだ。


「王太子妃とは、王太子の飾りではありません。次の王妃です。国王の隣に座る者ではなく、時に国王を諫め、時に国王より先に民の痛みを見る者です」


 王妃様の声は、広間の隅々まで届いていた。


「その席は、恋で座る場所ではありません」


 ミリア嬢の顔が、さらに青ざめる。


「しかし、私は王太子です!」


 レオンハルト殿下は叫んだ。


「王太子である私が婚約者を選んで何が悪い! 私がリディアナを不要だと言ったのです。ならば、彼女に次期王妃の席など――」


「あなたが王太子でいられる理由を、覚えていますか」


 王妃様の一言で、殿下の声が止まった。


「……何を」


「十年前。あなたが王太子に内定した日、同時にリディアナとの婚約が結ばれました」


「それが何だというのです」


「その婚約は、あなたの願いで結ばれたものではありません。王家とクラウゼル公爵家、そして王国評議会による三者契約です」


 王妃様が片手を上げると、控えていた宰相ベルグラード卿が一歩前に出た。


 老齢の宰相は、銀縁の眼鏡の奥からレオンハルト殿下を見つめ、重々しく頭を下げた。


「殿下。正式な婚約証書には、こう記されております」


 宰相は侍従から差し出された巻物を受け取った。


 古い羊皮紙に、王家の封蝋とクラウゼル公爵家の紋章。


 それを見た瞬間、数人の貴族が顔色を変えた。


「第一条。王太子レオンハルト殿下は、クラウゼル公爵家令嬢リディアナを将来の王太子妃候補として遇し、彼女が王妃教育を修了した暁には、王国評議会の承認をもって次期王妃として認める」


 宰相の声は淡々としていた。


「第二条。王太子が正当な理由なく婚約を破棄し、または公の場において婚約者の名誉を損なった場合、王国評議会は王太子の資質を再審査する」


 レオンハルト殿下の頬がひきつった。


「第三条。リディアナ・クラウゼルが王妃教育を修了し、王妃および評議会の承認を得た場合、その地位は王太子の私情によって取り消されない」


 広間に、低いざわめきが広がった。


 ミリア嬢が、小さく「そんな……」と呟く。


 殿下は彼女の手を握ったまま、信じられないものを見るように宰相を睨んだ。


「馬鹿な。そんな話、聞いていない」


「お伝えしました」


 宰相は淡々と答えた。


「殿下が十五歳の誕生日を迎えられた翌月。王位継承法の講義にて」


「そんな昔のことなど覚えていない!」


 その一言に、広間の空気がまた変わった。


 覚えていない。


 王太子が、王位に関わる契約を。


 自分の婚約者が十年かけて背負ってきたものを。


 覚えていない、と。


 私は膝の上の指に力を込めた。


 怒りではない。


 悲しみでもない。


 ただ、腑に落ちた。


 ああ、彼は本当に知らなかったのだ。


 私がどれほど覚えてきたかを。


 彼の好きな菓子も、苦手な香草も、剣術で負けた日の言い訳も、会議で眠くなる時に右手の親指をさする癖も。


 私は覚えていた。


 けれど彼は、私の十年を何一つ覚えていなかった。


「リディアナ」


 王妃様が、私の名を呼んだ。


「はい」


「あなたは本日をもって、王妃教育の全課程を修了しています」


 私は息を止めた。


 王妃様の手が、そっと私の手の甲に重なる。


「本当は、夜会の終わりに発表する予定でした。あなたがこの十年、王宮のため、民のため、そして未熟な王太子のために尽くしてきたことを」


 広間の視線が私へ集まる。


 私は、どういう顔をすればいいのかわからなかった。


「北部飢饉の救済案。東街道の治安改善。港湾税の調整。孤児院への王家支援制度。昨年の疫病対策における薬草流通路の確保」


 王妃様は一つずつ挙げていく。


 それは、私が夜更けまで机に向かい、何度も数字を書き直し、宰相や各省の官吏に頭を下げながら進めてきたものだった。


 でも、それらは私の名で行われていない。


 王太子殿下の功績として、公にされてきた。


 彼の名声になるのなら、それでいいと思っていた。


 彼が王になるなら、その隣に立つ私が陰で支えればよいと思っていた。


「それらの成果により、リディアナ・クラウゼルは王国評議会の満場一致で、次期王妃にふさわしいと認められました」


 王妃様の言葉が、静かに落ちる。


「ですから、レオンハルト」


 王妃様は、初めて息子を真正面から見た。


「あなたが今日、失ったのは婚約者ではありません」


 殿下の喉が鳴った。


「あなたを王太子の席に座らせていた、最後の信頼です」


 大広間のざわめきが消えた。


 殿下は言葉を失ったまま、立ち尽くしている。


 ミリア嬢は今にも泣き出しそうだったが、その涙を気にかける者はもういない。


 王妃様は、私の隣に立ったまま、静かに告げた。


「殿下。そこは本来、次期王妃の隣に立つ者の席です」


 そして、ほんのわずかに目を細められた。


「あなたの席は、もう王宮にはありません」


 王妃様のその一言は、刃よりも静かに、レオンハルト殿下の胸を貫いたようだった。


 殿下はしばらく、何も言えなかった。


 水晶灯の光が、彼の金の髪に落ちている。


 いつもなら、その光景は絵画のように美しかった。王国の未来を背負う若き王太子。誰もがそう信じて疑わなかった青年。


 けれど今は、その豪奢な上着も、胸元の勲章も、ひどく場違いに見えた。


 彼は椅子を失った人の顔をしていた。


「……ありえない」


 やがて、殿下が呟いた。


「ありえない。私が、王宮に席を失うなど」


 彼は一歩、王妃様へ近づいた。


 周囲の近衛騎士が、わずかに動く。


 王妃様は止めなかった。


 私は膝の上で指を重ねたまま、殿下を見ていた。


「お母様、どうかしておられます。リディアナに何を吹き込まれたのですか。彼女は昔からそうだ。誰にも気づかれないところで根回しをして、周囲を自分の思い通りに――」


「レオンハルト殿下」


 声を上げたのは、宰相ベルグラード卿だった。


 老齢の宰相は、巻物を胸元に抱えたまま、深く一礼する。


「この場でそれ以上リディアナ様を侮辱なさることは、お控えください」


「侮辱?」


 殿下は笑った。


 けれどその笑いは、もう誰にも届かなかった。


「私は事実を言っているだけだ。皆もそう思っているだろう? リディアナは冷たい。いつも人を品定めするような目で見ている。何を考えているのかわからない。そんな女が王妃になれば、この国は息苦しい牢獄になる!」


 広間は静まり返っていた。


 ほんの少し前なら、誰かが同調したかもしれない。


 あるいは、曖昧に笑ったかもしれない。


 けれど今、誰も笑わない。


 殿下の視線が、貴族たちの間を彷徨う。


 北部侯爵。

 東街道を管轄する伯爵。

 港湾都市を治める子爵。

 王都孤児院の後見人を務める老伯爵夫人。


 彼らは皆、私を見た。


 そして、静かに頭を下げた。


 最初は北部侯爵だった。


「殿下。昨冬の飢饉で我が領が持ちこたえたのは、リディアナ様が一月早く穀物移送を進言してくださったからです」


 続いて、港湾子爵が口を開く。


「港湾税の調整案も、リディアナ様のものです。あれがなければ、港町の商会は三つは潰れていたでしょう」


「王都東区の孤児院への薬草配給制度もです」


 老伯爵夫人が、震える声で言った。


「私は、あの制度のおかげで助かった子どもを何人も知っています」


 ひとつ。


 またひとつ。


 私の知らないところで、私のしてきたことを覚えていてくれた人たちが声を上げる。


 私は目を伏せた。


 胸が痛かった。


 誇らしいのではない。


 嬉しいのでもない。


 ただ、ずっと王太子殿下の名の後ろに隠してきたものが、急に光の下へ引きずり出されて、どうしてよいかわからなかった。


 私は、称賛が欲しかったわけではない。


 ただ、誰かが困らなければいいと思っていただけだった。


 レオンハルト殿下が王になった時、少しでもこの国が穏やかであればいいと。


 そう思っていただけだった。


「黙れ」


 殿下の声が震えた。


「黙れ! そんなもの、すべて王太子府の功績だ! 私の名で行われたものだ!」


「はい」


 私は、初めて口を開いた。


 殿下がこちらを見る。


 私は椅子から立ち上がらず、ただ静かに彼を見返した。


「すべて、殿下のお名前で行われました」


「ならば――」


「ですから私は、一度も訂正いたしませんでした」


 殿下の言葉が止まる。


「殿下のお立場を守ることも、私の務めだと思っておりましたので」


 大広間に、重い沈黙が落ちた。


 殿下の顔に、怒りとも困惑ともつかない色が浮かぶ。


 彼はたぶん、その言葉の意味をすぐには理解できなかったのだろう。


 私が彼から奪おうとしていたのではなく。


 ずっと彼を支えていたのだと。


 ようやくその可能性に触れた瞬間、人は怒るのかもしれない。


 自分が見てこなかったものの大きさを認めるのは、あまりにも苦しいから。


「嘘だ」


 殿下は言った。


「君が、私のためにそんなことをするはずがない」


「なぜですか」


「君は私を愛してなどいなかった!」


 その声は、広間の天井に跳ね返った。


 ミリア嬢が、殿下の袖をぎゅっと握る。


「殿下……もう、おやめください」


「ミリア?」


 殿下が振り向く。


 ミリア嬢は青ざめた顔で、けれど必死に首を横に振った。


「私、知りませんでした。リディアナ様が、そのような方だなんて。殿下は、いつも……リディアナ様は冷たい方だと。殿下を縛りつけて、自由を奪う方だと……」


「それは事実だ!」


「でも」


 ミリア嬢の声が、かすかに震えた。


「今日の席も……本当に、私が座ってよい場所だったのですか?」


 殿下は答えなかった。


 答えられなかったのだと思う。


 ミリア嬢の瞳に、涙が浮かぶ。


 けれどその涙は、さきほどまでのように誰かに守ってもらうためのものには見えなかった。


「私は、男爵家の娘です。礼法も、政治も、まだ何もわかりません。殿下が『君こそ私の隣にふさわしい』とおっしゃってくださったから、嬉しくて……でも、王妃様の隣の席がどういう意味か、教えてはくださいませんでした」


 彼女の手が、殿下の袖から離れた。


 その小さな動きだけで、殿下の足元が崩れたように見えた。


「ミリア、君まで何を言うんだ」


「私……怖いです」


「怖い?」


「はい」


 ミリア嬢は私を見た。


 そして、震える膝を折った。


「リディアナ様。知らなかったこととはいえ、私はあなたの席を奪いました。申し訳ございません」


 広間がざわめく。


 殿下が愕然とした顔で彼女を見下ろしている。


 私はしばらく、ミリア嬢を見つめた。


 桃色のドレスの裾が床に広がり、その上に彼女の涙が一粒落ちる。


 彼女はたしかに、私の席に座った。


 けれど、彼女がその席の意味を知らなかったのなら。


 利用された愚かさは責められても、彼女だけを断罪するのは違う。


 私はゆっくりと立ち上がった。


 王妃様の隣から三段だけ降り、ミリア嬢の前に立つ。


 彼女の肩がびくりと震えた。


 私は手を差し出した。


「お立ちください、ロゼット男爵令嬢」


「でも、私は……」


「謝罪は受け取りました」


 ミリア嬢が顔を上げる。


「席の意味を知らなかったことは、これから学べばよろしいかと」


「……許して、くださるのですか」


「許す、というより」


 私は少しだけ考えた。


 怒っていないわけではない。


 傷ついていないわけでもない。


 けれど、ここで彼女を踏みにじれば、私は私が嫌いだったものと同じになる。


 人の居場所を奪って笑う人間に。


「あなたに怒るより先に、確認すべきことが多くございます」


 私がそう言うと、王妃様がかすかに微笑まれた。


 殿下だけが、信じられないという顔をしている。


「リディアナ……君は、なぜミリアを庇う」


「庇っているわけではございません」


「では何だ」


「順番を間違えていないだけです」


 私は殿下を見た。


「今日、私の席を奪うよう命じたのは殿下です。婚約者の名誉を公の場で損なったのも殿下です。王太子位に関わる契約を覚えていなかったのも殿下です」


 殿下の顔が赤くなる。


「リディアナ!」


「ロゼット男爵令嬢の処遇は、後ほど王妃様と評議会がお決めになること。ですが、少なくとも今この場で、最初に責任を問われるべき方は彼女ではございません」


 私は、ゆっくりと息を吸った。


 十年間、何度も飲み込んできた言葉が、喉の奥にあった。


 けれど、それを怒鳴る必要はない。


 泣き叫ぶ必要もない。


 ただ、正しい場所へ置けばいい。


「殿下」


 私は、王妃様に教わった通り、静かに微笑んだ。


「私を愛していなかったことは、罪ではありません」


 殿下の瞳が揺れる。


「けれど、私が守ってきたものを知らないまま壊したことは、王太子としての罪です」


 誰も、何も言わなかった。


 その時、大広間の扉が重々しく開いた。


 近衛騎士たちが一斉に姿勢を正す。


 入ってきたのは、深紅の外套を纏った国王陛下だった。


 病み上がりのため、今夜は遅れて出席される予定だと聞いていた。


 陛下は大広間の中央まで進み、私と王妃様、そしてレオンハルト殿下を順に見た。


「話は控えの間で聞いていた」


 低い声が響く。


「レオンハルト」


 殿下の肩が跳ねた。


「は、はい、父上」


「王太子の再審査を、今この場で命じる」


 広間が大きく揺れた。


 殿下は口を開いたまま、声を失っている。


 国王陛下は続けた。


「本日より、レオンハルトの王太子権限を一時停止する。評議会の審査が終わるまで、王太子府の印章、予算執行権、公式行事の代表権をすべて凍結せよ」


「父上!」


「そして」


 陛下の視線が、私へ向いた。


 私はすぐに膝を折ろうとした。


 けれど陛下は、片手でそれを止めた。


「リディアナ・クラウゼル」


「はい」


「王家は、そなたの十年に深く感謝する」


 その言葉に、胸の奥が詰まった。


「……もったいないお言葉でございます」


「今宵、そなたを辱めたことについては、王家として正式に詫びる」


 国王陛下が、わずかに頭を下げた。


 大広間に衝撃が走る。


 王が、公爵令嬢に頭を下げた。


 その意味を、ここにいる全員が理解していた。


 私は声が出なかった。


 十年。


 長かった。


 長かったのだと、今になって思う。


 けれど泣くわけにはいかない。


 私は王妃様の隣に座る者として、ここにいるのだから。


「陛下」


 私はゆっくりと言った。


「謝罪をお受けいたします」


 国王陛下は頷いた。


 そして、レオンハルト殿下へ向き直る。


「レオンハルト。今夜、そなたが空けた席は、ただの椅子ではない」


 殿下は蒼白な顔で父王を見つめていた。


「国を支える者の席だ」


 陛下の声が、静かに落ちる。


「そなたはその重さを知らぬまま、笑って蹴り飛ばした」


 レオンハルト殿下は、もう反論しなかった。


 ただ、王妃様の隣に立つ私を見ていた。


 その瞳に初めて浮かんだのは、怒りではなかった。


 たぶん、恐れだった。


 自分が何を失ったのか。


 ようやく、見え始めた人の顔だった。


夜会は、その後すぐに閉じられた。


 楽団の音は戻らなかった。


 水晶灯は相変わらず眩しいほど輝いていたけれど、誰も踊ろうとはしなかった。貴族たちは静かに頭を下げ、囁き声すら控えめに、ひとり、またひとりと大広間を去っていった。


 春告げの夜会。


 本来なら、王都の春の始まりを祝う華やかな宴になるはずだった。


 けれど今宵、人々が記憶したのは、花でも音楽でも新しい流行のドレスでもない。


 王太子が、席を失った夜。


 そして。


 公爵令嬢リディアナ・クラウゼルが、王妃の隣へ座った夜。


 私は控えの間で、静かに紅茶を飲んでいた。


 王妃様が用意してくださったものだ。


 茶葉は、南部の温暖な丘陵地で採れる春摘み。香りは軽く、渋みは少ない。殿下が昔、「薄すぎる」と言って残したものだった。


 私はその味が好きだった。


 口に含むと、張りつめていた胸の奥が、少しずつほどけていく気がする。


「疲れたでしょう」


 王妃様が、向かいの椅子に腰を下ろされた。


 夜会では凛と背筋を伸ばしていた方が、今だけはほんの少し肩の力を抜いている。


「いいえ」


 そう答えかけて、私は言葉を止めた。


 王妃様の前では、嘘をつきたくなかった。


「……少しだけ」


「そう。では、疲れていなさい」


「疲れていて、よろしいのですか」


「ええ」


 王妃様は微笑まれた。


「十年分ですもの。一晩くらい、疲れて当然です」


 その優しさに、喉が詰まった。


 泣きたいのかもしれない。


 けれど涙は出なかった。


 涙の出し方を、私はいつから忘れていたのだろう。


 婚約者に嫌われていると気づいた日か。

 彼が私ではない少女にだけ柔らかく笑うようになった日か。

 それとも、彼の功績として発表された私の書類を、何度も何度も黙って見送った日か。


「リディアナ」


「はい」


「あなたは、今夜のことを復讐だと思いますか」


 私は少し考えた。


 レオンハルト殿下の蒼白な顔。

 ミリア嬢の震える手。

 貴族たちが私に頭を下げた光景。


 胸が晴れたかと問われれば、違う。


 嬉しかったかと問われれば、それも違う。


「……いいえ」


 私はカップを置いた。


「私はただ、戻るべき場所に戻っただけです」


 王妃様は満足そうに頷いた。


「それでいいのです」


 その時、控えの間の扉が控えめに叩かれた。


 侍女長エレナが扉を開け、わずかに眉を寄せる。


「王妃様。レオンハルト殿下が、リディアナ様との面会を望んでおられます」


 空気が、少し冷えた。


 王妃様は私を見た。


「断っても構いません」


「お会いします」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


 王妃様は何も言わず、ただ頷かれる。


 エレナが扉を大きく開いた。


 廊下の向こうに、レオンハルト殿下が立っていた。


 ほんの数時間前まで、王太子として大広間の中心にいた人。


 けれど今、彼の胸には王太子府の印章がない。外套の金具も外され、腰に佩いていた儀礼剣も近衛に預けられたのだろう。


 彼は初めて、ただの青年に見えた。


「リディアナ」


 私の名を呼ぶ声は、かすれていた。


「少し、話せないか」


 王妃様が立ち上がろうとしたが、私は首を横に振った。


「ここでなら」


 殿下の顔がわずかに歪む。


 二人きりでは会わない。


 その意味を、彼も理解したのだろう。


「……わかった」


 彼は数歩だけ部屋に入り、扉の近くで足を止めた。


 かつてなら、彼は当然のように私の向かいへ座っただろう。


 紅茶も出されると信じて。


 けれど今夜、彼は立ったままだった。


「私は」


 殿下は言葉を探すように視線を落とした。


「知らなかった」


「何をでしょうか」


「君が……あれほど多くの仕事をしていたことを」


「そうですか」


「なぜ言わなかった」


 私は、少しだけ瞬きをした。


「殿下は、お聞きになりませんでした」


「君が言えばよかっただろう!」


 声が荒くなる。


 けれどすぐに、殿下は自分の口を押さえるように息を呑んだ。


 私が責める前に、彼自身がその幼さに気づいたようだった。


「……すまない」


 謝罪の言葉は、思ったより小さかった。


「本当に、知らなかったんだ。君が毎朝、私より早く王宮に来ていたことも。会議の資料を先に読んでいたことも。私が読み上げた意見書を、君が書いていたことも」


 私は黙って聞いていた。


「ミリアには、私が必要とされている気がした。彼女は私を責めなかった。難しい話もしなかった。ただ、私の話を聞いて笑ってくれた」


「はい」


「君はいつも、正しい顔をしていた」


 殿下は苦しそうに笑った。


「その顔を見ると、自分が足りない人間なのだと突きつけられている気がした」


 私は、初めて少しだけ胸が痛んだ。


 それは同情ではない。


 彼の弱さを、私は知らなかったわけではなかった。


 けれど、それを私が引き受け続けることが正しいとは、もう思えなかった。


「殿下」


 私は静かに言った。


「私は、正しい顔をしていたのではありません」


 彼が顔を上げる。


「間違えないように、必死だっただけです」


 殿下の瞳が揺れた。


「王宮で失敗すれば、公爵家の娘として笑われます。王太子殿下の婚約者として失望されます。将来の王妃として不安に思われます。だから私は、いつも間違えないようにしていました」


 紅茶の湯気が、細く上がっている。


「殿下の隣で笑うために、私は泣く時間を削ってきました」


 殿下は何も言わなかった。


 言えなかったのだと思う。


「君は……私を、愛していたのか」


 その問いは、あまりにも遅かった。


 私は少しだけ視線を落とした。


 八歳の春。


 王宮の庭で、殿下が私に手を差し出したことを覚えている。


 迷子になった私を見つけて、「未来の妃が泣くな」と得意げに笑った少年。


 あの時の手は温かかった。


 私はたぶん、たしかに嬉しかったのだ。


「愛そうとしました」


 私は答えた。


 それが、一番正しい言葉だった。


「でも今は、わかりません」


「リディアナ……」


「殿下が失ったものに、私の心も含まれていたのかもしれません。けれど、それを殿下が必要としたのは、失ってからです」


 殿下の顔が、ひどく傷ついたように歪む。


 けれど私は、もうその痛みを慰めるために立ち上がらなかった。


 それは、彼自身が抱えるべき痛みだった。


「私は、どうすればいい」


 彼は呟いた。


「父上は私の権限を止めた。評議会も私を見放すだろう。ミリアも……私を見る目が変わった」


「学ばれることです」


「学ぶ?」


「はい」


 私は王妃様を見た。


 王妃様は静かに私を見守ってくださっている。


「ご自身が何を知らなかったのか。誰に何を支えられていたのか。王太子という席に、どれほど多くの手が添えられていたのか」


 殿下は呆然と聞いていた。


「その上で、評議会の審査をお受けください」


「君は……私を助けてはくれないのか」


 昔なら。


 私はきっと、助けた。


 彼が困る前に道を整え、怒られる前に書類を直し、恥をかく前に言葉を用意した。


 けれど、それでは彼はいつまでも、席の重さを知らない。


「私はもう、殿下の後ろで椅子を支える役目を終えました」


 声は震えなかった。


「これからは、ご自分でお立ちください」


 レオンハルト殿下の唇が震える。


 彼は何かを言おうとして、結局何も言えず、深く頭を下げた。


 初めて見る姿だった。


 王太子としてではなく、ただ一人の人間としての謝罪。


「……すまなかった」


 私は、その言葉を黙って受け取った。


 許すとも、許さないとも言わなかった。


 今夜すぐに答えを出す必要はない。


 彼が積み重ねなかった十年を、一言の謝罪で終わらせることはできないのだから。


 殿下が退室したあと、控えの間には長い沈黙が残った。


 王妃様が、冷めかけた紅茶を一口飲まれる。


「強くなりましたね、リディアナ」


「強くなければ、座れない席でしたから」


「いいえ」


 王妃様は首を横に振った。


「その席に座るために強くなったのではありません。あなたは、座らない選択もできるほど強くなったのです」


 私は王妃様を見つめた。


 座らない選択。


 その言葉が、静かに胸へ沈む。


「リディアナ」


「はい」


「あなたが望むなら、私はあなたを次期王妃として推します。評議会も、民も、多くの貴族も、あなたを支持するでしょう」


 王妃様はそこで、少しだけ寂しそうに微笑まれた。


「けれど、あなたの人生は王宮だけにあるわけではありません」


 私は言葉を失った。


 ずっと、その席に座るために生きてきた。


 王妃様の隣。


 王太子の隣。


 国の未来の隣。


 けれど今、初めて気づく。


 席とは、与えられるものではない。


 奪われるものでもない。


 自分で選ぶものなのだと。


 窓の外では、夜が少しずつ明けようとしていた。


 王都の空の端が、淡く白み始めている。


 春告げの夜会が終わり、春が来る。


 私は窓辺に立ち、遠くの街並みを見下ろした。


 十年かけて守ろうとした国。


 十年かけて隣に立とうとした人。


 そして、今になってようやく見えた私自身の足元。


「王妃様」


「何かしら」


「少しだけ、お時間をいただけますか」


 王妃様は、すぐに頷いてくださった。


「もちろん」


 私は、朝焼けの光を受けながら静かに息を吸った。


「私が本当に座りたい席を、考えてみたいのです」


 春告げの夜会から、三ヶ月が過ぎた。


 王都の噂は、季節の花よりも移ろいやすい。


 最初の一月、人々はひたすら夜会の話をした。


 王太子が婚約者を笑ったこと。

 王妃様がご自分の隣に席を空けたこと。

 国王陛下が王太子権限の停止を命じたこと。

 そして、私――リディアナ・クラウゼルが、次期王妃として認められていたこと。


 けれど二月目になると、噂は少しずつ形を変えた。


 レオンハルト殿下が評議会で何を問われたのか。

 ロゼット男爵令嬢はどう処分されるのか。

 クラウゼル公爵家は王家に何を求めるのか。

 そして私は、本当に王妃の席に座るのか。


 三月目の朝。


 私は王宮の西翼にある小さな執務室で、窓を開けた。


 春の終わりの風が、薄いカーテンを揺らす。


 庭園では白薔薇が咲き始めていた。昔、殿下が「白は地味だ」と言った花だ。私はその言葉を覚えていたけれど、今はもう、その記憶に痛みはなかった。


 机の上には、書類が三つ並んでいる。


 一つ目は、王太子レオンハルト殿下の再審査結果。


 二つ目は、ロゼット男爵令嬢ミリアに対する処分案。


 三つ目は、私自身の進退についての答申書。


 私はまず、一つ目の書類を手に取った。


 結論は、すでに出ている。


 レオンハルト殿下は、王太子位を退いた。


 廃嫡ではない。


 王族としての身分は残されたが、継承順位は大きく下げられ、王都を離れて北部領政務院へ送られることになった。飢饉、税制、街道整備、孤児院支援。かつて私が裏で整えてきた実務を、今度は彼自身が現場で学ぶために。


 甘い処分だと怒る者もいた。


 厳しすぎると憐れむ者もいた。


 けれど王妃様は、ただ一言だけ仰った。


「罰だけでは、人は育ちません。けれど、失ったものを知らぬまま戻ることも許しません」


 それが、王妃様の裁きだった。


 次に、私はミリア嬢の書類を見る。


 彼女は王宮出入り禁止にはならなかった。


 ただし一年間、王立女学院の礼法課程と政治基礎課程を受け直すことが命じられた。男爵家には監督責任が問われたが、取り潰しはない。


 夜会の翌日、ミリア嬢は自ら王妃様に面会を求めたという。


 私は後で、その手紙を読ませていただいた。


『知らなかったことを、知らなかったままで済ませていた自分を恥じます』


 そう書かれていた。


 彼女は、私の友人にはならないかもしれない。


 けれど敵であり続ける必要もない。


 最後に、私は三つ目の書類を見た。


 そこには、王国評議会からの正式な推薦が記されている。


 リディアナ・クラウゼルを、次期王妃候補として引き続き推挙する。


 ただし、王太子位が空席となったため、今後の継承体制に応じて本人の意思を確認すること。


 本人の意思。


 その文字を、私は何度も目でなぞった。


 これまで、私の席はいつも誰かによって決められてきた。


 公爵家の娘としての席。

 王太子の婚約者としての席。

 未来の王妃としての席。


 そのどれもが、私にとって大切だった。


 嫌々座っていたわけではない。


 誇りもあった。


 責任もあった。


 けれど、私が本当にそこへ座りたいのかを問われたことは、ほとんどなかった。


 扉が叩かれた。


「どうぞ」


 入ってきたのは、侍女長エレナだった。


「リディアナ様。王妃様がお呼びです」


「すぐに参ります」


 私は書類を整え、立ち上がった。


 廊下を歩きながら、王宮の景色を見回す。


 磨かれた床。

 季節の花が飾られた窓辺。

 遠くから聞こえる侍女たちの足音。

 執務官たちの低い話し声。


 十年間、私はこの場所で迷わないように歩いてきた。


 今は、迷ってもいいのだと思える。


 王妃様は、東の温室にいらっしゃった。


 色とりどりの花が咲くその場所で、王妃様は庭師と何やら話しておられる。私に気づくと、庭師を下がらせ、いつもの柔らかな微笑を向けてくださった。


「来ましたね、リディアナ」


「お待たせいたしました」


「答えは出ましたか」


 単刀直入だった。


 私は苦笑しそうになる。


 王妃様はいつも、私が逃げられない問いを一番優しい声で投げかける。


「はい」


「聞かせてください」


 温室の中は暖かい。


 硝子越しの光が、王妃様の銀の髪を淡く照らしている。


 私は深く息を吸った。


「私は、次期王妃の推薦をお受けします」


 王妃様は何も言わず、続きを待ってくださった。


「ですが、それは誰かの隣に座るためではありません」


 私はゆっくりと言葉を選んだ。


「王国評議会の一員として、王政を支える正式な権限をいただきたいのです。王太子妃候補としてではなく、王家顧問官として」


 王妃様の瞳が、わずかに見開かれる。


「顧問官」


「はい」


「女性がその地位に就いた前例はありません」


「存じております」


「反発もあるでしょう」


「存じております」


「それでも?」


「はい」


 私はまっすぐ、王妃様を見た。


「私は十年、誰かの名の陰で国を支えてきました。これからは、自分の名で責任を負いたいのです」


 王妃様は、しばらく黙って私を見つめていた。


 その沈黙は、試すためのものではない。


 私の言葉を、ひとつひとつ丁寧に受け取ってくださっている沈黙だった。


「それが、あなたの座りたい席なのですね」


「はい」


 私は微笑んだ。


「今の私には、それが一番しっくりきます」


 王妃様はふっと息を吐き、それから小さく笑われた。


「困った子ね」


「申し訳ございません」


「褒めているのです」


 王妃様は、温室の中央に置かれた白い椅子に腰を下ろされた。


 そして、その隣の椅子を軽く叩く。


「では、顧問官候補。こちらへ」


 私は少しだけ目を丸くした。


「そこは、王妃様のお隣では」


「ええ」


「よろしいのですか」


「あなたが座りたい席は、誰かに許されるものではなく、自分で選ぶものでしょう?」


 私は、胸の奥が温かくなるのを感じた。


「……はい」


 王妃様の隣に座る。


 あの夜会の席とは違う、温室の小さな白い椅子。


 けれど不思議と、こちらの方がずっと私らしい気がした。


 その後、私の顧問官就任案は評議会で大いに揉めた。


 反対する者は多かった。


 若すぎる。

 女性には前例がない。

 公爵家の権力が強くなりすぎる。

 王太子妃でないなら立場が曖昧だ。


 もっともな意見もあった。


 ただの偏見もあった。


 私はひとつずつ答えた。


 若すぎるというなら、十年間の実績を。

 前例がないというなら、前例を作る必要性を。

 権力が集中するというなら、監査制度の導入を。

 立場が曖昧というなら、職務範囲と罷免条件を明文化した。


 三週間後。


 王国史上初の女性王家顧問官として、私の任命が決まった。


 就任式は、小さなものだった。


 大広間ではなく、王宮図書館の隣にある会議室。


 出席者は国王陛下、王妃様、宰相、評議会の代表者、そしてクラウゼル公爵家の父と母。


 派手な音楽も、豪奢な舞踏もない。


 ただ一枚の任命書と、一つの席があった。


 会議卓の中央ではない。


 王の隣でもない。


 けれど、発言を求められ、責任を持ち、国の未来に関わることができる席。


 私はその椅子に手を触れた。


 木の手触りは温かかった。


「リディアナ・クラウゼル」


 国王陛下が、厳かに告げる。


「そなたを王家顧問官に任ずる」


「謹んでお受けいたします」


 私は深く礼をした。


 顔を上げた時、父が泣きそうな顔でこちらを見ていた。母は扇で口元を隠していたけれど、目元は赤かった。


 王妃様は、いつものように静かに微笑んでいる。


 その微笑を見た瞬間、私はようやく思った。


 ここが、私の席だ。


 それからさらに半年後。


 北部から、一通の手紙が届いた。


 差出人は、レオンハルト元殿下。


 私は執務室で、その封を開けた。


 手紙は短かった。


『リディアナへ。


 北部の冬は、王都よりずっと早く来るのだと初めて知りました。


 穀物の輸送が一日遅れるだけで、人の暮らしがどれほど不安定になるのかも、今になって知りました。


 君が昔作った移送計画書を読みました。欄外に書かれていた注意書きまで、すべて現場で役に立っています。


 君が守っていたものを、私は何も見ていませんでした。


 謝って済むことではないと知っています。


 それでも、もう一度だけ謝らせてほしい。


 すまなかった。


 いつか私が、誰かの席を奪うのではなく、誰かの席を整えられる人間になれたなら、その時は遠くからでも、君に恥じない人間になったと言えるよう努めます。


 レオンハルト』


 私は手紙を読み終え、しばらく窓の外を眺めた。


 王都には、今年も春が来ていた。


 あの夜、彼が失った席。


 私が取り戻した席。


 そして今、彼が北部で探している席。


 人は、一度座る場所を失って初めて、自分の足で立つことを覚えるのかもしれない。


 私は返事を書いた。


 長い手紙ではない。


『レオンハルト様。


 北部の冬を、どうか忘れないでください。


 あなたがいつか誰かの席を整えられる人になることを、王都より願っています。


 リディアナ・クラウゼル』


 書き終えると、心が少しだけ軽くなった。


 許したのかと問われれば、まだわからない。


 けれど、恨み続ける席からは、もう立ち上がれたのだと思う。


 午後、私は王宮図書館へ向かった。


 新しい孤児院支援制度について、女学院の生徒たちに講義をする予定があったからだ。


 その中には、ミリア嬢の姿もあった。


 彼女は以前より地味なドレスを着て、誰よりも前の席に座っていた。


 私が教壇に立つと、彼女は背筋を伸ばし、深く頭を下げる。


 私は小さく頷き返した。


 講義の終わり、ミリア嬢がそっと近づいてきた。


「リディアナ様」


「ロゼット嬢」


「今日のお話、とても勉強になりました」


「それはよかったです」


 彼女は少し迷ったあと、小さな声で言った。


「私、いつか誰かの席を奪うのではなく、誰かが座れる椅子を用意できる人になりたいです」


 その言葉に、私は微笑んだ。


「良い目標ですね」


「はい」


 ミリア嬢は、以前とは違う涙のない顔で笑った。


 人は変わる。


 すべての人が、すぐに変われるわけではない。


 変わったからといって、過去が消えるわけでもない。


 けれど、誰かが立ち上がろうとするなら、その椅子を蹴る必要はない。


 私はそれを、王妃様から教わった。


 講義を終えた夕暮れ。


 私は王宮の庭園を一人で歩いた。


 白薔薇が満開だった。


 風が花びらを揺らし、遠くで鐘が鳴る。


 その時、庭園の東屋に王妃様の姿を見つけた。


 王妃様は一人で紅茶を飲んでおられた。


「リディアナ」


「王妃様」


「少し休んでいきなさい」


 東屋には、椅子が二つあった。


 ひとつは王妃様のもの。


 もうひとつは、空いていた。


 私は思わず立ち止まる。


 王妃様が微笑まれた。


「どうしました?」


「いえ」


 私は、その空いた椅子を見た。


 あの夜会のことを思い出す。


『君の席はない』


 そう言われた夜。


 私は、世界から居場所を奪われたような気がした。


 けれど本当は、席がなかったのではない。


 自分で選ぶ前の椅子に、誰かの許しを待っていただけだった。


 私はもう、待たない。


「座ります」


 そう言って、私は王妃様の向かいに腰を下ろした。


 王妃様が、私のカップに紅茶を注いでくださる。


 南部の春摘み。


 軽くて、少し甘い香り。


 私はそれを一口飲み、ゆっくりと息を吐いた。


「おいしいです」


「でしょう?」


「はい」


 夕暮れの光が、白薔薇の庭に落ちている。


 王宮のどこかで、誰かが忙しそうに歩いている音がした。書類はまだ山のようにある。議論すべき政策も、直すべき制度も、向き合うべき問題も尽きない。


 けれど今だけは、ただ紅茶を飲んでいる。


 誰かの隣に立つためではなく。

 誰かの後ろで支えるためでもなく。

 私自身として、ここに座っている。


「リディアナ」


「はい」


「幸せですか」


 王妃様の問いに、私は少し考えた。


 そして、微笑んだ。


「はい」


 それは、派手な幸福ではなかった。


 王子様に愛され、すべてを手に入れる物語ではない。


 けれど、自分の足で歩き、自分の名で責任を負い、自分の意思で椅子を選ぶ幸福だった。


 私はカップを置き、夕暮れの庭を見つめる。


「今、私は自分の席に座っています」


 王妃様は、何も言わずに笑ってくださった。


 その沈黙が、何よりの祝福だった。


 白薔薇の花びらが、春の風にひとひら舞う。


 そして私は、もう一度紅茶を口にした。


 空いた席は、もうどこにもない。


 ここにある。


 私が選んだ、私の席が。

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― 新着の感想 ―
甘いな……(`Д´) ケッ 男爵令嬢は素直にすぐに謝ったから仕方ないにしろ、王子は一人っ子か??こいつしかおらんのか……?? ヒロインが王妃予定なのは変わらないなら王子がまたいつか謹慎明けて夫に戻る予…
このシナリオでこの展開は面白い。 次の王太子は誰になるのか無性に気になる。 敢えてそこを語らないでいる事でリディアナが際立っているように感じた。王子不在でのハッピーエンドでここまで清々しい気分になった…
たっくん先生、初めまして。 『「君の席はない」と婚約者に笑われた夜会で〜』を拝読し、ストーリーの素晴らしさとリディアナのかっこよさに大感動いたしました!一気に最後まで読んでしまい、迷わず星5を入れさせ…
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