四
「そういや、お夕が何か言いたげだったな」
「お夕ちゃんって、お富美さんの親戚の娘さんだっけ」
文之進は手元の猪口に酒を注ぐと、惣八にチロリを受け渡す。
「ああ。今夜からお富美んとこに泊るとか」
「へぇ、そりゃ何かあったのか?」
面白そうなことでもあるのかと身を乗り出す文之進に、惣八はからりと笑った。
「何かも何も、ありゃしねぇ。お夕のおっ父さんのお兄さんてのが倒れたらしくてな。家業の手伝いに、草津までだと」
「温泉かぁ。いいねぇ」
「仕事だけどな」
お夕の父親は、草津の小さな温泉宿の六男だった。仕事を求め江戸に来て、そのまま江戸で結婚し居着いたという。ここまではよくある話だが、お夕が十にもならない頃に、母親は病を得て、死んでしまった。以降親戚筋のお富美が、お夕に三味線を教えつつ、女手が必要な部分の世話を見てやっている。
「一度は行きたい、天下の湯」
そんなことを言いながら、文之進が追加の肴を頼むと、すぐに湯豆腐と茹で蛸が届けられた。
入り口にかかっていた茹で蛸が、ちょいちょいと切られたそれは、燗の酒に良くあう。
「七色をかけ忘れた」
手元の七味を蛸に振りかけ、二人はけたりと笑った。
それからしばらく益体のない話をしつつ呑んでいたが、木戸の閉まる刻限が近付いたことに気付き、店を出る。
「どうにも呑み足りないねぇ」
とは文之進の言。それに返す惣八も
「あたしん家で呑み直そう」
などと言う。二人は自分たちがすっかり酔いどれていることに気付かぬまま、日本橋から神田須田町へと向かった。
さして遠くない距離を、二人の足は急がず歩く。夜の刻限は、昼の二人の足早を忘れさせてくれた。
「あれ、文さんお久しぶりじゃないかい」
惣八の家まで来ると、外に立ててあった雨戸を玄関障子にかけようと、お富美が折良く外にいる。
「お富美さん久しぶりだ。今日も別嬪さんだねぇ」
文之進の軽口に、お富美はからからと笑う。
「相変わらずだね、文さんは」
「お富美姉さん、誰かいるの?」
お富美の長屋の奥から声がした。
「お夕、あたしだよ」
「惣八さん!」
中からひょいと顔を出すと、文之進を見て小さく首を傾げた。
「どうも。惣八の馴染みの文之進と言います」
先に文之進が人好きのする笑顔を見せれば、お夕もすぐに下駄を履いて表に出てくる。
「お夕です」
ぺこりと下げる頭がかわいらしい。
惣八とお富美の知り合いということで、お夕は安心したような表情を浮かべた。文之進は少しばかり見目が良い。その分、お夕は警戒したのかもしれない。
「さ、お夕は布団の支度をしてなさい」
お富美の言葉に素直に頷き、二人に夜の挨拶をすると、彼女は中へ戻っていった。
「……惣さん。ちょいとお夕の話で、気になることがあってね」
お夕が長屋の中に入ったことを確認すると、お富美は声を落として二人に近付く。
「なんだい。ここで話していいもんか?」
「なに、すぐに終わるから」
声を落としたお富美は、ちらりとお夕のいる方を見ながら、口を開いた。
「尾張様の台所頭の……」
「貞蔵さんかい?」
「そうそう。そちらの部屋に茶を届けたときに、見ちまったとかでね」
「一体何を」
「帳簿に『梅干し用の塩十俵、みた塩問屋買入』とあったそうで」
「みた塩問屋?」
これまで黙っていた文之進が言葉を投げれば、お富美は一つ頷く。
「それでね、塩が十俵ってのが」
「なるほど。あんときお夕が言いかけてたのは、それか」
「思い当たることがあんのか、惣の字」
「あたしが梅漬けで使い切った塩ってなぁ、はなから用意されてた九俵だったんだよ」
その言葉に、文之進が目を細めた。
「お富美さん、ありがとよ。その話、他所ですんなと、お夕ちゃんに言っといとくれ」
文之進がそう言い残し、惣八の背を押して長屋へ押し込む。
「お、おい。お富美、また明日な」
「あいよ。おやすみ」
惣八の言葉に一つ笑いを浮かべ、お富美は雨戸を立てかけて、長屋へと消えていった。




