三
尾張藩中屋敷での梅の仕込みから五日。
惣八は梅を漬け込んだ桶を見て、顔を顰めた。
(梅酢のあがりが、遅い)
口径が一尺九寸程の桶は、通常ならば既に梅酢で埋まっている筈だ。それが五日目にしても、梅酢の量が少なく、塩の残りが多い。
(計算を間違えたか)
だが、あの日台所の手伝いを終えて様子を見に来たら、用意されていた塩九俵は綺麗に使い切られていた。つまり、塩が足りていないというわけではないのだ。
念のためにと今一度、計算を書き付けた紙切れを確認する。
「どうにも、おかしくはねぇんだよな」
「あれ、惣八さん。何か問題でも?」
「お夕か」
漬物を取りに来たらしい少女が、惣八に声をかけた。
年の頃は十六。お夕と呼ばれた彼女は、初々しい結綿髷にたすき掛けの姿で、にこりと笑う。糠床から取り出した胡瓜を手に、それに付いている糠をこそぎ落としながら、惣八の返事を待った。
「いつもと比べて、どうにも梅酢がな」
そう言って目線を梅樽へと向ける。お夕は持ってきた盥に、いくつかのぬか漬けを載せると、梅樽を覗き込んだ。
「本当だ。こないだっから、五日目ですよね」
「ああ、常なら三日で梅酢は上がる」
二人でうぅむと首を傾げるが、そこに答えが出るわけではない。
「計算もあってんだ。梅七二〇貫に対して、塩は九俵。樽で言えば二十四樽」
「塩九俵に樽……」
「お夕! 早く戻っといで!」
樽を数えかけたお夕を、蔵の外から女中が呼ぶ声がする。昼餉の支度が進んでいるのだろう。
「ああ、足止めしてすまなかったな。早く行ってきな」
「……はい」
お夕はほんの少しだけ口ごもるが、呼び出している女中の声が再度聞こえたので、慌ててその場を後にした。
「重しも指示通りだしなぁ。仕方ねぇ、もう少しだけ重しを増やすか」
惣八はそう口にすると、漬物石を追加する。僅かに溜まっていた梅酢が、とぷりといくつか跳ねた。
「明日もまた、見に来ねぇとなぁ」
二十四樽全てに重しを追加すると、惣八は梅の様子をつぶさに紙に書き記し、薄暗い蔵から外へと足を向けた。
日本橋にある小さな居酒屋で、惣八と向かい合い呑むのは、昔馴染みの仁木文之進だ。父親は安房勝山藩の、つい先頃藩主になった者と、祖父を共にする男だ。とはいえ、文之進は上女中としてあがっていた、料亭の娘に手を出して生まれた子。子どもの頃は、数度となく国元にも滞在したことはあるが、生まれてすぐにその身柄は、娘の親元に引き取られていた。
そんな出自の文之進は、幕府の小人目付の任についている。
小人目付とは簡単に言えば、老中配下の諜報組織のことだ。小人目付の上に徒目付、さらにその上に目付がいる。徒目付は御家人でないとなれないが、小人目付は中間でもなれるため、彼の後ろ盾として安房勝山藩主が付き、その職を得た。
さて、そんな文之進。
すっきりとした本多髷に、憲法黒に万筋の着物を、虫襖色の斜子帯で締めている。とても役人のようには見えないが、それもそのはずで、人の多いところに馴染んでは、様子を伺うことを常としているからだ。場合によっては大名屋敷や大きな商家などにも押し入るが、さすがにそのときには袴を履き着ける。
「梅酢がねぇ」
「あたしの見立てじゃ、あの分量で問題がねぇんだ。梅の状態だって、しっかり見てた」
「そんで去年と違うってんだったら、そりゃぁ、お天道様の機嫌じゃないのかい?」
「冗談言っちゃなんねぇよ。そんあたりは織り込み済みで、漬物蔵に入れてらぁ」
肴に頼んだ鮪の佃煮を口に運ぶと、ふとお夕の顔が思い出された。




