一
木戸の開く音がして、惣八は目を覚ました。
狭くも愛着のある棟割長屋の一室で軽く身支度を調えると、貯めてあった水で顔を洗う。雨戸を外し、外へ一枚立てかけると、空を見上げた。
「今日もいい天気になりそうだねぇ」
ホトトギスの鳴き声が聞こえてくる。
テッペンカケタカカケタカ、と惣八は口にしながら伸びをした。昨夜の酒がまだ残っている。
「あれ、おはよう。ちょいと顔色が悪いんじゃないかい」
はす向かいの長屋に住むお富美が声をかけた。少し崩した櫛巻髪に、濃い茶に白のよろけ縞の着物が婀娜っぽい。
惣八は目を細め、笑う。
「昨夜、文の字と遅くまで一杯やっててな」
「そりゃあんた、自業自得ってやつだね」
ころころと笑い、表店の通りを過ぎる振り売りに声をかける。
「蜆をちょうだい」
お富美は手にしていた鍋に蜆を入れて貰うと、惣八にそれを見せた。
「あとちょいと待っておいで。分けたげる」
「そりゃあ、ありがてぇ」
「料理人に分けるなんて、上段だったかね」
「とんでもねぇ。あたしゃ、人様が作ったモンを食べんのは、大の好物、ってね」
長屋に戻るお富美を見送った惣八は、高麗屋格子の灰褐色の着物の襟をツイと引き、同じように長屋に戻り、昨夜食べなかった白米をひきだした。いつもは朝に米を炊くが、昨夜は予定外に古馴染みの仁木文之進と、居酒屋で深く飲んでしまったのだ。腹が減っていてどじょう汁を二度も頼んだがために、帰宅後、朝の残りの冷や飯を入れる余裕がなかった、という次第だ。
昨年漬けた梅干しを取り出したところで、お富美が鍋を持ってやってきた。
「椀を寄越して頂戴。蜆の味噌汁よ」
「ありがてぇや。どれ、梅干しと交換というこうじゃないか」
「惣さんの漬ける梅干しは、美味しいからねぇ。そいや、今年もそろそろ尾張のお殿様んとこかい」
「おう。ちょうど今日から中屋敷にお伺い、っとね」
「一昨日かなんかに、芝浦湊に尾張様のお船が入ったってさ。お竹のおっとさんが見たってよ」
「お竹の親父さんは荷下ろしの仕事してたか。一昨日ってことは、塩もきたかな」
お富美は三味線の師匠をしている。年は惣八の二つ上の四十ちょうど。十年ほど前に夫に先立たれ、それ以降、一人でこの神田須田町の裏長屋で暮らしている。
惣八がここに越して来たときには、すでに三味線の師匠をして糊口を凌いでいた。惣八の生まれと育ちは深川は大島町で、父親は宮大工をしている。幼い頃より近くの料理屋に入り浸っていたことから、やがて料理人を志し、修行に入った。いっぱしの料理人となって、大名屋敷の出入り職人となった惣八は、通いやすさから神田須田町へと越してきたが、深川に住む父には猛反対された。
「深川の出のくせに、神田明神の氏子になろうってぇのか」
とは、惣八の父の言。
「さてそろそろ、アタシは戻るかね。仕事頑張って行ってきな」
惣八に貰ったいくつかの梅干しを手のひらに載せ、お富美は自分の住む長屋へと戻っていった。
「お、こりゃ旨い」
彼女に貰った蜆の味噌汁を、米をかっ込んだ口に飲み込ませ、惣八は幸せそうに笑みを浮かべる。
「他人さまの作った飯ほど、旨えもんはねぇ」
空になったお櫃を洗い、干したら仕事道具を取りまとめて、家を出た。
筋違御門の前の八ツ小路を抜け、神田川沿いに赤坂の方へと向かう。途中数多くの大名屋敷の居並ぶ小径を通っても良いのだが、朝の神田川沿いの気持ちよさが、惣八は好きだった。少々遠回りとも言えるが、講武所を横目にぐるりと回り、四ッ谷御門を過ぎれば尾張藩中屋敷だ。
使用人が行き交う屋敷の勝手口にて、台所頭の真砂貞蔵を呼び出す。
「おう、惣八か。良く来てくれた」
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