きっかけとなった話
学びって、教科書と学校からだけでは補えない事が社会には多々あるんですよねぇ、、。
皆、同じだと思っていた。
保育園で絵を描いていて、隣の子が「ママはアイス好きなの。」と、“アイスを食べるママ”を描いたのだ。向かいに座った子は、カブトムシを描いていたが「うちのママは、アイドルの歌に合わせておどってる!」と、笑ってた。「ボクのママはねぇ、ボクの頬っぺにチューするの好き。」こうやって、ちゅちゅちゅちゅって吸われるからボクの頬っぺ、赤いんだ。再現する仕草が可笑しくて、周りの子が笑ってた。「ゆきちゃんのママは?」きょとんと話に入れない自分を気遣って声をかけてくれた。けれど、「ママ…いないから、解んないや。」「なんで?」子供は、無邪気に残酷で素直で現実的だと、今も思う。「会った事ないもん。」「そっかぁ。」「会えたらいいね。」なんて話をしていたら、保育士の先生が飛んできて「はい!片付けてお外で遊ぶよぅ!」と、話題を変えた。
迎えにきてくれた“みつ子さん”に帰りの道すがら聞いてみた。「“みつ子さん”はママじゃないよねぇ?」「?えぇ、そうですねぇ。」「なんか、みんな、ママっていてるっぽい。」みつ子さんはその時の自分の様子を忘れられないと言う。「まるで、『あそこの奥さん、浮気してるみたい』って悪い噂を言うみたいで。」と、クスクス笑っていた。自分としては真剣に話したつもりだったんだけど。
家に着いて“みつ子さん”が説明してくれたのは、ママは“ゆきちゃん”が産まれてすぐ亡くなった。パパは、仕事をして食べ物を買ったりお洋服を買ったりするお金を稼がなきゃいけない。その間のお助けマンが、“みつ子さん”である。と言う事だった。ふーん。と、簡単に納得したらしい。まぁ、今まで疑問にすら思ってないんだから、理由がはっきりして良かった。位の心持ちだったのだろう。死んじゃってたなら、会えないなぁ。知らんのも無理ないなぁ。で、終わり。とは、いかなかった。
“みつ子さん”は、急に真剣な顔で4才の自分に話だした。「ゆきちゃん、今は私がお手伝いしてるけど、いつ来れなくなるか解らないの。」「“みつ子さん”居なくなるのっ?」「今日じゃないけど、いつ居なくなってもおかしくないのよ?」家政婦なんだから、仕事を頼まなきゃ来る事はないのだ。「なので、ゆきちゃんにはしっかりと自分で生活出来るように教えます。」「?」
こうして、“みつ子さん”による「生活力」の指導が始まった。家政婦の領分としては度が過ぎている。けれど、先を見越して、仕事をクビになる危険を承知で叩きこんでくれた。お陰で小学校卒業する頃には、家事全般、食事のマナー、ご近所との付き合い方、冠婚葬祭の礼儀にいたるまで身に付き、中学からは父から高校に入る為の資金、一人暮らしの頭金をせしめてやった。これは、悪い意味でなく、自衛の為でもあった。
父、杉本 明良は大手出版社勤務でなかなかの地位にいたらしい。歳の割りに若々しく(と言っても自分が4歳の時、28歳だった)、楽観的ではあったがノリの良い父は歳を重ねてもそこそこ女性にもてた。幼少期には知らなかったが、女性を伴って帰ってくる事もあったという。“みつ子さん”は基本、夕方4時から5時間勤務で9時には退勤となっていたが、父から電話で「遅くなるので延長、お願いします。」と、度々あったらしい。悪酔いしたり、記憶がなくなる事は無かったが、父は酔うとガールフレンドを家に招きたくなる様で、何も知らない彼女達は、迎えた“みつ子さん”にびっくり。家政婦だと聞いてある程度落ち着くも、幼い娘がいる(この時には自室で眠っている)事に更にびっくり。慌てて帰る人もいれば、堂々とリビングで父と酒盛りする人、怒りで父を平手打ちする人もいたという。けれど、どの女性であっても父はへらへらとしていた。
別に可愛がられていない訳でも、虐待を受けた訳でもなかったが、何か肝心な物が欠けた人だった。父は“父親”ではなかったんだと今は思う。血の繋がりとかでなく、自分が父親だ。と言う認識。父親としての責任。父親としての役割。そういった物が希薄だった。それを、長年鍛え上げられた“女の勘”が察知したのだろう。“みつ子さん”は、危惧したのだ。
新しい妻を迎えたら、その女がゆきちゃんを家から追い出してもこの男は上手い事、丸め込まれる。あるいは、居ない事に気付きもしないやも。
中学に進学して2ヶ月。その頃には“みつ子さん”は、我が家専属の家政婦として来て貰っていたし、給料も手渡しだった。(父が出勤前に自分に預け、午後イチに来ていた“みつ子さん”に学校から帰ってきて手渡し。受領印を貰う)
唐突に、「ゆきちゃん、私、仕事辞めるわね。」と、初めての中間テストの勉強期間で早くに帰ってきた自分に“みつ子さん”は告げた。




