試練の話 スタートまでのカウント
早朝バイトに、いつもは着けないウィッグと、スカートを履いて出勤した。「あら、今日は“幸ちゃん”じゃない!可愛い!髪、いっその事伸ばしなさいよ。」夫人がテンション高めに誉めてくれる。「あれ、この格好で会った事無かったでした?」「通学の時にチラッと見た事あるわよ。店の前、自転車で走るじゃない。それ以外は無いわよ。」なんだか、夫人がウキウキしている。
とりあえず、しばらくはこのウィッグだけでもしておこう。どこで誰が見ているか判らない。オーナー夫人が言う様に、今は髪を伸ばしても差し支えない。ただ、乾かしたり手入れが楽で、伸びたらバリカン(!)のアタッチメントとカット用ハサミ(閉店セールで買った398円の代物)で長さを戻すという作業で維持している。初めてこの作業を見た幽霊は、言葉を失っていた。中学生時代の大半をこのスタイルでやってきたので、なかなか変える気にならなかった。品出しをしながら、思いだしたのは幼なじみの事だった。「ファッションもメイクも戦う為の戦闘服だって誰かが言ってた。(そこは覚えておこうよ。)だから、自衛の為の男装なんだよ。戦いだよ。自己表現でもあるけど、それに固執するんじゃなくて幅広く活用したらいいのよ!」おしゃれ大好きな彼女は、“女子らしさ”を消しただけのグレーな自分に“格好良い”を教えてくれたし、“自分”を活かす方法を一緒に考えて実行してきた。彼女と彼女の弟が居てくれたから、心が疲れきってしまうのを防げたのだろう。“自分の好きなスタイル”…。うーん、悩ましい。
正人さんには、まだこの姿を知られていないのでアパートの近くまで来るとウィッグを外す。スカートはコンビニでズボンと履き替えてきた。正人さんにも、いずれバレるんだろうけど、なかなか伝えにくいんだよな。泡吹いて倒れたら一生モノの傷をつけかねないし。「本人が自然に気づいてくれたらええけど、全く、気づく素振りもないもんな。」幽霊の言葉にうんうん、と頷く。「お前、どんだけ乳ないねん。」おい、乳だけが女か男か判断する材料か。失礼過ぎるだろ、このやろう。「ごめんて、グー止めて、パーにして。」振り上げた拳はパーにならずチョキになり、幽霊に目潰しを食らわす。端からみれば宙に指二本を刺す姿なのだが。「ぐわっ!酷っ!目が、目がぁぁ!」
みっちゃんの部屋で朝食を食べていると、LINEが届いた。スマホを一瞥して、開かないまま放置していると「あら、急ぎの用じゃないの?」と、ゆり子さんが自分達の前に剥いたリンゴの皿を置きながら聞いてくれた。「多分、しょーもない内容っす。」トーストの残りを口に入れ、コーヒーで流し込む。「幸ちゃん、見てぇ。うさぎさんだってぇ。」「たくま、早く食べないと遅れちゃうよ。」「幸ちゃん、お弁当、出来たわよ。今日は「ぷいぷい」に荷物届くと思うから、受け取って置いて貰える?」「了解っす。」賑やかに朝食を終えて、弁当を2つ持って階段を駆け上がり、正人さんの分を渡しに向かう。インターホンを鳴らそうとして、ドアが開いて間一髪回避した。「あ、少々お待ち下さい。」と、正人さんはスマホを手で押さえて「ごめん、ありがと。」と、すっごい小声で言って弁当を持って自転車置場に向かう。仕事の電話だろうか。しかし、自分も人に構っている時間はない。今朝も早く学校に行き、やつらの勉強を見ねばならん。
「お前、忙しくするん、得意やな。」と、幽霊はニヤニヤしながら言ってきたが、相手にしない。何せ、今日はテスト範囲の発表。一週間しか猶予はない。自分も含むクラス全員が赤点を回避しなければ、文化祭は清掃員だ。慌ただしく用意し、自転車を走らせる。
数日経ったが、ラブレターの送り主からは何もアクションがない。手紙に宛名は書いてなかったが、内容は明らかに“杉本 幸”を指していた。以前コンビニに現れた小柄な女性かもと思ったが、該当する女生徒は上級生を含んでも見当がつかなかった。先日「ぷいぷい」に面接と称して、何が目的なのか「男を出せ。」と言ってきた男も気になる。「頭の中がごちゃごちゃになるな。」ふーっと息を吐き出すと、「ため息すると幸せ、逃げんで。」相も変わらず、このセリフが出てくる幽霊はいまだ正体が解らないまま。
住宅街の合間にぽっかり開けた田んぼの稲は、夏の青々した姿から金色に穂を垂れ下げ始めている。




