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日が暮れる前に山の麓まで下りる。

身も心も清められた私は嬉しくなって、軽い足取りで歩を進め、前を歩く和泉に声を掛ける。


「いつか山頂にも行ってみたいものだ」

「そうか。次、霊水を汲みに行くときに一緒に来るか?」

「いいのか?」

「断る理由もないからな」

「楽しみだ」


和泉とまた白山を歩くことが出来る。それを約束できたことだけで胸が弾む。一日程しか一緒に過ごしていないというのに、私はすっかり彼に懐ききっていた。


今日も遅いので、近くの里の民宿に泊まることになった。四畳半の部屋で私は布団の上に座りながら、隣の布団で寝転び肘枕をしている和泉と会話を交わす。


「本当に和泉と出会えたことは幸運だった。巡り合ったことを、白山の神に感謝しなくてはな」

「大袈裟なやつだ。今のお前は、普段蔑ろにされているせいで、俺の何でもない言動が過大に見えているだけだ」

「そうだとしても、実際に私の身も心も救われている。刀の穢れも清められた。これで心置きなく村里に――」


言おうとして、それが何を意味するかしんみりと気付いて言葉が途切れた。


――そうか。和泉とは一夜過ごしたらお別れか。


そう思うだけで名残惜しくなるのは、和泉の優しさに触れたことで、人の温かさを懐かしく感じたせいなのか。

滝から見放されていると勘違いしていた時の心細さとは違い、私は彼と離れ難いと、胸にささやかな望みを抱いている。


とはいえ、引き留めることも出来ないので、大人しく現実を受け入れるしかない。

世話になってばかりなのに、これ以上我儘を言ってしまえば迷惑になる。

私は姿勢を正して、改めて和泉に向き合った。


「これで村里に帰れる。和泉には本当に世話になった。言葉ばかりの礼だけで、心苦しくなるくらいだ」

「……そうか。村里に帰るのか……」


和泉はハッと思い出すというよりは、独り言のようにぼやいて、体を起こすと胡座をかいた。

口元に手を当てて悩むような、懸念するような顔で私から視線を外して床に落とすと、何やら考え込んでいた。


声を掛けることも憚れる雰囲気に、私はじっとしてその様を黙って眺めていれば、和泉は口元から手を離し顔を上げると明るい声を発した。


「菊理、俺に礼をしたいだろう?」

「あ、ああ」

「ならば俺の住んでる集落に来て仕事を手伝え」

「え?」

「このまま帰らせれば、俺が白山の神から愛想を尽かされ兼ねないからな。――村にはなんと言って出ている?」

「数日には戻れると――」

「なら十までに帰ればいい。それまでは俺に付き合え」


和泉の申し出に、私は直ぐに返答せずに考えを巡らせる。


どうせ私が帰ってこなくても、誰も心配はしないだろう。――いや、するとしたら三鷹くらいか。

しかし、雪白の気持ちを考えると……暫く姿を消していた方が良いのかもしれない。


目的が達成したというのに戻らないのは、鷲夜に責任感がないと小言を言われそうだが、いつものことなので気に掛ける必要もない。


それに帰ってから仕事を請け負えば良いだろう。

私は顔を上げると和泉に頷いた。


「分かった。それが御礼になるなら引き受けよう」

「決まりだな。明日は、早く出立するから今日はもう寝るぞ」


そう言って和泉は行灯の蝋燭の火を吹き消した。



和泉が住んでいる集落は稲作をしていて、あぜ道の先に民家が見えた。

てっきり家が密集している場所に住んでいるかと思えば、和泉は道を逸れて民家から離れた、森と隣接している家に身を置いていた。


医者なら駆けつけやすい場所に居を構えていると思っていたが、私と同じような場所に住んでいると知って少し親近感が湧き唇の端が上がる。浮ついて軽口を叩いた。


「……和泉も爪弾き者なのか?」

「どうしてそう思う?」

「私と似たような場所に家がある」

「ふ。そうかそうか。確かに。ある意味で俺は爪弾き者ではあるな」

「冗談だ。和泉が医者であるならきっと慕われている。ここに住んでいるのも、何か事情があってのことだろう?」

「さぁて。それはどうであろうな」


和泉は首を傾げ含みのある言い方をすると、可笑しそうにクツクツ笑いながら家の戸を開けた。

一畳程の土間が現れ、上がり框の先には六畳間があり、奥には文机が置かれており、周りには書物が幾つか積まれてあった。


家の中は微かに焼香の匂いが残っていて、体に取り入れれば心が落ち着く。

和泉は大きな欠伸をしながら乱雑に草履を脱いで上がると「適当に寛いでいて良いぞ」と声をかけてきた。


「それでは、失礼する」


草履を脱ぐと、私のものと和泉の草履を一緒に揃えて並べる。

畳に寝転がり、既にうとうととしている和泉の前に私は腰を下ろすと、ふと浮かんだ疑問を口にした。


「そう言えば、帰ってきたことを集落の人達に教えなくてもいいのか?」

「伝えなくてもいずれ分かることだ。あちらが気付くのを待てばいい。俺は疲れたから寝る」


和泉は素っ気なく言い放つと私に背を向けて眠ってしまった。

数日留守にしていたのなら、困っていた人もいたのではないだろうか。しかし、和泉は医者が自分一人とは言ってはいなかったので、他にも医者がいるのかもしれない。


寝息が直ぐに聞こえてきたので、数日歩いていたので疲れているのだろう。静かに休ませてあげるために、私は文机に置いてある書物を読んで過ごすことにした。


それから暫くして戸を叩く音がした。遠慮なく拳で叩いているのか、ドンドンドンと力強い音が響き渡る。


和泉に目を向ければ、彼は気にした様子もなく寝息を立てている。


深い眠りに就いているのか? 


いつまでも開かない扉に痺れを切らしたのか、男の野太い怒鳴り声が飛んできた。


「和泉! 帰ってきているのだろう!? 挨拶もせずに黙って帰ってくるとは太い野郎だ! 無視してないで、早くここを開けろ!」


何やら怒っているようだ。和泉に顔を向ければ、やはり目を閉じている。

私は立ち上がると抜き足差し足で和泉の横をすり抜け、土間へと下りる。


「菊理、開けるな! 俺はまだ診療する気はない!」


鋭い制止の声に、心張り棒を取ろうとした手が止まる。振り返り和泉を見れば、起きる様子もなく背を向けて寝ている。


うーん。どうしたものか……。


困り果てた私は、扉越しに大声で和泉の意思を伝えることにした。


「すまない! 和泉が診療はまだ出来ないと言っています!」


私が声をかければ、シンと静まり返った。分かってくれたのかと安堵すれば、訪れた人々が言葉を交わし合うようにざわつき始めた。


「女!? 女の声がするぞ!?」

「性懲りもなく、また村の女を連れ込んだのか!? おい、誰がいないのかを確認してこい!」

「おい! さっさとここを開けろ! 怪我人がいるんだぞ!」


再び扉を力任せに叩きだした。先程よりも酷くなってしまった。まるで取り立てにでも来たような騒々しさだ。


しかし、怪我人がいると言われれば、急を要するのではないかと心配になり、私は扉から離れ、和泉の背の側に腰を下ろした。


「和泉。どうやら怪我人がいるらしい。診てやったほうがいいんじゃないか?」

「……詳細を訊いてみろ」


和泉は起きることなく閉眼しながら、唸るように返事した。

診る気になったのだと思い、私は扉越しに話を聞き、再び和泉の側へと腰を下ろし報告すれば、不機嫌そうに目を開けるとジロリと横目で私を見た。


「――鎌で指を切った? 唾でもつけとけ! ――足首を捻った? 出歩かず家にいろと言っておけ! ――俺を出せ? 俺に会いたいなら出直してこいと言っておけ!」


とにかく門前払いをしようとする。

扉の前では納得のいかない人々が、騒ぎながらドアを叩き続けている。

しかも段々と人が増えているのか、複数の女性の高い声も混じっている。


はらはらしながら側にいる和泉と扉を交互に視線を向けていれば、外の騒がしかった声が静かになった。

ほっと胸をなで下ろしたのも束の間、耳を疑う言葉が入ってきた。


「十数えるまでにここを開けねば、扉を打ち壊す! ただの脅しではないことは、今までの経験から解っているはずだ!」


声高らかに宣言した言葉に迷う素振りはなく、不穏な空気を感じ取った私は、和泉の腕を両手で掴み揺らす。


「普通はここまで躍起になったりしないのではないのか!? 何がそこまで彼らを駆り立てる!?」


てっきり慕われていると思っていたが、様子がおかしい。

和泉は目を開けることなく腹を掻きながら、動じぬ態度で口を開いた。


「安心しろ菊理。その扉が壊れるのは五度目だ」

「まったく安心できぬぞ! 早く開けねば本当に扉が壊れてしまう!」

「待て菊理!」


強い制止の言葉を振り切り、私は慌てて心張り棒を外した。すると扉が勢いよく開き、背の高い男達に見下ろされた。




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