第二話
『この世界アレスリアはわたくしが創り見守っている世界。誕生から健やかに成長してきたアレスリアでしたが一通りの発展を終えてしまい、今は文明の成長が停滞してしまっているのです。ここ三百年ほど新しい文明らしい文明は築かれず、わたくしはどうやってアレスリアを発展させようか悩んでいました』
そうして思い至ったのが、異世界人の召喚。アレスリアより発展した世界の人間をこの世界に呼ぶことでいわゆる文明開化を起こさせようというのが、創造神ファシエルが美波を召喚した経緯だった。
「……使命が重いです、神様。平凡な一般人の私には、その使命は重すぎて潰れると思います」
『安心してください、ミナミ。少しでもあなたの助けになるよう、特別な力を授けました』
「……王道な展開ですね、分かります。なんとなく予想はしていました」
ファシエルが授けた特別な力とは、元の世界・地球の知識が脳内で検索できるスキルだった。
(検索エンジンが脳内で使えるようなものか。確かに役立ちそうな力ではあるよね)
『あなたに何か責務を与えるというわけではありません。あなたはただ、このアレスリアで自由に暮らすだけでいいのです。そして元の世界にいたときと同じように、何かをしたい、知りたいと思ったときにその特別な力を発揮するだけ。あとはアレスリアの方からあなたの文明を学びに来るでしょう』
「……楽な話には何か裏がありそうで怖いです。そもそも自由に暮らすための生活の基盤がないんですが?」
『それなら問題ありません。あなたを召喚したのはわたくしです。迎える準備はしてありますよ。――ヨシュカ!』
「え?」
ファシエルの呼びかけに応じて風とともに美波の前に現れたのは、大人が二人は余裕で乗れそうなほど大きな一匹の狼だった。毛並のよい真っ白な毛を持ち、知性が感じられる金色の瞳で、その狼は美波をじっと見つめていた。
「リアル大型もふもふ…!」
『その子はわたくしの眷属で、この森を守る神獣のヨシュカです。これからあなたを安全なところまで連れて行ってくれます』
「ものすごく撫でたい…!抱き着きたい…!」
美波は、ヨシュカと呼ばれた狼に似た神獣にすっかり見惚れてしまっていた。そんな美波にしっかりと言い聞かせるように、ファシエルの硬くなった声が響く。
『――しかしミナミ、これだけは決して忘れないでください。確かにあなたには特別な力がありますが、それは直接戦える力ではありません。アレスリアの魔物に遭遇してしまえば、あなたはたちまちその命を落とすことになるでしょう』
「それは……死ぬってことですか?」
『そうです。この世界でもあなたには元の世界にいたときと同じように死が訪れます』
「え?ちょっと待って。それって元の世界には二度と戻れないってことなんじゃ……」
『……はい、その通りです』
「……っ、」
元の世界には戻れない。それは決して予想していなかったことではない。それでも勝手に連れて来られた世界からは帰ることができず、元の世界の大切な人たちとは会えないのだということをはっきりと知らされた美波は、言葉を失わずにはいられなかった。
「そんな勝手なことって……」
『……ごめんなさい、ミナミ。せめてあなたがこのアレスリアで幸せに暮らせるよう、わたくしが見守ります』
「………」
神の理不尽な要求を前に美波は黙り込んでしまう。
『本当にごめんなさい、ミナミ……。またお話しましょう。あなたの旅に幸多からんことを』
ファシエルの祝福で一際優しい風が吹き、美波の身体を柔らかく撫でる。そうして頭の中の声はすっかり聞こえなくなり、その場には美波と神獣のヨシュカだけが残されていた。
「――もう二度と、帰れない」
プレイしている途中のゲーム、見ている途中のアニメ、読みかけのライトノベルもそのまま。月に一度くらいのペースで近況を伝え合う家族や週末に会う約束をしていた友だち、明日一緒にランチに行こうと約束をしていた同僚にも、もう会えない。
美波に残された選択肢は、このアレスリアで生きていくことだけ。誰も知らない、何も知らない土地で生きていくことだけ。頼れる人がいない寂しさ、先の見えない未来への不安と恐怖、理不尽な現実を突きつけられた怒りや無力感。込み上げるそれらの感情をなんとか押し殺そうと唇を噛み締めて堪えて震える美波の身体を、柔らかな体温がそっと包み込んだ。
「あっ、」
それはヨシュカの温もりだった。
滑らかなヨシュカの毛が、ふわりと美波の頬を撫でる。美波が視線を上げれば、静かな瞳で彼女を見下ろす金色の瞳と目が合った。
「ヨシュカ……」
「ぴぃぴぃ泣くでない、小娘よ。ファシエル様がお主を見守ると言ったのだ。不安がることなど何もないわ」
「な、泣いてなんか――え?今しゃべった…?」
「何を間の抜けた顔をしておる。我は神獣ぞ?話せて当然だ」
「お、狼がしゃべったー!?」
これはファンタジーすぎる。ヨシュカが話せたことへの驚きで、先程まで美波の中で蠢いていた負の感情は一旦通り過ぎて行ったのだった。