【書籍化&コミカライズ】初夜に抱いてくれなかった旦那様へ。私は今日から悪女になります
「あーもう……腰がいったぁい……旦那様ったら、朝までしつこいんだから……」
独りでにそう愚痴る侍女は、わざとらしく腰を擦る。
『腰』『旦那様』『朝まで』──そして、彼女が醸し出す色気を孕んだ倦怠感に、アイラは全てを悟った。
「旦那様、本当に可哀想だわ……あんな、色気の欠片もない奥さまを持って………。ふふ、今夜も慰めてさしあげなければ、ね!」
「……!」
その瞬間、遠目に彼女を見つめていたアイラと、侍女の目がバチリと合う。
その勝ち誇った瞳にアイラは咄嗟に物陰に隠れると、ショックで蹲り、そして決意した。
「セシル様……私、悪女になってみせますわ」
──そして、必ず離縁を切り出していただきます。
◇◇◇
アイラはつい先日まで、伯爵家の令嬢だった。
しかし、一ヶ月前のこと。婚約者であるセシル・ゼスター公爵の妻になった。
二人の婚約が決まったのは、確かアイラがまだ母親のお腹の中にいる頃だ。アイラとセシルの、両父の仲が大変良かったため、互いの子どもたちは絶対結婚させようという話になったのがきっかけだった。
当時、既に十歳だったセシルは貴族でありながら、こんなに簡単に婚約を決めようとするこの父親たちは大丈夫なのかと危惧したものの、結果としてセシルは、生まれたばかりのアイラと婚約することになったのだった。
「アイラ、今日も遅くなるから先に寝ておくんだよ」
「………………」
そして現在、婚約者生活十八年を経て、アイラとセシルはようやく結婚した。
親が勝手に決めた婚約だったが、二人はこれまで喧嘩なんて一度もしたことがないくらいに仲が良かった。
年齢が十歳離れていることで、趣味や好みが合わないことは多々あったが、昔は主にセシルが、成長してからはアイラも互いに尊重することで、穏やかな婚約生活を暮らしてきたというのに。
「……セシル様。毎日こんなに帰りが遅いなんて、本当は仕事じゃなくてどこかで遊んでいらしてるんじゃないんですか? まあ、そのほうが私も一日中自由にお買い物ができますし? 構わないですけれど?」
つい昨日、アイラは聞いてしまったのだ。
以前から公爵家の侍女として働くレミーナが、セシルと一夜を共に過ごしたことを匂わすような言葉を。
(結婚してから一ヶ月、一度たりとも……私には何もしてくださらないのに……)
アイラは、セシルと婚約者になってからずっと幸せだった。
格好良くて、穏やかで、やさしくて紳士なセシルが、大好きで仕方がなかった。
そんな彼と結婚できる自分はどれだけ幸せ者なのだろう。こんなにも、両家の父親に感謝したことはない。
けれど、結婚しても、初夜を迎えても、セシルはアイラの頭を撫でるだけで眠ってしまった。
……当初は結婚式で疲れたから眠ってしまったのかもしれない。その次の日、またその次の日も隣で眠るだけで、何もしない彼は公爵として多忙のため、眠気が勝ってしまっているのかもしれない。
そう、何度も思おうとしたのだけれど、それは違ったのだ。
(セシル様は……レミーナにはそういう気が起こるのね。もしくは、二人はひっそりと愛を育んできた仲だったのかしら……)
初夜から三日間、寝所を共にしても何も手を出してこなかったセシル。
それからなんて、彼は仕事が忙しいからとアイラに先に眠るよう諭してきた。ときどき、朝になって寝室に入ってくることもあった。
アイラが寝ているふりをしているなんて知らないで、耳元で「愛している」なんて囁くセシルは、一体どういうつもりなのだろう。罪悪感から、眠る妻に愛の言葉ぐらいは囁いてやろうと思ったのか。
(けれど、そんな言葉にさえ浮かれてしまうくらい、私はセシル様が好き。大好き。もし彼の心がレミーナにあったとしても、傍にいたい。妻で、ありたい)
けれど、それはアイラの我が儘というもの。
アイラは愛してやまない夫──セシルがこの長きに渡る呪縛から解き放たれて、本当に愛する人と幸せになれるように、離縁してあげたいと願った。
(この国では女である私からは離縁は出来ないし……万が一レミーナとのことが明るみに出てセシル様の評判が落ちてしまうのは嫌。だから──)
アイラは自身が悪女となり、セシルに嫌われることによって、彼に罪悪感を抱かせることなく、離縁してもらおうと、そう思ったというのに。
「済まないねアイラ、淋しい思いばかりをさせて。明日からは早く帰れると思うから、夜はゆっくり過ごそう。それと、明後日は休暇日にするから、せっかくなら俺と一緒に買い物に行ってくれないか?」
「え!? そ、そこは頑張って働いているセシル様を疑うことに嫌悪して、好き勝手買い物をしている妻を叱るところではありませんの!?」
「……? アイラは寂しくて、そんなふうに言っただけだろう? 分かるよ。それに、この家のお金はアイラのものでもあるんだから、自由に使って構わない。何ならもっと使ってくれてもいいし……ああ、明後日には新作のドレスと流行りのアクセサリーを見に行こうか? アイラは何を着ても似合うから、店のもの全てを買ってしまうかもしれないね」
「……なっ、な……!?」
(小説で読んだ悪女のふりをしてみたのに、全然効果がないわ!? いつも通り優しいセシル様だわ!? 何で!?)
アイラは今まで、我が儘なんて言わず、控えめで心優しい女性だった。
そんなアイラが急に嫌な女──悪女になったのだから、もう少しいつもと違うセシルが見えるかと思っていたけれど。
(ま、まあ、まだ悪女のフリを始めたばかりですものね! それに、セシル様がいくらレミーナを求めていたとしても、根本的にお優しい方だもの。これくらいでは甘いのね……!)
そう思ったアイラはこの日から、セシルに嫌われるために悪女のフリを極めていった。
──のだけれど。
「全然嫌ってくれないわ!! どころか前より私のことが大好きオーラを放っている気がするわ!? 何で……っ!?」
悪女のふりをして二週間が経った頃、アイラは侍女たちを下がらせると、そう叫んだ。
そして、この二週間自身が行った悪女としての振る舞いを、頭に思い浮かべたのだった。
(毎日朝食を一緒に摂るときには、グリンピースは嫌い! と騒ぎ立ててセシル様のお皿に入れたり)
好き嫌いして、騒ぎ立てて、自身の分の食事の一部をセシルの皿に入れるなんて、どう考えても悪女だろう。……何故かセシルは喜んでいたけれど。
(レミーナ以外の侍女や使用人に、もっとしゃきしゃき働きなさいと強く当たってみたり)
自分よりも立場が低いものに当たるのは、最低最悪の悪女のはずだ。……何故か使用人たちはほのぼのとした目で見てきたけれど。
(極めつけには、セシル様が頭を撫でてきたときに子供扱いしないでと言って、その手を振り払ったり)
夫であるセシルのスキンシップに文句を垂れて拒絶したのだ。きっと、悪女の中の悪女になれているはず。……はず。
だというのに、一体どうして──。
一向にセシルが離縁を切り出してくる様子はなく、アイラは困惑していた。どうすれば彼を解放できるのだろう。幸せにしてあげられるのだろう。
そんなことを思っていると、自室の窓から、庭を歩いている侍女の姿が見える。あれは──レミーナだ。
「……っ」
一番見たくない相手ではあるが、意識すればする程に目で追ってしまう。そして、次の瞬間、アイラは窓の外の光景に目を見開いた。
「セシル様とレミーナが……とても近い距離で、何か話してる……」
しかも、レミーナはアイラの存在に気付いているようで、一度だけこちらに目配せをしてくる始末だ。
(……もう、耐えられないわ……)
覚悟は決めたはずなのに、実際二人が一緒に居るところを目にするのは辛い。これ以上、大好きな人が他の女性と幸せになることを、願えそうにない。
(今夜離縁してくださいとお願いしましょう。そうよ、セシル様から切り出さなくたって、私からお願いして彼が手続きすれば、済む話なんだから)
アイラはそう強く決心し、その日の日中は人生で一番辛い時間を過ごした。
そして来たるべき夜。
以前言っていたように早めに仕事を終わらせ、帰宅したセシルと共に、アイラはキングベッドに腰掛けていた。
「アイラ、今日は屋敷で何をしていたんだい?」
そして、穏やかな声色でそんなことを聞いてくるセシルに、アイラは意を決したように口を開いた。
「……離縁を、していただきたいのです」
ナイトドレスのつるりとした生地を思い切り掴みながら、ぽつりと告げたアイラ。
(セシル様……大好きですわ……)
内心では愛おしい夫に愛を囁きながら、一体セシルはどんな反応をしているのだろうかと、隣の彼を見つめると。
「そのセリフは、最近君の性格が変わったことに関係があるのか」
「えっ…………」
十八年の付き合いの中で、今まで一度も聞いたことがないセシルの低い声に、アイラの背筋が粟立つ。
そんなアイラに追い打ちをかけるように彼女の手首を掴んだセシルは、ぐいと顔を近づけた。
「いきなり悪女のような振る舞いを始めた君に少し驚いたが……その姿があまりに可愛いから敢えて指摘してこなかった」
「あ、あの、セシル様?」
「……だが、離縁したいとはどういうことだ。……もしかして、悪女のふりをして俺に嫌われようと思ったのか? それで離縁が叶うと思ったのか?」
いつものお日様のような笑顔は、ホッとするような声はどこにいったのだろう。
(こわい、こわ、い……まるで、セシル様じゃないみたい……っ)
それなのに、今すぐに泣き叫びそうな、そんな悲惨な顔をしているものだから、アイラもなんだか泣きたくなった。……のだけれど。
「あっ、あの……その……」
「……その、髪の毛をやたらと触る仕草。……図星のようだね」
「〜〜っ、だって……!!」
「だって……何?」
思えば、何故責められなければいけないのだろう。アイラは確かにセシルが大好きだし、自分の意志が離縁を切り出した。
(けれど、責められるのはおかしくないかしら……!?)
──もう、やってられない!
そう思ったアイラはキリッと吊り上げた目で、セシルを射抜いたのだった。
「……セシル様! 浮気してるじゃないですか!! 私、知ってるんですからね!!!!」
「──は?」
「相手は侍女のレミーナなのでしょう? 彼女、旦那様が朝までしつこくて腰が痛いと言ってましたわ!! 私との初夜にも何もなさらなかったくせに! その次の日もその次の日も……っ、何も……! しかも、朝方にしか帰ってこない日もあったじゃないですか! 私が一人淋しくベッドにいるとき、セシル様は──」
そこまで言って、アイラの頬には涙がツゥ……と流れる。
同時にセシルは額に青筋をピキピキと浮かべながらも、出来るだけ冷静を装って、アイラの涙を親指で拭った。
「泣かせてごめんね。アイラ。……ああ、なるほど、やっと全てが理解できた」
「うー!! 浮気者ーー!! でも私はセシル様が大好きだから……っ、セシル様が幸せになるなら奥さんの座を降りようと思ったのにぃ〜……!! それなのに優しく涙を拭わないでくださいまし!!」
「いいや、拭うよ。妻の涙を拭うのは夫の権利だからね。それと、俺も大好きだよ、アイラ」
「嘘吐かないでくださいーー……!!」
「嘘じゃないよ。今から全部説明するから、聞いてくれる? 聞いてくれる、よね?」
目の奥が笑っていない笑みを浮かべたセシルがそう言うので、アイラの涙は一瞬にしてすっこんだ。そして、頷く外選択肢はなかったのだった。
「──えっと……?」
それから、セシルから話を聞いたアイラは、中々直ぐには彼の言葉を理解できなかった。
「つまり、レミーナの発言は全て嘘で、セシル様は浮気なんてしていなくて、レミーナとの関係は一切ない、と?」
「ああ。レミーナは昔からよく嘘をつく女であることは公爵家では有名な話だ。ただ、過去の嘘は可愛い程度のもので、この屋敷や屋敷の人間に不利益を被ることがなかったから放置していた。まさかそんな嘘をつくとは思わず、敢えてアイラに言う必要はないと思った。因みに、俺が朝方に帰った日のことを疑うのなら、俺の部下たちに聞けば良い。朝まで仕事に付き合わせていたからな」
「な、なるほど……」
今思えばアイラは嫁いでからレミーナが嘘をつくところを何度か見たことがある。
確か、掃除の割り振りを間違えたとか、今日のディナーは鴨肉ですよ(本当は白身魚)みたいな、可愛らしいものだった。
なので、そのときは嘘というよりは勘違い程度だと思っていたが、どうやらセシルの話曰く、彼女は生粋の嘘つきらしい。
日中は仕事に追われ、明け方に帰ってくる日以外は、手は出さずともセシルはアイラの隣で眠っていたので、おそらくこの段階ですでに浮気の線はゼロなのだろう。
しかし、アイラにはまだ疑問があった。
「け、けれど、今日の昼間、レミーナと至近距離で話していたじゃないですか!」
「ん? あれは突然アイラのことで話があるとか言われたから対応しただけだよ。近かったのは風が強くて聞き取りづらかったせい。あの女……アイラが悪女の本性を出してきたから、気を付けてくださいとかぬかしてきたから、屋敷を追い出すつもりだったけど、それだけじゃ足りないな……」
「ヒィ……!」
自分に言われているわけではないのに、恐ろしさを覚えるようなセシルの全て。
(でも、まだ言わなきゃいけないんだから!)
アイラは一度頬をぱちんと叩いて気合を入れてから、再びセシルに向き直った。
「で、でも、初夜の日も、その後も! 共に眠ることがあっても何もしなかったではないですか! 私……やっと、セシル様のものになれるんだって、期待してたのに……!」
女として求められていないのだと、悲しかった、辛かった、切なかった。
そんな思いを込めて、必死に言葉にしたアイラに、セシルは喉をゴクリと上下させる。
「……アイラ、ここが寝室で、二人きりだって分かってる? 今そんなことを言われたら──」
「ひゃっ」
そして、ひんやりとしたシーツの上に押し倒し、彼女の両手を頭の上で拘束するように束ねれば、アイラの頬は色気を孕んだ朱色に染まった。
セシルは恍惚とした瞳で、アイラを見下ろした。
「──一ヶ月前の結婚式のとき。軽く触れるだけの誓いのキスで腰砕けになってたアイラに、初夜で手を出すことなんてできない。……大事な大事なアイラを、怖がらせたり、傷つけたくなった」
「…………っ!」
「……だが、一緒のベッドにいるだけで何度も手が出そうになったから、限界が近そうな日は部下たちを仕事に付き合わせて、暗いうちには寝室に行かないようにしたんだ」
「そ、そんな……」
「それに俺は、待つのは得意だからね。アイラが十八になって結婚ができるようになるまで、本当に長かったよ」
それからセシルは、言わなくてごめんねと謝ってくれた。アイラはブンブンと首を横に振ると、「好き」「大好き」と何度も愛の言葉を囁く。
だって、セシルの行動は全て、アイラを大事に思うがゆえだったのだから。
「──だが、もう我慢はしない。あんな可愛いことを言われたんだ。覚悟はできてるんだろう?」
「……は、はい! お好きなようにどうぞ! 今夜は思い切り、愛してくださいませ……!」
「……っ、それじゃあ、遠慮なく」
ちらりと赤い舌を覗かせたセシルにドクドクと心臓が脈を打ったけれど、アイラはそっと目を閉じた。
◇◇◇
──それから一週間後。
「ねぇ、そういえばレミーナって、侍女の仕事やめたの?」
古株のメイドが屋敷の外で休憩しながら、同僚にそう問いかける。
同僚のメイドは「知らないの!?」と声を荒げると、意気揚々と語り始めた。
「レミーナはね、伯爵家に嫁いだのよ! あの、オッサカン伯爵のもとにね!」
「えっ、あの子、男爵家の子でしょ? 伯爵家に嫁ぐなんて凄いじゃない!」
「ちょっと、あんた知らないの? 相手はあのオッサカン伯爵よ! オッサカン伯爵! 七十歳の! 名前通りの!」
その説明に、どうやらメイドは理解したらしい。
「あっ! あのオッサカン伯爵ね! 名前通りあの歳でもお盛んで、好きにできる若い妻を探してるって有名な……うわぁ、レミーナ、ご愁傷さま」
「まあ、良いんじゃない? あの子たまに腰が痛いとか嘘ついてたでしょ? 七十歳を相手にするなら、きっと本当に腰痛になるわよ」
「うわぁ〜〜可哀想に……」
二人はそんな話をしながら、同時に疑問に思う。
何故突然、そんな相手にレミーナが嫁いだのか、ということを。
──実家が傾いて借金の形に? それとも、見初められて半ば強制的に? まさかの純愛?
二人はそんなことを思い浮かべたのだが──。
「セシル様! 見てください! 可愛いお花が咲いていますよ!」
庭に咲いている花に満面の笑みをうかべるアイラと。
「ああ、本当だ。可愛いね」
花ではなくアイラを見ながらそんなことを言うセシル。
誰もが見惚れるような穏やかな表情を浮かべるセシルだったが、アイラを傷つける者に、彼は容赦がないことを知っている古株のメイドたちは、ゆっくりと顔を見合わせた。
「「……まさか?」」
メイドたちは、あはははと乾いた笑みをこぼした。
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面白かった! オッサカン伯爵に全て持っていかれた! オッサカンをオッカサンと読み間違えたよ! という方がいらっしゃいましたら、読了のしるしに↓の☆☆☆☆☆→★★★★★をポチッと押して評価してくださると、嬉しいです。
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