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幕間 ここから始まる二人(後編)

 頬に触れる風は氷のように冷たい。

 襟の詰まったコートにマフラーを巻いているが、ストールにすればよかったと思った。そんな中でも葉梨はいつも通りの調子で歩いている。スタンドカラーのコートでマフラーはしていない。


 バーを出てから少しして、葉梨は私の手に触れてこちらを見た。『手を繋いでもいいですか』と言い、私は承諾した。繋いだ手は、葉梨のコートに収まっている。


「あの、加藤さん……さっきの、加藤さんが言った……あの……」

「あー、うん、どうする? ホテル行く? 嫌ならいいよ」


 葉梨が少し、眉根を寄せた。

 どうして私は可愛く出来ないのだろうか。

 葉梨の指の優しくて執拗な愛撫の続きを、私の体は求めているのに。葉梨に抱かれてもいいと、抱いて欲しいと思っているのに。


 そう思っていると、葉梨は街路樹で街路灯の光が届かない暗がりへ私を引き込んだ。繋いだ手は解かれた。


「ものすごく失礼な言い方であることを先にお詫びしますが、どうしても聞きたいことがあります……」

「なに?」

「……俺で、性欲の処理をしたいんですか?」

「はっ!?」

「すみません」

「あー、そういうわけじゃ……ごめんね、私の言い方が悪か――」

「聞いてください、加藤さん」


 葉梨の顔を見上げると、葉梨は男の目をしていた。


「そうなのであれば、俺も加藤さんをそう扱います。でも、俺は加藤さんが好きです。愛したいんです。あなたの体を、愛したいんです」


 私はどうすればいいのだろうか。

 性欲の処理だと言ってホテルへ行ったとしても、葉梨は私を優しく抱くだろう。だが、葉梨は私と体を重ねても、心が重ならないのは嫌だという。

 葉梨の顔を見上げると不安そうな顔をしていた。


 ――葉梨が、いい男だ。


 私は背伸びして、葉梨の頬にキスをした。

 葉梨の肩に手を触れた時、コートの質のよさが指先から伝わった。

 びっくりして、恥ずかしそうに葉梨がはにかんでいる。可愛いな。


 私の顔を見ることが出来ず、唇をきゅっと結んでいる葉梨を、本当に可愛いと思って、私は葉梨の手に触れた。葉梨は手を繋いできた。きっと私の顔は緩んでいる。恥ずかしい。下を向いているのは見られたくないからだ。


 多分、これが恋なんだろう。

 葉梨の言葉に私の心臓が跳ねたのだから。

 同じ意味の言葉は過去に何度も言われた。だが、葉梨が言ったその言葉は、葉梨が言ったから、私にとって特別なものになった。

 少女漫画にある、恋をした時の『トクン』というオノマトペがこの世に本当に存在するのだと、私は今、初めて知った。



 ◇



 私の鼓動はだんだんと落ち着いてきたが、手は繋いでいるものの、私達は言葉を交わさなくなってしまった。二人共恥ずかしいのだから、無言でもよいだろう。だが私は葉梨と言葉を交わしたいと、葉梨の声を聴きたいと思った。


「ねえ、プライベートで二人きりの時は奈緒って呼んでよ」

「えっ!? 呼び捨てですか?」

「そうだよ」

「無理です」

「なんで?」

「無理です」

「だからなんでよ?」


 押し問答を続けても、無理なものは無理だと引かない。頑固なところもあるのだな、と新しい一面を知って嬉しかった。


「他の男は呼び捨てなんだけど」


 私はそう言って、繋いだ手を解いた。不機嫌になれば、名を呼び捨てで言ってくれるだろうと思った。そう思ったのだが、葉梨は押し黙ったままで、私の顔を見ない。

 葉梨の顔を見ると、頬に力が入っているように見えた。歯を食いしばっているのだろうか。怒っているのだろうか。真っすぐ前を見たままで、横目で私を見ることもしない。


 ――ああ、言わなきゃよかった。


 二人で道の先をただ見て歩いているだけの空間から私は逃げ出したくなった。言わなきゃよかった。だが、葉梨が小さく息を吐いた音が聞こえた時、葉梨は私の肘を掴んだ。

 強い力で、葉梨は私の体を自分の正面にやり、膝で私の足を押して後退りさせた。背後は建物の外壁だ。私はこういう状況で逃げる術を知っている。相手の体のどこをどうすればいいか知っている。だが、葉梨も警察官だ。葉梨ももちろんそれを知っている。私が次にする動きを知っているのだ。背も高く体格のいい、腕の長い葉梨から逃れるのは無理だ。


 見上げた葉梨の顔は、これまで見たことのない顔をしている。仕事の時の顔だろうか。葉梨とは同じ所轄になったことはなく、仕事ぶりを直接は知らない。ただ、漏れ聞こえる彼の有能さだけを知っている。


「ごめんね、変なこと言って」


 私がそう言うと、少しだけ体から力が緩んだように見えた。だが、葉梨の目の奥の色は変わらない。


「他に、男がいるのか?」


 男の声がした。怒気と優しさが混ざり合う声音に、私は動揺した。


「あー、いや、いないよ。ごめん」


 頭に浮かんだのは相澤の顔だった。でも私は……。


 また葉梨が小さく息を吐いた音が聞こえて、優しいが、ほんの少しだけ怒気を孕んだ声で、葉梨は『魅力的な加藤さんに、他の男性がいないわけないですよね』と言った。

 私はどうすればいいのだろうか。私は葉梨を好ましく思っている。でも、このままなら離れていってしまう気がして、葉梨の腕を掴んだ。正直に話さないといけないと、私は思った。


「いる。いる、けど……でも、もう……」


 葉梨の顔を見ることが出来ず、私は下を向いてしまった。葉梨がまた小さく息を吐いて、私の顔に手を触れた。その手は顎に添わせて、少し力を込めた。

 その力に身を任せると、葉梨の目はまたあの怖い目をしていた。殺気、怒気、仕事をしている時の目なのか。そう思っていると、思いがけない言葉が落ちてきた。


「奈緒」


 名を呼び捨てにされて驚いて目を伏せてしまった。『奈緒、俺を見て』とまた呼び捨てにされ、ゆっくりと葉梨の目を見た。


「俺を、好きになれるか?」


 私は頷いた。

 それを見た葉梨は少しだけ口元を緩ませてから、私の唇にそっと唇を重ねた。


 ――嫉妬だ。


 葉梨のこの目は嫉妬している目だ。

 私に男の影があって、葉梨は嫉妬したんだ。


「今日は、帰りましょう」


 そう言って手を繋いで歩き出した葉梨は少し先にいる。どんな顔をしているのか、私にはわからなかった。


 一人の女だけを夢中にさせる男は、いい男――。


 私は、葉梨に夢中になると思った。





 

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