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質草女房

作者: どくだみ

 江戸時代も町人の文化が発展した、文化・文政時代の頃の話です。

 江戸は浅草の菩薩長屋というところに長吉とおかねという夫婦が住んでいました。そして二人には多助という五歳になる息子がいました。長吉は壁塗りの職人として左官屋の親方の元で仕事をしていました。女房のおかねは大層な美人で、近所中でも評判でした。

 こんな長吉一家ですが、長吉は根っからの江戸っ子で「宵越しの銭は持たねぇ」などと言っては、外でお酒をよく飲んで、あまり家にお金を入れませんでした。

「お前さん、もう少ししっかりしておくれよ」

 女房のおかねが言っても長吉は聞く耳を持ちません。

 江戸時代はお金がなくてもツケで買い物が出来ましたので、困ることはありません。それでも、長吉の態度におかねはいつも呆れ顔をしていました。

 それに長吉は左官職人としての腕は良かったのですが、時々、怠け癖が出て仕事も休みがちでした。これでは、いくら腕が良くても貰えるお給金は多くありません。

 おかねはいつもため息を漏らすのでした。


 ある年の六月。長吉が仕事もせずに町をフラフラ歩いていると、魚売りの声が耳に入りました。

 この時期になると初鰹を売りに、魚屋が町を回るのです。ただし、この時期の鰹は高く、一匹で三分もします。今で言うと四万円くらいでしょうか。

 江戸っ子は初鰹に目がありません。「女房を質に入れてでも食べたい」などと言われていました。

 長吉も江戸っ子です。この時期には鰹を食べなければ気が済みません。長吉は袖の中のお金を確かめます。しかし、お金は銅銭が少しばかりあるばかりです。

「ああ、初鰹の刺し身が食いてぇなぁ。お銚子をキューッとやってよぉ」

 ただ、食べられないとなると、余計食べたくなるものです。長吉はどうしても鰹が食べたくなりました。

「そうだ!」

 長吉が何か思いついたようです。長吉は走りだしました。

 長吉が向かった先、そこは長吉の長屋の近くにある「亀屋」という質屋でした。ここは長吉が昔からの馴染みの店で、よく出入りしていました。

 亀屋は老夫婦でやっている質屋でしたが、あるじの利兵衛は人柄が良いことで有名でした。

 生活に困った浪人が刀を売りにくれば、せめて格好だけでもと竹光を持たせてやったりしたこともあります。

 長吉は暖簾をくぐって亀屋に入りました。その長吉を利兵衛が上目遣いで見ます。

 実は利兵衛は怠け者で借金ばかり繰り返す長吉のことがあまり好きではありません。それに期限までにお金を返したことなど一度もないのです。

「よう、じいさん。一両ばかり貸してくれや」

 長吉は店に入るや否や、利兵衛にそう言いました。

「何だね、薮から棒に」

 利兵衛は露骨に嫌な顔をします。

「どうしても金がいるんだよ。頼む。貸してくれ」

 長吉は頭も下げずに、手を袖の中に入れたまま利兵衛に頼みました。利兵衛は苦虫を潰したような顔をしています。

「どうしたんだい? わけを聞こうじゃないか」

「金を貸すのにわけがいるのかい?」

「お前さんはいつも借りたお金をちゃんと返さないし、怠け者だからね」

 利兵衛が冷たく言い放ちました。

「わけは言えねぇ」

 長吉も初鰹を食べたいからとは言えません。

「じゃあ、無理だ。余所を当たるんだね」

 利兵衛は長吉に背中を向けてしまいました。長吉は困ってしまいました。これでは初鰹が食べられません。だけど長吉の初鰹への思いは大きく膨れ上がり、自分でも止めることが出来ませんでした。

「わかった、わかった。言う、言うよ。実はな、初鰹が食いたくてこうして金を借りに来たってわけよ」

 利兵衛は目を丸くしました。

「それじゃあ、お前さんは初鰹のためにお金を借りようってぇのかい? 呆れたお人だねぇ」

「なぁ、頼むよ。俺も江戸っ子だ。初鰹くらい食いてぇや」

 ようやく長吉が手を合わせて頭を下げました。

 しかし、利兵衛は長吉にお金を貸す気など毛頭ありません。何とか無理難題を吹っかけて追い返そうと考えました。

「うちは質屋だ。質草がなくっちゃあ、お金は貸せないよ」

 利兵衛は長吉の家に、もう質草になるようなものがないことを知っていて、わざと意地悪そうに言いました。

「俺の左官道具がある。あれでいいだろ?」

 長吉は利兵衛が質草に入れたものを、そのまま使っていてもいいと言うと思っていました。今までもそうだったからです。

「左官道具はお前さんの商売道具じゃろ? お前さんが左官道具を質草にすると言うのなら、今日にでもうちに預けてもらうよ。するとお前さんは仕事が出来ない。明日から一家、路頭に迷うわけだ」

 これには長吉も頭を抱えました。確かに商売道具がなくては仕事ができません。すると借金が返せないばかりか、明日からの生活にも困ってしまいます。

「ええい、じゃあどうだ。うちの女房を質草にしようじゃねぇか。ただ、一両で女房ってぇのは割に合わねぇ。金を返すまでの間は、女房を自由にさせてくれ」

「へっ? おかねさんを……、質草にかい?」

 さすがに利兵衛も驚きを隠せません。確かに初鰹は「女房を質に入れてでも食べたい」などとは言いますが、本当に質草にするなどとは、利兵衛も長年質屋をやっていますが、初めてのことです。

「そうともよ。うちのかかあなら文句あるめぇ」

 長吉が腕組みをして居直りました。

 利兵衛も腕組みをしました。そして、何やら深刻な顔をして深く考え込んでいる様子です。

 利兵衛が煙管で煙草をふかしました。その仕草を見て長吉はじれったそうです。

「おい、じいさん。貸すのか、貸さねぇのか、はっきりしてもらおうじゃねぇか」

「ふーむ」

 利兵衛が煙管の灰をポンと落としました。

「いいでしょう。一両、お貸ししましょう。約束の期限は一月後。まぁ、それまではおかねさんと暮らしていてもいいよ。ただし、一月過ぎても返さない場合はおかねさんを頂いていくからね。忘れるんじゃないよ」

 こうして長吉は女房のおかねを質草に、一両のお金を借りて初鰹を買い、余ったお金でお酒を買って長屋へ帰りました。

 初鰹を見たおかねはびっくり。

「お前さん、よく初鰹なんて買えたね」

「うん、ちょいとね。親方からのおすそわけだよ」

 でもおかねは心配です。高い初鰹を気前よく親方が分けてくれるなんて、出来過ぎた話です。

「ねぇ、お前さん、本当に親方さんからのおすそわけなのかえ?」

 不安になったおかねが長吉に尋ねました。

「うるせぇ! おめぇは黙って亭主の言うこと聞いてりゃいいんだ。それより、さっさとこの鰹をさばきやがれ!」

 仕方なくおかねは鰹に包丁を入れます。

 やがて長吉の前に初鰹の刺し身が並びました。長吉は醤油に溶き辛子を入れて、それにつけて食べました。

「こりゃ、美味い。ほれ、おかね、多助、お前らも食ってみろよ」

 そうは言われたものの、おかねは何か胸につかえるものがあって食べる気はしませんでした。

「あたしはいいよ。全部、お前さんと多助でお食べ」

「そうかい。じゃあ、遠慮なく俺と多助でいただくとするか」

 長吉は酒を飲みながら、初鰹の刺し身をつまみました。

 息子の多助は異様な空気を察したのでしょう。あまり鰹には箸をつけませんでした。


 翌朝、長吉は「ちょいと行ってくらぁ」と言って仕事に出掛けました。

 長吉は自分の女房を質草にした以上、借金を返し終わるまでは真面目に働こうと思いました。

 長吉がいつものように親方のところへ行くと、親方が何やら難しそうな顔をしています。そして長吉の顔を見ると手招きをしました。

「おい、長吉。ちょいと話があるんだ」

「へい。何でございましょう」

「おめぇ、昨日何してた?」

「へぇ、ちょいと、そのー」

 長吉は返答に困りました。初鰹を食べるために走り回っていたなんて、とても言えません。

「あのー、親戚の叔母が亡くなったんで……」

 長吉は嘘を言いました。長吉がよく使う手です。

「お前さんの身内はよく死ぬね。これで何人目だい?」

 親方が長吉をギロリと睨みました。今まで断りもなく休んでも、親方がこんなに厳しく問い詰めることはありませんでした。

 長吉は返す言葉もありません。

「長吉、お前は今日から来なくていいぞ」

「ひぇっ、そ、そんなぁ、親方ぁ! お願いします。お暇だけは勘弁してください」

 長吉の顔が真っ青になりました。

 親方は深く目を瞑り、考え込むように言いました。

「そりゃあ、わしだってお前さんの腕は惜しい。だが、お前さんは黙って仕事を休み過ぎだ。お前さんのせいで、どれだけお客さんの信用が落ちたと思う?わしが今、欲しいのはな、腕の良い不真面目な職人よりも、腕はそこそこでも真面目に働く職人なんだよ。悪いが長吉、お前さんには辞めてもらうよ」

 こうして長吉は仕事を失ってしまいました。今で言うならばリストラと言うところでしょうか。


 長吉は真っ暗な気持ちでトボトボと歩きました。

「これからの暮らしをどうしよう……」

 晴れ渡った空の青ささえ憎らしげに感じます。道端の小石を意味もなく蹴りました。

「とりあえず、亀屋のじいさんに相談してみっか……」

 長吉は足を亀屋に向けました。

「おや、早かったね。もう、お金ができたのかい?」

 長吉を見るなり、利兵衛が声を掛けましたが、長吉の浮かない表情を見て、おおよその察しがついたようです。

「さては、暇を出されたな。どうじゃ、図星じゃろう?」

「ああ……」

 長吉が力のない声で答えました。

「それじゃあ、貸した一両はとても返せんな。では、一月は経ってはいないが、質草のおかねさんは約束どおり私が預かるよ」

 利兵衛が長吉ににじり寄りました。

「そ、それだけは待ってくれ。女房を質に入れたことは、まだ女房にゃ話してないんだ。なぁ、頼む。後生だから待ってくれ」

 長吉は仕事を失ったことで頭が一杯で、おかねを質に入れたことをすっかり忘れていました。そこで利兵衛におかねを質草として預かると言われて、更に慌てました。今の長吉にはまわりのすべてが、自分をいじめているように思えました。

 しかし、利兵衛は冷たくあしらいます。

「そうはいかないよ。こちらも商売だからね。元々、私が止めるのも聞かず、無理やりお金を借りたのはお前さんだよ。仕事を失ったのも、女房を借金のカタに取られるのも、みんな身から出たサビじゃないか。けじめはキッチリつけてもらうよ。さぁ、おかねさんのところへ行こうじゃないか」

 そう言って、利兵衛は出掛ける支度を始めます。

(ああっ、おしめぇだ……)

 長吉は心の中で嘆きました。

 利兵衛は胸を張って、堂々と歩きました。長吉はその後ろを俯きながら、小さくなってついて歩きます。

 長吉の足袋が地面の砂利をザラザラと引きずりました。 


「お前さん、何てことしてくれたんだい!」

 事情を聞いたおかねの怒り狂った声が飛びました。

「すまねぇ、おかね。後生だから、勘弁してくれよぉ」

 長吉が土下座をして謝ります。

「もう、お前さんって人は! 私は堪忍袋の尾が切れたよ!」

 普段はおとなしく、美しいおかねが夜叉のような恐ろしい顔をして、台所から包丁を持ち出しました。

 これには長吉ばかりか利兵衛まで血相を変えて驚き、長屋の外まで逃げました。

 その時、子供の泣き声が響きました。息子の多助の泣き声です。多助には大人の話の内容はわかりません。ただ、大人たちの壮絶なケンカを目の当たりにし、その恐ろしさに泣き出してしまったのです。

 多助の泣き声に我に帰ったおかねは、包丁を下げました。

 そして利兵衛の方へ向き直ります。

「亀屋の旦那様、この度はうちの人がとんだご迷惑をお掛けして申し訳ございません。うちの人が私を質草にした以上、旦那様が私を預かるのは至極当然のこと。お供致します」

 おかねは利兵衛に深々と頭を下げました。

「ただ、息子の多助のことが気掛かりです。仕事も失ったうちの亭主に、正直言って面倒見られるとは思えません」

 そのおかねの言葉に利兵衛は優しく笑いました。

「いいよ、いいよ。息子さんもうちで預かろう」

 その言葉におかねも長吉も驚きました。二人ともおかねをどこか女遊びをするところに売り払われるのかと思っていたので、そうすれば息子の多助は邪魔なはずです。ところが利兵衛は多助も預かると言うではありませんか。

 おかねは利兵衛の目をジッと見つめました。その目はとても誠実そうな目でした。

(この人なら信用出来る)

 そう思ったおかねは、多助の手を引いて利兵衛の後についていきました。

 その背中に長吉が声を掛けます。

「おい、おかね! 多助!」

 その声にもおかねは振り向きません。多助はチラッと振り向きましたが、おかねが手を引くとすぐに前を向いてしまいました。

 こうして遠ざかる女房と息子の背中を長吉は呆然と立ち尽くして眺めるしかありませんでした。


 亀屋に着いたおかねと多助に利兵衛はお茶を差し出しました。多助には饅頭まで出してくれたのです。

 おかねはかえって申し訳ないような気になりました。

「旦那様、あたしは質草なんですよ。こんなことされちゃあ……」

 おかねが気兼ねして言いました。すると利兵衛はふくよかな笑顔をしておかねに言いました。

「いやいや、いいんですよ。ところでおかねさんには長吉に貸したお金の分、うちの店で働いてもらおうかと思ってね。お坊ちゃんの心配はいりませんよ。ばあさんに面倒見させるから……」

 おかねの顔から緊張が解け、安心した表情が広がります。そして、改めて頭を下げると

「あたしでよろしければ是非、使って下さいまし」

 と、言いました。

「まぁ、今日は色々あって疲れたじゃろうから、ゆっくり休みなさい。明日からお願いしますよ」

 利兵衛はそう言うと、おかねと多助のために一部屋あてがってやりました。以前は利兵衛夫婦の息子たちが使っていた部屋です。その息子たちも、もう結婚して家を出ています。

 その夜、おかねは多助に子守歌を歌ってあげました。

 それを利兵衛はジッと聞いています。

「いい子守歌じゃな。長吉め、あんな良い女房と息子を泣かせおって……。さて、長吉の奴、これからどうするかな? こりゃ、見物じゃわい。おい、ばあさん、熱いの一本つけてくれ」

「はいはい。何か嬉しそうですね」

 利兵衛の年老いた女房が言いました。

「ああ、何かが起こりそうでワクワクするんじゃ。こういう夜は熱燗に限るな」

 こうして夜も更けていきました。


 翌朝、長吉は真っ赤な目をして布団からモゾモゾと出てきました。目の下にはクマが出来ています。長吉は昨夜は一睡も出来ませんでした。

 長吉は水を飲もうとして、水瓶の中を覗き混みました。そこに写った顔は何とも情けなく、貧相な顔です。

「あーあ、俺って奴ぁ、本当にダメな奴だなぁ……」

 長吉は水瓶に写った自分の顔を眺めて呟きました。

 そして、柄杓に水を汲んで、ゴクゴクと水を飲みました。その口元から水がこぼれ、着物の襟を濡らします。

「はぁ……、取り敢えず、飯でも食うか」

 あまり食欲はありませんでしたが、昨日の晩から何も食べていません。これでは身体がまいると思って、長吉は朝食の支度をしようと思いました。

 ところが、家事の一切を女房のおかねに任せっきりだった長吉はご飯の炊き方ひとつわかりません。

「ああっ、どうすりゃいいんだよぉ!」

 長吉は小銭を探しました。ところが小銭もほとんどありません。外の飯屋で食べるわけにもいかなかったのです。

 途方に暮れた長吉はフラリと外に出ました。

 長屋の隅の井戸端では、近所のおかみさんたちが長吉の方を見て何かヒソヒソ話しています。きっと、昨日の騒ぎの噂でもしているのでしょう。

「何をジロジロ見てやがるんでぇい!」

 長吉はイライラする気持ちを押さえきれず、おかみさんたちに当たりました。そして、フラフラとあてもなく歩き始めました。

 浅草寺の境内の華やかさも、今の長吉の目には色あせて見えます。今で言うならば、ちょうど白黒の写真のような景色でしょうか。

 川魚を焼いて売っている出店のおじさんが「こいつで一杯、キューッとどうだい?」などと声を掛けましたが、長吉の耳には届きません。おじさんは「シケた野郎だ」などと文句を言いました。

 気が付くと、長吉は大川橋(今の吾妻橋)の上に立っていました。何げなく下を流れる大川(今の墨田川)を覗き込みます。

 大川の流れはとうとうと、深緑の水を湛えています。底の石も見えず、ところどころ渦を巻いて流れていました。

(いっそ、このまま大川に身を投げちまうか……)

 途方に暮れた長吉は大川の流れを見て、自殺する気になりました。

「よう、長吉じゃねぇか」

 長吉はその声にハッとして振り向きました。

 その声の主は長吉の昔なじみの新次でした。

「どうした、シケた面して大川なんか覗き込んで。まさか変な気を起こそうってぇんじゃねぇだろうな?」


 程なくして長吉と新次は近くの飯屋に入りました。新次が食事を奢ってくれるというのです。

 新次は今、仕立屋をしていて、大層羽振りがよさそうです。なんでも、新次の仕立てた着物は人気で、さる大名の奥方様の着物を仕立てたりもするのだとか。

 そんな新次だから、お金には不自由のない暮らしを送っていました。

 長吉は新次に女房のおかねを質草に取られたいきさつを話しました。

「ふーん。そいつは長吉、お前がとんだろくでなしだね」

 長吉の話を聞いて新次はズバッと言いました。でも、その言い方は決して冷たくはありませんでした。

「俺はどうしたらいいんだ?」

 長吉が泣き出しました。大粒の涙が味噌汁のお椀にポトリ、ポトリと落ちます。

「そりゃあ、お前が決めることさ。ただね、長吉。お前、本当におかねさんとこれからも一生、添い遂げたいという気持ちがあるかい?」

「へっ?」

 長吉がクシャクシャになった顔を上げました。

「米の研ぎ方なんてのは、長屋のおかみさんにでも聞けば教えてもらえるだろうよ。仕事だって左官はもう無理かもしれないが、選ばなければそれなりにあるだろう。ただ、お前が今までのことを本当に反省して、おかねさんや息子とやり直す気持ちがあるのかい?」

 その新次の言葉に長吉はドキリとしました。

 最初は好きで結婚をしたおかねですが、月日が経つにつれて、ただ家事や子育てをする道具のように扱っていたことに気が付いたのです。

 息子の多助にしても、父親らしいことは何一つしたことがありませんでした。遊んで欲しいとせがまれても、厄介者扱いしてきました。

 そして、愛する家族を失って、改めその大きさを知ったのです。

「どうなんだい?」

 新次が長吉に詰め寄りました。

「俺はおかねが好きだ。いや、おかねだけじゃねぇ。多助も俺にとっちゃあ大切な息子だ」

「そうかい。それじゃあ、まずお前が仕事をちゃんとして、しっかりしないとな。お前がその気なら、知り合いの材木屋に口を利いてやってもいい」

「ああ、そいつはありがてぇ。これからは心根を入れ替えて、仕事をするともよ。だがなぁ、おかねがもし売り飛ばさられているかと思うと……」

 一旦は明るくなった長吉の顔がまた沈みました。

「俺も駆け出しのころは亀屋さんに随分と世話になったもんだ。大丈夫、亀屋さんはそんなお人じゃねぇよ。それより長吉、お前、仕事が軌道に乗ったらお参りを忘れるんじゃねぇぜ」

「お参り?」

 長吉が素っ頓狂な声を上げました。長吉はもちろん、新次も神や仏にすがるような男ではありません。

 長吉の驚いた顔を見て新次が言いました。

「お参りって言ったて、浅草寺に通うんじゃねえぜ。お前が通う先は亀屋さんだ。あれだけのことをしたんだ。金が出来てもおかねさんがそう簡単に許してくれるわけはあるめぇ。だから、お前はおかねさんのところへ通い詰めて、許しを請うってわけよ。そのためには、お前が怠け癖を治し、しっかり働いて、今までのことを反省しておかねさんに誠意を見せなきゃならねぇと思うよ」

 長吉はその新次の話を聞いて、俯いて固く拳を握り締めて呟きました。

「まったくだ……」

 そして、長吉は新次を見上げます。その目は熱い光を湛えています。

「新次、お前さんの言う通りだよ。俺はやり直す。たとえ何年かかるとも、もう一度おかねと多助を呼び戻すぞ」

「そうか。じゃあ、俺の知り合いの材木屋に早速、行こうじゃねぇか。それと、これは当座のお前の生活のお金だ。取っておきな」

 そう言うと新次は長吉の前に二両の小判を置きました。黄金色の小判が窓から差し込む陽の光をもらって、鮮やかに輝いています。

 長吉は震える手でその小判を掴みました。

「に、二両も……。本当にいいのかい?」

「ああ、材木屋の仕事は厳しいぞ。飯が食えなきゃ、力も出ないだろ? それと、いいか? それはあくまでお前が暮らしのために使う金だ。その金でおかねさんを身受けしようなんて思うんじゃないよ。おかねさんはお前が稼いだ金で身受けするんだ」

「わかってる、わかっているともよ」

 長吉は新次と小判に頭を下げました。

「よし、じゃあ行こうじゃねぇか」

 新次がそう言って席を立ちました。その後を長吉が着いていきます。

 浅草の賑わいが、ようやく長吉の目にも鮮やかに見えてきました。


「ちょいと、おかねさん」

 利兵衛がおかねを呼びました。今日からおかねは亀屋で働くことになっているのです。

「はい、旦那様」

「早速で悪いんだがね。おかねさんには取り立てに行ってもらいたいと思ってね」

「取り立て……、ですか?」

 おかねが利兵衛の顔を覗き込みます。

 おかねはてっきり、店の中の仕事をするのかと思っていました。

「ああ、そうじゃ。そんなに難しく考えんでもええ。期限になってもお金を返さない人に催促して、お金を返してもらうんじゃ」

 利兵衛が笑いながら言いました。

 おかねは取り立ては男の仕事のように思えました。それに、血も涙もなくお金を取り立てるのは、恨みを買いそうで何か嫌な気分です。

「あたしなんかに出来ますかねぇ……。それに利兵衛さんは質屋さんでございましょ? お金を返さない人がいれば質草を取り上げて売ればよろしいじゃございませんか?」

 おかねはさも嫌そうな顔をして言いました。

「じゃあ、おかねさん。お前さんを売っ払ってしまってもいいのかね?」

 利兵衛がニヤニヤして言います。しかし、その顔は意地悪そうではありません。

 おかねは答えに困ってしまいました。

「実は今日、おかねさんに取り立てに行ってもらいたいところは、十軒長屋の清吉のところなんだ」

 清吉のことはおかねも知っていました。暮らし向きは決して豊かではありませんが、清吉は誠実な男で、夫婦とも仲がよいことで有名でした。

 利兵衛は立ち上がると、奥から綺麗な着物を一着、取り出しました。

「おかねさん、ご覧。これが清吉のところの質草だよ」

「綺麗な着物。花嫁衣装みたい」

 おかねはその着物の美しさに見とれました。ため息が出る程美しい着物です。

「そうじゃよ。清吉がお内儀のおりんさんの花嫁衣装じゃ。実はな、お金を借りにきたのはおりんさんでな。二両貸してある。今は利子が付いて二両と一分だ。まぁ、これを質草にする時はどんなに辛かったことかろうて。女のお前さんならわかるじゃろう?」

「……」

 おかねは利兵衛の顔をジッと見つめました。

「わしはな、取らなくてもいい質草は、なるべく取りたくないんじゃ。特にこういう人の心に根付いたような思い出の品はな。さて、そこでもう一度、おかねさんに相談じゃが、清吉のところに取り立てに行ってくれるかい?」

 おかねは深く利兵衛に頭を下げると言いました。

「是非、あたしに行かせて下さいまし」

 こうして、おかねは亀屋を後にしました。

 十軒長屋は長吉とおかねが住んでいた菩薩長屋のすぐ近くにあります。

「ごめんください」

 ふすまを開けるとおりんが内職をしていました。浅草寺の境内で売る凧を作る内職です。

「はい、どちら様ですか?」

 おりんの明るい声が響きました。

「亀屋の遣いの者ですけど……」

 おかねがそう声を掛けると、おりんは一瞬、ハッとしたような表情となり、それから、下を向いてしまいました。

 おかねはどう声を掛けていいのかわかりませんでした。長い沈黙と、張り詰めたような空気が漂います。

「申し訳ございません……。お金は返そうにもございませんので、あのー、質草はお売りになって結構です」

 おりんが俯いたまま、か細い声で言いました。その肩が僅かに震えているのが、おかねにはわかりました。

 おかねには本当はおりんはあの花嫁衣装を売りたくないのだと思いました。

「ねぇ、おりんさん。あんたにとって大事な物なんだろ? うちの旦那はね、あんたの着物を売りたくないんだよ。あの着物をあんたに返したいんだよ。その思いはあたしだって同じさ」

 おかねはおりんに詰め寄りました。

 しかし、おりんは困った顔をして横を向いてしまいました。

「あの二両でうちの人が助かったんですもの。着物など惜しくありません」

 おりんがお金を借りたのには、何か理由があるようです。おかねはそれを知りたくなりました。

「どういうわけなんだい?」

「先月、うちの人が大病を患って、お医者さんに診てもらったり、お薬を買ったりするのにお金が必要だったんです。お陰様で、うちの人はすっかり治りました。だから私はうちの人さえ治って元気でいてくれればいいんです」

 そう言って、おりんが涙ぐみました。

「そうかい。そうだったのかい……」

「だから、いいんです。あの着物は売り払って下さって結構です」

 おりんが涙を袖で拭いながら言いました。

「でもね」

 おかねが食い下がりました。清吉とおりん程、仲のよい夫婦にとって花嫁衣装は大切な思い出の品のはずです。

「でもね、おりんさん。あの花嫁衣装があったにこしたことはないじゃないか。そりゃあ今、二両と一分作るのは難しいだろうけどさ、分けて返してくれたっていいんだよ」

「でも、返しきれるかどうか……」

「亀屋の旦那を見損なってもらっちゃあ困るよ。そう簡単にあの着物を右から左へ売るような旦那じゃないよ。きっと欲しいのは、清吉さんやおりんさんの誠意だと思うよ。取り敢えず、少しでもいいからさ、ね」

 おかねにそう言われて、おりんは財布から銅銭を十六枚数えて、差し出しました。十六文と言えば夜鳴き蕎麦一杯の値段です。

「申し訳ございません。今、私どもにはこれだけしか返せるお金がございません。これ以上お返ししてしまうと、私たちが暮らしていけません。少なくて恥ずかしい限りですが、もしこれだけでよかったら、どうかお収め下さい」

 それを見て、おかねはニッコリ笑いました。

「いいよ、いいよ。旦那にはあたしから言っておくよ。返せる時に返しておくれ」

 そう言って、おかねが立ち上がりました。

「ありがとうございます」

 おりんは向き直ると、涙を浮かべてお辞儀をしました。

 亀谷では利兵衛がおかねの帰りを待ち侘びていました。

「おお、お帰り。どうだったね、お金は返してもらえたかね?」

 利兵衛がおかねに笑い掛けました。その顔は、お金などどうでもいいというような顔です。

「取り敢えず、十六文だけ返していただきました。でも、ちゃんと返すつもりはあるようですよ、旦那様」

 それを聞いて利兵衛はニンマリと笑い、

「ああ、そうか、そうか。おかねさん、よくやってくれたね。さぁ、初めての取り立てで疲れたろう」

 利兵衛はそう言うと、おかねに奥の間で休むように言いました。

 おかねがおりんから取り立てた十六文を利兵衛に渡すと、利兵衛は一旦それを受け取り、「坊やに飴でも買っておやり」と、また十六文をおかねに渡したのでした。


 まだ朝早く、暗い長屋の一室に、灯りがついています。長吉の家です。

 長吉は朝食の支度をしていました。恥を忍んで長屋のおかみさんたちから飯の炊き方を教わり、自炊しているのです。

「よし、今日の弁当もこれで出来た。さてと、朝飯にするか」

 長吉はご飯を掻き込みます。

 そして、朝食を食べ終えるときちんと自分で食器を洗いました。

 東の空が白々と明けてきた頃、長吉は仕事に出掛けました。先日から勤め始めた材木屋の仕事です。

「よし、今日も頑張るぞ!」

 長吉は勇ましく歩き始めました。

 おかねがちょうど材木屋の脇を通った時、長吉の姿が目に止まりました。おかねはすぐ陰に隠れて長吉の様子を伺います。

「何度言ったらわかるんだ! こんな縄の結び方じゃすぐ解けちまうよ! まったく使えねぇ野郎だ!」

 長吉より若そうな男が長吉に文句を言っていました。

 おかねは長吉と男が喧嘩になると思いました。今までもそうだったからです。ましてや、自分より年下の男に文句を言われて、短気な長吉が黙っているはずがないと思いました。

 しかし、長吉は頭をペコリと下げています。

「へい、済みません」

 そう言って、長吉は縄を結び直し始めました。

 その様子をみて、おかねは首をかしげました。

「一体、どうしちまったんだろうね。あの怠け者で短気な男が……」


 その日の夕方、おかねは利兵衛に、長吉を見かけたことを話しました。

「ほう」

 利兵衛は興味深そうにおかねの話を聞いています。

「一体、どうなっちゃってんだか……」

「それで、おかねさん。長吉がお金を返したら、戻るのかい?」

 利兵衛が笑いながら尋ねました。

「冗談じゃありませんよ、旦那様。自分の女房を質草にするような男のところへは絶対に戻りません!」

 おかねがきっぱりと言いました。

「あはははは! そうか、そうか。まあ、わしもおかねさんがいると助かることは助かるんでな……」

 利兵衛が大笑いをして、煙管の灰をポンと落としました。

 その時、一人の男が亀屋の暖簾をくぐって入ってきました。

「いらっしゃいま……」

 笑いながらそこまで言いかけた、おかねの顔が強ばりました。

 入ってきた男は長吉でした。

 おかねはスッと立ち上がると、長吉を冷たく見下ろしました。利兵衛もジロリと長吉を見据えています。

 長吉は何も言わず、まずその場に土下座をすると深く頭を下げました。

「おかね、亀屋の旦那、本当に済まなかった!」

 長吉は頭を下げたまま言いました。その声は喉から絞り出したような声でした。そして、額は土間の土についています。

「何言ってんだい、今更」

 吐き捨てるようにおかねが言いました。

 それを利兵衛が止めます。

「まあまあ、おかねさん。話だけでも聞こうじゃないか。長吉、顔を上げな」

 そう利兵衛に言われて、長吉はやっと顔を上げました。その目には大粒の涙が一杯溜まっています。

「俺は今、心根を入れ替えて材木屋で働いている。まだまだ半人前だが、辛い仕事でも一生懸命やっているよ。掃除や炊事、洗濯も自分でやっている。一人で暮らしていくには不自由はしねぇ。だが、俺は気付いたんだ。俺はおかねや多助がいねぇと生きていけねぇ。それと今日、初めてお給金を貰ったんだ。少ないが亀屋さん、こいつはおかねの食い扶持だ。取っといてくれ。おかねの身受けの金は改めて払うよ」

 そう言って、長吉は利兵衛に二分を渡しました。

「まぁ、預かっておこうよ」

 利兵衛は長吉からお金を受け取りました。その様子をおかねは冷ややかに眺めています。

「お金を返すのは勝手だけど、あたしはもう、お前さんのところには戻らないよ」

 おかねが長吉を睨み付けて言いました。

「おかね、本当に済まなかった。この通りだ」

 長吉は手を合わせると、再び深く頭を下げました。

 そして、懐から独楽を一個、取り出します。

「これは多助にやってくれ」

「こんな物で釣ろうってぇのかい?」

「そうじゃねぇ、多助の奴が寂しがっていると思い……」

「多助はね、寂しがってなんかいないよ。元々、お前さんは多助に何もしてやらなかったじゃないか」

 そう言うと、おかねはプイと長吉に背中を向けて、奥に引っ込んでしまいました。

「お、おい、おかね!」

 長吉は叫びましたが、おかねは奥の間からは出てきません。利兵衛は長吉をチラリと見ると、「ふぅ」とため息をつきました。

「どれ、その独楽はわしが預かろう」

「あ、ありがとうございます」

 長吉の目から涙がこぼれました。

「おかねさんを連れ戻したいのなら、お金はともかく、毎日おいで」

 利兵衛は長吉に向かって、そう言いました。長吉は新次の「亀屋にお参りをしろ」という言葉を思い出しました。

「へい……」

 長吉は袖で涙を拭いながら、亀屋を後にしました。


 それからというもの長吉は仕事の帰りには、必ず亀屋に寄りました。

 しかし、おかねは長吉の前に姿を見せてはくれません。

 それでも長吉は足繁く亀屋に通いました。やがて夏が過ぎ、秋が過ぎ、木枯らしが吹き始めます。それでも長吉は通い続けます。雨の日も、雪の日も……。

そして、お給金を貰った日には必ずお金を持ってきました。

「おかねさん、そろそろ長吉に会ってやったらどうだね?」

 利兵衛がおかねに、そう言いました。

「旦那様、あたしはもう、あの人に愛想が尽きたんでございますよ」

 おかねがきっぱりと言いました。

「確かに長吉がやったことは褒められたことじゃない。けどね、長吉もだいぶ反省して真面目に働いているようだし、おかねさんのことを心底、好きなようだよ」

「でもねぇ……」

 そのまま、おかねは黙りこくってしまいました。


 ある日、おかねは仕事の合間にこっそりと長吉の暮らしぶりを覗いて見ることにしました。

 おかねは長吉の勤める材木屋の近くの物陰に隠れ、そっと長吉の様子をうかがいました。

「おう、長吉、今夜あたり一杯どうだい?」

 仕事仲間でしょうか。長吉に声を掛ける者がいます。

「ダメだ。俺は酒はやめたんだ」

「なんでぇ、付き合いの悪りぃ奴だな。たまにはちょっとくらい、いいじゃねぇかよ。付き合えよ」

 仕事仲間がしつこく長吉に誘いかけました。

「俺はなぁ、酒と初鰹で女房子供に辛い思いをさせちまった。女房はもう、俺を許しちゃくれねぇかもしれねぇ」

 長吉のため息のような声が聞こえてきました。

「だったら、いいじゃねぇか。飲みに行こうぜ」

「いや。女房子供も辛い思いを今、しているんだ。俺一人だけ酒なんか飲めねぇ。俺はこれから女房のところへ行かなきゃならねぇんだ」

「許して貰えねぇ女房のところへか?」

「そうともよ。許して貰えなくったて、俺は行かなきゃならねぇ。そう決めたんだ」

 長吉の力のこもった声が聞こえてきます。

「わかった、わかった。もう誘わねぇよ。どこへなりと消えちまいな。まったくシケた野郎だぜ」

 仕事仲間は、そう言うと立ち去って行きました。

「さてと……」

 長吉は帰り支度を始めると一目散に亀屋の方へ向かって歩き始めました。その早さたるや、並の早さではありません。すぐに後を追いかけたおかねですが、あっと言う間に長吉を見失ってしまいました。

 おかねは仕方なく、先回りして菩薩長屋の近くで長吉の帰りを待ちました。

 すると、近所のおかみさんたちの声で長吉が帰ってきたことがわかりました。

「長吉さん、どうっだった? おかねさんには会えたかい?」

「いいや、今日もダメだったよ」

「そうかい、残念だったね。でも、元気おだしよ。あんたが今、しっかりやってんのは私たちが一番よく知ってんだからさ。今度、おかねさんに会ったら言ってあげるよ。そうそう、今日、うちで煮物作ったんだけど、おすそわけ」

「こいつは、すみません」

「とにかく、元気おだしよ」

 その一部始終をおかねは物陰から見ていました。長吉に煮物を分けてあげたおかみさんは、以前は長吉のことを嫌っていたおかみさんです。そのことからも、今の長吉が真面目に暮らしていることがわかりました。

「お帰り。今日はばかに遅かったね」

 亀屋に戻ったおかねに利兵衛が声を掛けました。

「ええ、ちょっと……」

 そう言うと、おかねは奥の間にそそくさと入っていってしまいました。

 利兵衛が煙管をフーッと吹きました。その煙が今のおかねの心のように揺らいでいます。

 利兵衛がクスッと笑って、何やら紙切れを出しました。利兵衛は目を細めてそれを眺めます。

「そろそろ、おかねさんに長吉の取り立てに行ってもらうか……」

 利兵衛はそう呟くと、煙管の火種をポンと落としました。


 翌日の夕方、お寺の鐘が暮れ六つを知らせる頃、利兵衛がおかねを呼びました。

「ちょいと、おかねさん。今日はこれからぜひ、あんたに取り立てに行ってもらいたいところがあるんじゃ」

「これから……、ですか?」

 おかねがいぶかしげな顔をしました。

「そうじゃ、菩薩長屋の長吉のところへ取り立てに行って欲しいんじゃ。おかねさん、あんたの身受け料だよ」

 利兵衛がニヤッと笑って、おかねの顔を覗き込みます。

 おかねは突然の利兵衛の話に困ったような顔をしました。

「そ、そんな旦那様。急に言われても……。それに、うちの人は今までお金を払っていたじゃありませんか」

「あのお金は、おかねさんと坊やの食い扶持だと長吉が言っていたよ。おかねさんが長吉のところへ戻る気持ちがあるならば、取り立てに行っておくれ」

 おかねは俯いて、指先を絡めたりしています。

「そ、そんな急に言われたって……。それに、うちの人が二両なんて大金を持っているかどうか……」

 おかねの煮え切らない態度を見て、利兵衛は言います。

「このままじゃ、利子がどんどん増えていくよ。長吉が借りたのは一両だが、今は利子がついて返してもらうのは二両だ。このままじゃ、三両にも四両にもなるよ」

 おかねはしばらく目を瞑った後、大きく目を見開きました。

「わかりました。取り立てに行って参ります」


 空は暮れる寸前の闇と茜色が溶け合った色をしていました。

 長屋の近くまで来ると、おかみさんたちの陽気な笑い声が聞こえます。それに混じって長吉の声も聞こえてきました。

「長吉さん、すっかり人が変わっちまったねぇ」

「この間は煮物、ごちそうさまでした」

「いいんだよ。困った時はお互い様じゃないか。それより、今度また雨漏りした時、よろしく頼むよ」

「へい、まかして下せぇ」

「それで、おかねさんの方はどうなんだい?」

「……」

「そうかい……。しっかりおしよ。きっと、おかねさんにもいつかは気持ちが通じるよ」

「ありがとうございます」

 そこへ、おかねが歩み出ました。

「おかね……」

 長吉の手から茶碗が滑り落ちます。茶碗はパリーンと、大きな音を立てて割れました。

「お前さん、ちょっと……」

 おかねはそう言うと、長吉に家の中へ入るように目配せします。

 長吉がおかねの後に続きました。長屋のおかみさんたちは心配そうな顔で長吉を見送りました。

「ねぇ、お前さん、今日は亀屋の遣いとして来たの。お前さんが亀屋に借りたお金、利子を含めて二両を取り立てに来たの」

 おかねが長吉とは目を合わせずに言いました。

「じゃあ、おかね。俺のところに戻ってくれるのか? 俺を許してくれるのか?」

 長吉は身を乗り出して、おかねに詰め寄りました。おかねが軽くため息をつきました。

「お前さんが反省していることも、人が変わったように真面目に暮らしていることもわかったし、それに何よりもあたしと多助のことを想ってくれていることもわかったわ。でも、今度だけだからね」

「わかってる。わかっているともよ。もう二度とあんな馬鹿なまねはしねぇ。俺は生まれ変わったんだ。信じてくれ」

 そう言う長吉の目には力がこもっていました。

「わかりました。信じます。でも……、お前さんに二両なんて大金、払える?」

 それを聞いた長吉は「ちょっと待ってろ」と言い、箪笥の中をゴソゴソと探し始めました。そして、おかねの前に小ツブ(銀貨)を差し出したのです。それは、合わせて三両ありました。

 さすがにこれにはおかねも驚きました。

「お、お前さん、どうしたんだい、こんな大金」

「暮らしを切り詰めて必死に溜めたんだ。お前や多助のことを想ってな」

「お、お前さん……」

 おかねの表情から硬さがとれ、頬が緩みました。

「さぁ、持ってってくんな」

「それでは、旦那様から言われた金額は二両ですから、二両だけいただきます」

「いや、亀屋の旦那にはだいぶ迷惑掛けたからな。迷惑料含めて三両、持ってってくれ」

 長吉がおかねの顔を真剣に見つめました。

「わかりました。お預かりしておきます」

 おかねが「では」と言って立ち上がりました。それを長吉が引き留めます。

「外はもう暗いから、亀屋さんまで送っていこう」

 長吉が提灯に灯りを灯します。

「ありがとう……」

 おかねがほんのり赤い顔をしました。


「おや、お二人さん揃って来たかい?」

 亀屋の暖簾をくぐった、長吉とおかねの姿を見て利兵衛がにこやかな笑顔で言いました。

「旦那様、うちの人がどうしても三両返したいって……」

 おかねが利兵衛を見て、少し困ったような顔をして言いました。

「ほう……」

 利兵衛は驚く様子もなく二人の顔を見つめます。

「旦那さん、今まで本当に済まなかった。一両は迷惑料だ。取っておいてくれ」

 長吉が頭を深々と下げました。

 利兵衛は「ふーむ」と深く頷くと、腕組みをしました。

「わかりました。じゃあ、三両いただきましょう。おかねさん、御苦労様だったね。それと長吉、もうこれでおかねさんを預かる理由もなくなった。連れてお帰り」

 おかねも利兵衛に深々と頭を下げると、長吉から取り立てたお金を利兵衛に渡し、奥の間へ行って帰り支度を始めました。

「どうじゃ、よい薬になっただろうが?」

 煙管に火をつけた利兵衛が、クスッと笑って長吉に尋ねます。

「へい、そりゃあ、もう……」

 長吉が照れたように笑いました。

「それに、あの時、仕事を失ったお前さんは女房子供を養っていけなかっただろう」

 その利兵衛の言葉に長吉はギクリとしました。確かに仕事を失った時、そのままではおかねと多助を養っていけたかどうかわかりません。

「そ、それじゃあ、旦那はわざとおかねと多助を・・・・・・」

「その方がよかったはずだ」

「あ、ありがとうございました」

 長吉は土下座をして利兵衛に感謝しました。

「ははは、いいってことよ」

 利兵衛が豪快に笑いました。

 そこへ多助が走ってきました。

「お父ちゃーん!」

「おお、多助!」

 長吉は多助を思いきり抱き締めました。

「これからは、お父ちゃんも一緒だよね?」

「ああ、一緒だとも。一緒だともよ」

 長吉の目が潤んでいました。多助の後からついてきたおかねも袖で涙を拭いています。

「これを多助に渡しておやり」

 そう言って、利兵衛が長吉に渡したのは、いつか長吉が多助のために買ってきた独楽でした。

「さてと、おかねさんにはお給金を払わなきゃね」

 利兵衛が財布を探ります。

「えっ? だってあたしはうちの人の分の……」

 おかねが目を真ん丸にしています。細く、切れ長の目が、まるで飴玉のように見開かれました。

「だって、長吉からはたった今お金を返してもらったじゃないか。ちゃんとおかねさんにはお給金を払いますよ」

 そう言うと、利兵衛はおかねの前に三両の小判を置きました。

「さ、三両……!」

 これにはおかねも長吉もびっくりしまして、口をポカーンと開けています。

「これじゃあ、かえって……」

 そう言いかけたおかねを利兵衛が止めました。

「まぁ、いいから取っておきなさい。おかねさんはそれだけの仕事をしたんだから……」

 利兵衛はそう言いながら、三両の小判をおかねの懐にしまいました。

「何から何まで済みません……」

 おかねと長吉が揃って頭を下げました。

「いいよ、いいよ。それより、もう暗いから気を付けて帰るんだよ」

 おかねと長吉は、もう一度「ありがとうございました」と利兵衛に頭を下げ、多助の手を引いて、亀屋から出ていきました。


「ふふふ、ばあさん、今日はこれで店じまいだ。熱いの一本つけてくれ」

 利兵衛の嬉しそうな声が亀屋の店先に響きました。  


(了)

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