蟲の音
山間に囲まれた小さな村、うちは坂の上に建つ一軒家で、古くから続く名家らしく、敷地内の隅には今は使われていない大きな蔵がある。
その蔵では、ざわざわざわざわとなにかが騒ぐ音がする。そして時折、ずーっずーっと、なにかが這うような音も聞こえてくる。
しかしそれは、ねずみやゴキブリではなく、それらが聞こえるたびにわたしは、幾度となく、蔵をのぞきに行くのだが、人が来ることを悟ってか、原因となるそれを目にしたためしがない。
蔵は広く、ほこりが積もっている。
気管が弱いわたしは蔵の中には立ち入るなと父親に固く言われているから、入り口からできるだけ中をよく見ようとするが、表から見れる範囲はしれていて、音も止み、無音の中にただ広がる闇が、わたしを誘うばかりであった。
子どものわたしにしか聞こえないようで、家の手伝いの者やわたしの家庭教師を呼んでみたが、ただのいたずらと思われてしまって叱られるだけであった。
あるとき、わたしが蔵の様子をどうも気にしていると祖母の耳に入ったようで、わたしは別邸に住む祖母に呼ばれて、話を聞かされた。
「昔の話じゃが……そうさねぇ、どのくらい昔かというとねぇ、おまえのおおじいさんのあにぃが幼かった頃あたりかねぇ、蔵ん中でへびがずーずー這いよる音がする言うてねぇ、大騒ぎしたことがあったんじゃ」
自分の体験と一緒だと思った。
わたしは祖母の話に真剣に耳を傾けた。
「そんときゃあ、みんなして蔵ん中見に行きよって、蔵ん中の書物をばぜぇんぶひっくり返して、へびがいねぇか確かめたんだけども、見つかんなくて、あにさんはひどく折檻されたらしいわ。そいからここいらで、あにさんはほら吹き呼ばわり。だけどもあにさんには間違いのう聞こえんだべ、蔵に棲むなにかの音がさぁ」
「やっぱりあの音は嘘じゃなかったんだ……わたしみたいにあれが聞こえた人がほかにいたんだ……」
「んだ。どうしてあにさんばかりに聞こえるかわからねぇまま、そのうち“坂の上のあにぃは狂うちょる”いううわさがたって、ほら騒動のちょうど一か月後に、あにさんは蔵で首くくって見つかったんだとよ……悲しい話だべ。あにさんが亡うなる二日ほど前に、弟の繁二……おまえのおおじいさんがよぉ、蔵から話し声がするのを聞いたんだと。蔵の表の大扉から入りゃあ、あにぃに気づかれるから、蔵のわきにある木によじ登って窓から見てみりゃあ、蔵にこもってなにやらまじめに話すあにぃの声が聞こえたんだべ——……」
「ほいじゃぁ、ほんとに起こるいうがか、そいなことが」
ほの暗い中、ろうそくに照らされたちいさな男の影が伸びる。
「逃げる算段するいうても、おまえ……おりゃあ“ほら吹き繁男”だべ。だぁれもおりゃあの言うことにゃ聞いてくれりょやせんが」
ざわざわざわ。
なにかが兄に答えた気がした。
「……なん? 繁二を使えいうんか。……そりゃあ、あいつぁ頼れるけども」
ざわざわ。
「駄目で元々……わかった。いっちょ、やってみちゃろう」
「おおじいさんは、兄の話す内容はようわからなんだそうだが、弟である自分を近々頼ってくるであろうこたぁわかったそうだわ。そいで、あにぃが話に来よるのをずっと待っちょったそうな」
言い終えて、一瞬、祖母は悲しげな顔をした。どうしたのだろう。
「言ったかいのぅ、あにさんは死んだ。弟の繁二にはなぁんも伝えんまま逝きよったんよ」
え? 弟を頼るのではなかったのか。どうしてなにも言わずに自殺なんてしたんだろう。
「なにかあったの?」
「あったもあった。ありゃあ大変なことざったいて、昔からこの辺に住んどる人なら今でも覚えちょる言いよろう。火事や。火事があったんね。ここいらぜぇんぶ焼き尽くす大層な火事でね、夜中の火事やったけん、みんな寝てございて、火消しが遅れた。カーン、カーンと、一帯に半鐘の音が響いて、大人が叫ぶ声がした……」
「火事だー、火事だー!」
カンカンカン! 近所中に半鐘が響き渡って、ぐっすり寝てた大人も飛び起きた。
「おいおい、こんな夜中になにごとでぃ!」
ある家の旦那は布団からころがり出て、玄関の戸を開けた。
「おやっさん、火事だよ、火事! 逃げる支度しな!」
隣の家のばあさんのひどく慌てた声がした。
「おめぇ、火事だってのに荷支度してんのかい。そんなもん、置いて逃げなきゃ駄目じゃないか」
「そうは言っても、こちとら商売屋だ。家財道具まで燃やされちゃあたまったもんじゃないよ」
「荷支度なんていいから、早く逃げるんだよぉ、おめぇ!」
「でも……」
うろたえるばあさんにしびれを切らした旦那は怒鳴りつけた。
「でもも、だっても、へったくれもねぇ! いのちとられりゃしまいなんだから!」
燃える火の手に負けず、動ける大人は大急ぎで近所中に声かけあって、足腰の悪いじいさんばあさんを助け出した。
「逃げるったって、どこへ行きゃあいいんだよ」
「心配ぇすんな。坂の上のおやじがうちに来いって言ってくれてるよ。世話になりゃあいい」
「なるほど。それでみな、うちに避難したんだね。でも大丈夫だったの? 坂の上だから火の手が早かったんじゃないの?」
「いんや。不幸中の幸いにも、坂の上まで火の手は来なんだそうだよ。これはおおじいさんが言ってたことじゃがね、あにぃはこの火災が起こるのを知ってたんじゃなかろうかってね。蔵で首くくっていたのは、普段入らん蔵に人が立ち入ってもらうようにするための策じゃったんじゃないかってねぇ」
「どうして? 蔵になにか見てほしいものがあったの?」
「そうだよぉ。蔵の中は何代前の人が書いたかわからん書物の山だった。その一つに目を通してみりゃ、驚くことに、ざわざわと物音を聞いたその何日かあとに火事が起こったと書かれていたそうな」
書物をひも解いてわかったことは、それだけではなかった。
この家の長男にだけ火事の報せは聞こえるのだそうだ。
火事を告げるそれは“蟲”と呼んでいると記述されていた。
ざわざわざわ。蟲の音がわたしにも聞こえたということは、数日の間に火事が起きるということなのか。
わたしはこの話を親にするも、悪趣味ないたずらと一蹴されて終わった。
火事になるならば、とわたしにできることは、軒先に水をいっぱい入れたバケツを並べて置いておくこと、近所に火の用心をするようにあらかじめ言っておくことだった。
ざわざわざわざわ。
ある夜、蟲の音が耳障りなくらいひどいのでわたしは寝つけずにいた。
ざわざわざわざわ、ずっーずっー、ざわざわ……ぱたりと音が止んだと思ったそのとき、変なにおいがした。
これは!
慌てて窓の外を見た。すると裏山が明るくなっている。
「火事だー、山火事だー! ぐっ、ごほごほ……」
わたしの声で親が起き、父親が火事を報せた。
「火事だぞー、裏山で火事だー! 火消しに来てくれー」
それを聞いた人たちがわたしが用意しておいたバケツで火消しを行った。
幸い、うちに火の粉が移ることはなく、ちいさな山火事として収められた。
それからというもの、火の用心を怠らないために消防団が結成され、拍子木といわれる木を鳴らす習慣ができた。
カーンカーンカンカン、どこかで木と木がぶつかり合う音がする。今宵も火の用心の報せが参る。
子どもの時分に聞こえていた蟲の音は、少しずつ聞こえなくなり、成人したわたしにはめっきり聞こえなくなった。
数年後、古くなった蔵を取り壊し、そこに新しい家を建てると、あるとき息子が言った。
「ねぇパパ、天井裏でなにかがこすれるような音がするんだ」
はて、火事を報せる蟲たちも引っ越したのかな。
ざわざわざわ、ざわざわざわ。
もしも、あなたも聞こえたのなら、火の用心ご用心、マッチ一本火事の元だ。
おしまい