空に鯉のぼりと終わり。
青空で雲ひとつ無い、いい天気だった。五月のぼんやりとした空に浮かぶ鯉のぼりは、親鯉子鯉が列になって、気持ち良さそうに空を泳いでいる。僕と神田は二人で見つめ合い、お互いに笑い合っていた。神田が握手を求めてきたので、僕は彼の人差し指を握る。
目の前を一匹の白い蛇が通り過ぎた。空き地にはいくつもの足跡がついていた。おそらく鶏のものだろう。遠くで牛が鳴いていた。
鯉のぼりが上っているのは、後藤という表札のかかった一軒家だ。僕たちは、その隣の空き地のベンチで握手を交わしていたのだった。
「乾杯でもしようか」
僕がそう言うと、彼はそんな気じゃないと手を振った。
「こんな日に乾杯の一つもしないなんて、それこそ神に失礼だよ」
僕はいたずらっぽく笑って、右手にバールを持ち直すと、自販機の扉の隙間に差し入れ、てこの原理を使って無理にこじ開けた。僕はその中からサイダーを二本取り出すと、彼に投げ渡した。
彼はしばらくカリカリとプルタブをいじっていたが、どうも開けられないらしく、申し訳なさそうに僕を見つめた。僕は彼からサイダーを受け取って、プルタブを開けてあげた。彼はまた僕からサイダーを受け取ると、一口で全部飲んでしまった。
「おい、乾杯はまだだろう?」
僕がそう言うと、彼は申し訳なさそうな顔をしてまた僕を見つめた。僕の分のサイダーは音を立てて開き、空のサイダーと乾杯をする。常温の生ぬるいサイダーが僕たちの喉を潤した。五月のぼんやりとした空気によく合う、だらしない味だ。僕たちは、これを、この、だらしない感覚を求めていたんだ。
空き缶を神田に投げ渡すと、彼はそれを受け取って親指と人差し指で潰した。
僕は彼の左腕に、自分の頭を乗っけた。彼の腕を汚してはいけないので上半身のシャツを脱いで上だけ裸になった。
「君はヒーローだよ」
神田は言った。僕には慰めにしか聞こえなかった。
「よせよ、こんなに考えるのを辞めたヒーローはいるかい。ヒーローっていうのは、ちゃんと自分なりに考えてみんなを救うもんだ。僕たちは今日、大きな決断をした。そして二つのうちから一つを選び、僕たちの周りは静かになった。今ここでおーいって叫んでみろよ。誰も答えてくれやしない。クラゲのようにたゆたう、死んでしまった人間たちが、死後の世界で手を振り返してくれるぐらいが関の山だろうね」
僕はベンチに土足で立ち上がり、大きな声で「ヤッホー」と叫んだ。もちろん誰も答えてくれるものはいない。後藤さん家以外の面を見回してみたが何もない。真っさらだ。枯れた草原、燃えカスの雑草。そして地面に身を隠して災厄から逃れた小さな白い蛇の集団が、チョロチョロと蠢いているだけだった。
「世界は滅んだよ、僕だけを残して。これでもヒーローだって言えるのかな」
僕は目に涙を浮かべた。今更ながらに自分のした決断に、深くおののく。
目をつぶると、ほんの二十分前の出来事が目に浮かぶ。
あの時、ゼウスと対峙した時、彼は笑っていた。そして言ったことには、
「周りを見てみろ!善人は消えた!残りは罪を重ねた個人主義の人間だけだ」
周囲は、ビルの残骸がひっきりなしに舞っていて、紫色とピンク色の空がそれを吸い込んでいる。狂った磁気と時間軸が、針もデジタルの時計も進み、退かせた。ゼウスは続ける。
「人間は、いいやつから死んでいくというのが決まりなんだ。私を生かせば、残りの人間たちは生かしておいてやろう。もちろんお前は死ぬ。いいやつだからだ。生き残った悪い人間たちのために、お前一人だけ死ぬか、もしくは俺を倒して裏切り者とお前の二人だけ生き残るか、どちらがいいか選べ」
その時、僕は神への憎悪で一杯だった。にらみ付けて、持っていた銃の引き金に指をつけた。ゼウスは更に言う。
「どちらにしたって俺はいい。このまま悪人だけ生きていたところで、人間同士で騙し合って勝手に数が減っていく。俺の思惑通りのシナリオだ。人間を減らすのが俺のたまわった役目なんだ。さあ、俺を追い詰めたお前には、その銃の引き金を引く、引かないの自由が与えられた。どちらが良いか、すぐ決めろ」
僕は、目に入った血液と涙をシャツで拭って言った。
「お前は、父さんと母さんを殺した。俺の友人も亡くなった。ヒーローとして生きる俺は残った。悪人たちは生かしておくべきなのかわからない。しかし、今お前に対し憎悪の心だけが僕の心を支配している。正直、苦しいよ。この感覚は。この決断をできれば他の人に代わってもらい、外野から文句を言って、石を投げるだけの役に回りたいよ。・・・・・・だからといって ここでお前を逃がしたところで、引き金を引かなかったことと同じになるだけだ。僕は、僕に味方してくれた裏切り者のティタン神族の方を信じる。せいぜい苦しんで死んでくれ」
僕は引き金を引き、銃の投身からは銀とカルシウムの化合物が射出された。
神は死んだ。
地球はさっぱりしていた。視界を遮るものが何もなく、地平線がくっきり見える。今の地球は宇宙とひとつになっていることを実感させた。
ティタン神族である、神田が立ち上がった。六十五メートルはある彼は、僕をひとつまみすると自分の肩に乗せた。高いところから見る地球は、特に変化がなかった。高い場所から物を見るというのは、建造物の上から見るからこそ価値がある景色なのだ。
「一人きりにさせてすまない」
神田は謝った。頭を下げた風圧が僕の汗を拭った。僕は言った。
「君がいるじゃないか」
「しかし、不器用な私以外はもういない」
「子供が作れない僕たちはやがて死ぬ。地球を一周してみようか、どこまでもどこまでも二人で歩いて行って、そうして死んでいくというのはどうだろう」
「私から一つ提案がある」
そう言って神田は僕を人差し指の上に乗せた。
「君も両親のもとに送ってあげようか。人差し指と親指の間に君を乗せ、閉じるだけでその通りになれる。どうする」
僕は、心の中で父母や旧友達の姿と、幸せな場所へいくことを思い浮かべた。しかし、同時に、神田の顔も離れない。それならば。
「どうせ、同じところに行くんだ。今はまだ神田、君と生きたい。ここまで一緒だった君と別れるのも、それはそれで今は辛い」
「そうか・・・・・・」
神田が悲しげに言った後に、僕は言った。
「ここにもう一度世界を作ろう」
神田は驚いていたよ。でも、僕は思い出していた。彼はティタン神族の末裔だ。
「女がいないんじゃ、世界も社会も何も作れないじゃないか」
僕は思いついていた。
「忘れたのか、君はティタン神族の末裔。プロメテウスの血を継ぐ男じゃないか!君がもう一度、女の子を作れ。それからもう一度世界を作り直せばいい」
神田はぽかんとしたのち、じっと手を見た。
「私が・・・・・・?」
「そうだよ。もし可能なんだったら、その女の子、巨乳にしてくれ」
「おい、まずそれかよ」
僕と神田は笑いあった。
残った後藤さん家の敷地の中にある、鯉のぼりの親鯉子鯉が空を自由に泳いでいる。青い空を泳いでいる。
「おい、できたぜ」
神田が作った初めての人類は、アメーバによく似ていた。僕は、そのグラマラスな女の子を全力で愛そうと思う。
何年先になるだろうか。いつか、僕たちがいた世界のように、たくさんのいい人間と悪い人間とが入り混じるまで、僕たちは青い空の下で生き続ける。