第9話「瓦解」
使用人たちに支えられ、かかりつけの町医者に診察をしてもらった後はしばらく1人にしてくれと言って2階のバルコニーに出た。
時刻は既に深夜。心地良い夜風がレイナルドの頬をさらっていく。
「コーデリア……今晩は月が綺麗だ。君と一緒に見たかったよ……」
バルコニーで1人月を見上げながら、レイナルドは呟いた。
『コーデリア、君はあの月よりも美しい』
『もう。何度目かしら、あなたにそう言われるのって』
『君は美しい。この世の誰よりも。何よりも』
『褒めてくれるのはとても嬉しいわ。でも、今は静かに月を眺めて楽しみましょう?』
かつて月明かりの下で交わした些細なやり取りを思い出した。
「あの日はそれからずっと月を眺めていたね……。今日はあの日よりも、もっと鮮明に見えるよ。君と一緒に見たかった」
彼女の姿を思い出して、レイナルドの視界が滲む。
愛しい妻が変わり果てた姿となってしまった。それは悲しかった。でも、それ以上にレイナルドは深い自責の念に囚われていた。
「ごめんよ……コーデリア。僕は、君に何ということを……思って……!」
妻のあまりにも異様な光景を前にして、遂に我慢が出来なくなったレイナルドは叫んだ。心の中で叫んでしまった。
化け物と。醜い化け物だと。悪魔だと。
実際に声にこそ出さなかったが、心の中で発狂したかのように叫んでしまった。
たとえ彼女がどんな姿になろうとも、絶対に言わないはずだった。
あの誰よりも美しいコーデリアを前にして、どうしてそんなことが言えようか。
それはコーデリアがまだ何の異変も来たしていなかった頃から、つい今朝方までずっと思っていたことだ。
今のようになってしまって彼女は数え切れないほどの罵詈雑言を浴びてきた。
だからこそ、自分だけは何としてでも彼女の名誉と誇りを守らねばならなかったのだ。
コーデリアだって、望んでああなったわけではない。その証拠に、彼女は今まで暴食を行なっていた時に何度も涙を流し続けていたではないか。
行なっていることは野蛮そのものでも、心根はあの優しいコーデリアのままなのだ。
内面は昔と何一つ変わらない彼女のままだ。自分だけは外見だけで彼女を判断してはいけない。そう思っていたのに。
「うぅっ……!!」
気が付けば、レイナルドは大声を上げて号泣していた。
最愛の妻を醜いと思ってしまった自分のことを深く責めた。責め続けた。
夫としての責務を放り出して妻を罵倒し、あわよくば殺してしまえばいいと思ってしまった自分が許せなかった。
その場で力なく座り込んだレイナルドは子供のように泣きじゃくる。
穏やかで毅然としていた若き伯爵家当主の姿は既にそこにはなく、ただ己の罪悪感と無力さに押し潰されそうになっている哀れな青年がいるだけだった。
声が枯れ果ててもなお、レイナルドは泣き続けた。いつまでも自分の愚かさを悔いて鼻を啜った。呻き声のようにか細い声でコーデリアに謝り続ける。
そんな彼の姿を、月が照らしていた。
コーデリアに喰われたメイドは行方不明という扱いになった。
高給が目的の貧民だったからしばらくは騒がれないはずだ。
せめて彼女の遺族にはこれまで通りに給金を払ってやるように、としかレイナルドは言えなかった。
「私は死んだら地獄に行くのだろうね」
「……坊ちゃま。そのようなことは」
「いいのさ。元々、私は信心深い方ではなかったからね。信仰心などほとんどない。教会にはたくさんの寄付をしたから司教たちは喜ぶだろうが、神には許されないだろう。相応の裁きを受ける覚悟は出来ている」
「どうかご自分を責めるような真似はおやめくださいませ。奥さまのことに関しては、たとえどんな者であろうと解決など出来ようはずもない問題です。もしも神がいるのであれば、こんな惨状を黙って見ておられるはずがありません」
「パトリック。お前は神を否定するのかい?」
「若い頃には縋ったこともありますとも。ですが、すぐに悟りました。あんなものは私めには必要ないと。神に救いを求める者もいれば、いるのかどうかさえわからぬ者に縋ることほど愚かしいこともないのではないか。そう思う物もいるということです」
「そんなことを教会の関係者の前で言ってごらん。火炙りにされても文句は言えないよ」
「もっともでございますな」
ほっほと笑う老執事を見て、レイナルドはふっと微笑んだ。
「私はね、神はいるんじゃないかと思い始めている」
「……それはそれは。どのような心境の変わりようでございますかな」
「コーデリアはきっと悪魔に憑かれてしまったんだろう。彼女の現状を説明する方法が、それ以外に思いつかないからね」
「確かに、何が起きようとも普通はあそこまで……いや、失礼致しました」
「いいんだよ。そして、悪魔がいるということはまた神もいるということになるだろう。悪魔は元々は神に仕えていた者たちなのだから」
「確かに聖典にはそのように書かれておりますなぁ」
真面目に目を通してこなかった教会の聖典。
最近のレイナルドは時間を見つけてはそれを黙々と読んでいた。
「聖典によれば人はみな神の使徒に他ならない。悪魔を決して許してはいけないのだ。でも、私はコーデリアを見捨てたりしない。神が見放しても、私だけは絶対にどんな手を使ってでも最後まで彼女を守り続けたい。つまるところ、私は悪魔に肩入れする邪悪な人間なのだ。死ねば地獄に墜とされる」
「たとえ、誰もが坊ちゃまを悪魔の手先だと言おうとも、奥さまだけは決してそのようなことは仰いませんよ。無論、私めもそうです」
「ありがとう」
その時、レイナルドの書斎の扉がノックされた。
許可するとすぐに扉が開かれ、メイドが入ってきた。
「だ、旦那さま。奥さまはいつまでも食事を要求し続けていらっしゃいます。どうすれば」
「大変だろうけど、料理を続けてくれたまえ。食材はまた近いうちに届く。備蓄にも問題はないからね」
「……かしこまりました」
メイドが辞した後、レイナルドは溜息を吐いた。
「もはや、普通の食事では駄目なのかもしれないな」
「……恐らくは」
コーデリアは料理を食べるだけ食べ、その後に嘔吐することを繰り返した。
そして嘔吐したものにまた平然と口をつけるのだ。
だというのに、彼女の身体はまるで次々と良質な栄養を得たかのように膨れ上がっていき、今では座った状態で地下室の天井付近に頭がある状態だ。
「新しい食事を用意せねばなるまいかな」
「坊ちゃま。そのことについては引き続き私めにご一任くださいませ。もう既に取引先との連絡は密に行ない、近日中には手配されるようになっております」
「お前に何もかも押し付ける羽目になってしまっているな。すまない」
「よろしいのです。ただ私めにお任せ下さればそれで」
地下牢の清掃は古参の使用人たちによって行なわれていた。
1日で凄まじい量の吐瀉物と排泄物に塗れるため、連日のように古参の使用人たちが総出で働いている。
料理の方にまではほとんど手が回らないため、金に困っている貧民出のものや料理人などに任せているがそれでも人手が足りないほどだ。
この日の夜の当番はブレーゼ伯爵家に仕えて30年近くにもなるベテランのメイドだった。
今までこの伯爵家に仕えてきて数え切れないほどの恩義を受けたと自負している。
だが、そんな彼女にとってもこの苛烈極まる作業は苦痛以外の何物でもなかった。
「奥さま。お掃除を行ないますので、少しだけ我慢なさってくださいな」
パトリックとは違い、彼女は平民出のコーデリアに対してあまりいい印象を抱いてはいなかった。
見目麗しいのは確かだが、このくらいの女なら貴族にはいくらでもいる。どうしてこんな女を選んでしまったのか。
コーデリアがこのような事態に陥った今、その考えはより強固なものとして彼女の胸の中にわだかまりつつあった。
しかし、今日はいつもよりは楽だった。
コーデリアの食欲がぴたりと止まったのだ。
おまけに狂ったように地団太を踏むこともないため、清掃をスムーズにこなすことが出来る。
そのコーデリアはと言えば、遥か見上げる先からじっとこちらを見つめていた。
いや、正確には見つめているのかはわからない。ただ虚空を眺めているだけなのかもしれない。
だが、何となく視線を一身に受けているような気がして嫌な気分を拭い去ることは出来なかった。
蒸し暑くて悪臭のする空間で清掃を続ける。
気分は良くないが楽なのは確かだった。いつもなら不満げな唸り声を漏らして腕を振り回されて清掃どころではないからだ。
もうすぐで古参の執事が清掃作業に加わることになっている。ブレーゼ伯爵家に仕えて長い男だ。わけのわからない状況で逃げ出したいのを必死に堪えている部分も自分と変わらない。
大量の吐瀉物や排泄物にハエが集っている。
1日のうちに何度清掃をしてもこの光景は変わらない。
メイドはちらりとコーデリアの様子を窺った。
有り得ないほどに肥大化した彼女が着られる衣服などあろうはずもない。
今では身体に無理やり大きな布を被せているだけだ。その布も一日のうちに何度も交換しなければならないから大変だ。
着替えの際にはレイナルドが手伝おうとすることもあるのだが、もしも彼に万が一のことがあったらこの世の終わりと同義である。とてもではないが任せられなかった。
――こんな化け物のために、坊ちゃんはよくもまぁ。
彼は子供の頃からそうだった。誰よりも純粋で優しく、一度決めたことは頑として譲らない。
彼の中ではこんな姿になってしまったコーデリアもまた愛しい妻のままなのだろう。自分にはとても考えられないことではあるが。
ふと腰に痛みを覚えて、背中をぴんと伸ばして腰部を叩いた。
メイドという肉体労働に慣れたとは言え、寄る年波には勝てない。
身体が動く限りはブレーゼ伯爵家で働き続けたいと思っていたが、今では一刻も早く逃げ出したい気分でいっぱいだった。どうせ残り少ない命なら余生は静かに過ごしたいものだ。
鈍い腰痛が薄らいで気が緩んだ時、ふと顔にびちゃりと水気のあるものが落ちてきた。
思わず変な声を上げて目を開けると、真上には暗闇があった。
「……お、奥さま!? 一体何を」
年若いメイドが喰われた時のことを思い出す。
パトリックと共に後処理を行なったが、そこには人が喰われた痕跡のようなものがほとんど残っていなかったのであまり実感がなかった。
だからこそ油断していた。
老いたメイドはさっと身体を翻して急いで牢屋から出ようとしたが、途端に全身をがっしりと鷲掴みにされてしまう。
「ぐげぇっ!? ぐががっ……」
みしみしと万力のような力で締め上げられて、メイドは断末魔を上げた。
片手で人間1人をあっさりと捕まえるまでに肥大したコーデリアは、メイドを握り潰す。
ボギッと身体中の骨が砕かれる音がしたが、まだ息のあるメイドは必死に身体をばたつかせた。
コーデリアはその様を感情をまったく感じさせない瞳で見つめていた。
だが、その口端からは涎が垂れ落ちている。
暴れていたメイドが次第に力を失っていくのを感じながら、一気にその頭に齧りついた。
数分後、メイドの手伝いに来た執事が現場を発見し、屋敷の中は大混乱へと陥った。